第20話 小さな報告
ゲルダの家の戸が閉まる。
その直後、背後から声が弾んだ。
「お姉さん!」
振り向くと、クララが小走りで来る。
少し遅れてレナも追いつき、肩で息をついた。
レナの目には、あの夜の暗さがない。
まだ細いけれど、前を向く明るさが戻っていた。
「咲いたの!」
クララの手が迷いなく伸び、ルシアの手をつかむ。
引かれるまま、足が動いた。
湿った落ち葉が靴底に貼りつき、ぺた、と鳴る。
冷たい空気の奥で、土と枯れ草の匂いがはっきりしてきた。
広場の井戸の前でクララが立ち止まる。
振り返る目が、光っている。
「見て!」
ルシアは息を整えながら、指の先へ目を落とした。
周りの白を押し返すみたいに、淡い紫が一輪。
小さいのに、やけに目を引く。
「クララが見つけたんだよ!」
レナが先に言ってしまってから、クララは小さく頷いた。
「前に、お母さんが教えてくれたの」
花を見下ろしたまま、ぽつりと続ける。
「これ、クロッカスっていうんだって。春を知らせる花なんだって」
指先で、少し離れた土を示した。
蕾があった場所だ。
「薪集め大会のときは、まだ蕾だったの。……あれから、ちゃんと咲いたんだね」
言い終えても、クララの目は花から離れない。
小さな声なのに、どこか誇らしげだった。
「よく見つけたなぁ」
ルシアが言うと、クララの頬がじわっと赤くなる。
見つけたことも、覚えていたことも、どっちも嬉しい顔だ。
クララはもう一度花を見て、それから、そっと目を上げた。
「これ、神さまのところに持っていっていいかな?」
隣でしゃがみ込んでいたレナが、反射みたいに口を開く。
「でも神さまのところって……」
言いかけて、レナは息を止めた。
喉の奥で、言葉だけが引っかかる。
『人が大事にしてるもんは、それぞれやん?
やから、わざわざ踏みに行かんでもいいんやない』
この前のルシアの声が、頭の中をよぎる。
クララはレナを見ない。
クロッカスだけを見て、ゆっくり言う。
「教えたいの」
レナの目が揺れる。
口が開きかけて、閉じた。
ルシアはいったん息を吐いてから、クララの顔をのぞき込むように少しだけ身をかがめる。
「教える?」
「うん。春が来たよって」
ルシアは笑って、クララの肩に手を置いた。
そこにあるのは、見返りじゃない。まっすぐな気持ちだけだ。
クララはクロッカスを一輪だけ摘んだ。
根を傷つけないように、指先を震わせながら。
摘んだあと、両手で包む。宝物を持つみたいに。
冷えた花びらが、すぐに体温を吸っていく。
レナはその手元を、じっと見ていた。
手を伸ばしたいのに、伸ばせない子の目だった。
「レナも摘む?」
「……今日は、やめとく」
一拍遅れて返ってくる。
教会に花を持っていく、という言葉が、胸のどこかをこすって痛む。そんな顔だった。
ルシアはそれ以上は聞かず、立ち上がる。
「じゃ、行こっか」
教会へ向かう道は、日が当たる場所だけぬかるみ、影はまだ固い。
扉の前に立つと、風の音が一段落ちて、耳が妙に澄んだ。
中はひんやりしていた。
細い窓から斜めに薄い光が差し、埃の粒がゆっくり浮いている。
吸い込む空気が、外より少し古い。
子どもたちは、内陣と身廊を分ける木の仕切り、ルードスクリーンの手前で、自然に足を止めた。
ここから先は、近いのに遠い。
村の習いが、身体に染みている。
クララはクロッカスを両手で包み、そっと口を動かした。
「春が来たよ」
祈りとも違う。誓いでもない。
ただ、誰かに伝えたいという気持ちだけが、息になって出た。
クララの目が、供物台へ吸い寄せられる。
置きたい。そのまっすぐさが、視線に出る。
ルシアは一瞬だけ息を吐いた。
花の置き方ひとつで揉めた村の顔が、頭の端をかすめる。
ルシアは笑みを崩さず、やんわりと手を差し入れる。
ただ止めるというより、先に別の道を置く仕草だった。
「飾るのは……、今日はやめとこう」
クララが、きょとんとする。
「でも……」
ルシアは、声を落とす。
怖がらせない高さで、けれど誤魔化さない。
「クララの気持ちは分かる。でも最近、花のことで揉めごとがあったらしいから」
クララの指先が、花を包んだまま小さく縮む。
ルシアは続ける。言い方だけを柔らかくする。
「代わりにさ。帰ったら、お母さんに見せよ。“春が来たよ”って」
クララは唇を噛む。
うなずききれない。でも反抗もしない。揺れる顔だった。
その揺れを、ルシアは急かさない。
代わりに、レナの足元へ目を落とす。
靴紐がほどけかけていた。
ルシアはしゃがみ、手早く結び直す。
その間、クララは袖の影で小さく動いた。
供物台の縁の影に、クロッカスがひとつ、そっと収まった。
「はい。これで転ばん」
「ありがとう」
ルシアが顔を上げたとき、クララの視線は供物台の端に刺さっていた。釘みたいに、動かない。
ルシアは切り替えるように言う。
「そろそろ行こっか」
扉へ向かって一歩踏み出した。
「クララ?」
呼びかけると、クララは肩を跳ねさせた。
それでも顔だけは持ち直し、口の端を上げて笑った形を作る。
「ううん、平気!」
クララは先に扉へ駆け、手をかけた。
それに続いてルシアが出て、最後にレナ。
扉が閉まる音が、背中で小さく響いた。
外の空気は明るいのに、クララが大事に両手で持った紫だけが目の奥に残る。
レナは一歩、外へ出たのに、すぐには歩き出さなかった。
閉じた扉を、もう一度だけ振り返る。
クララは花を摘んだけど、自分は摘んでいない。
口の中で言い返しが転びかけて、また、飲み込む。
代わりに、息を吸い直した。
「ねえねえ! もう終わり?」
レナが、明るい声を差し込んだ。
クララが振り向く。
「まだ朝だよ!」
レナは肩をすくめるみたいに笑う。
笑いながらも、目だけはクララの手元を追っていた。
少しだけ逡巡して、手を伸ばす。
「……だからね、遊びに行こ?」
引っぱるほど強くは握らない。
指先で、確かめるみたいに触れてから、そっと握る。
クララは驚いた顔をして、レナの手を見た。
それから、笑った。




