表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/25

第17話 借りものの泥

 レナに声をかけたあと、ルシアはロルフの見回りに同行するつもりだった。

 だが、結局は夕方まで子どもたちと遊び倒した。


 森の縁を駆け、枝を揺らして雪を落とす遊びをしたり、雪解けの匂いが濃くなった土を踏んだり。

 春が近いことだけは、子どもたちの笑い声より先に分かった。


 その間、ロルフは村の端から端までを歩き、家の戸口の様子や畑道の足跡を確かめ、必要な声かけだけを落として回った。

 視線だけが、時々泥だらけの女へ戻る。


 合流したのは、日が傾きはじめた頃だった。

 炊事の煙が低く漂い、子どもたちの頬が冷えはじめる時間だ。


 最後の遊びがほどけると、子どもたちはそれぞれの家へ散っていった。

 その背が角を曲がって見えなくなったところで、足音がひとつ増えた。


 振り返る前に、並ぶ気配がある。


「……あなたは、すぐ泥まみれになるな」


 ロルフは第一声からそれだった。

 ルシアの裾も膝も、乾きかけの泥でまだらになっている。


 それだけではない。

 頬にも薄く、泥が跳ねていた。


「遊んでたら、こうなるのよ」


 ルシアは平然と胸を張った。

 言い切ったあとで、袖口の端にこびりついた泥が目に入る。


「……まって、これ借りもんやん」


 声の調子が、半拍だけ落ちた。


 ルシアは袖を押さえ、借りた布に泥が移らないように身をすくめた。

 きれいにして返したい、という意識だけは先に立つ。


 けれど、動いた拍子に乾いた泥がぱらぱらと落ちる。

 地面に散ったそれは、音だけやけに軽い。


「うわ……」


 ルシアは思わず目を見開き、すぐ口元を押さえた。

 叱られるのが怖いのではない。借りた相手の顔が、先に浮かんだのだ。


 ロルフはそれを黙って見ていた。

 止めもしないし、責めもしない。


「……でも、そろそろ返さなよね」


「元々着ていた服なら、巡回の間に預かった。部屋に置いてある」


 淡々とした声。

 だが、必要なところだけ抜かない。


「助かるわぁ」


 ルシアはほっと息をつく。

 借りたまま汚している負い目が、顔に出ていた。


「この服洗って乾かしたら、お礼言いに行かなな」


 ロルフは黙ったまま、ルシアの足元に落ちた泥の粉へ視線を落とす。

 それから袖口、裾へと目を滑らせ、汚れの具合を一通り確かめた。


 最後に、頬。

 薄く跳ねた泥に視線が止まり、ロルフは短く息を吐いた。


「まず今の自分を何とかしろ」


 ロルフの声は低い。

 叱るというより、当然の段取りを並べる声だった。


「あ、そうそう。身体も拭きたいんやった」


 ルシアは首元を指でこすって眉を寄せる。

 走り回ったせいで、皮膚の上に薄い汗が張りついている感じが残っていた。


「昨日も今日も動きすぎて、身体中べたべたやわ」


「……昨夜、布で肌を拭かなかったのか?」


 ロルフの眉間に皺が刻まれる。

 不機嫌というより、理解できないものを見る顔だ。


「部屋入ったら、すぐ寝ちゃって」


 ルシアはへへ、と笑った。

 笑ってごまかした瞬間、自分でも言い訳っぽいと気づいたのか、視線を逸らす。


「……もしかして、臭い?」


 ルシアは冗談めかして一歩寄った。


「におわせるな」


 ロルフは即座に半歩引いた。

 その反応が早すぎて、ルシアは吹き出しかける。


「帰ったらすぐに綺麗にしろ。

司祭殿が部屋に一式、準備してくれているはずだ」


「司祭様、ほんと細やかやわぁ」


 ルシアは少しだけ反省した顔で、自分の袖口を見た。

 世話になる相手に、余計な手間を増やしている。


「あんたは……拭いとるん?」


 ルシアの目が、ロルフの首元と手首に向く。

 鎧の隙間から覗く肌は、汗の気配があるのに不快さが薄い。


「鎧は蒸れる。朝の鍛錬の後と夜。拭けるときは拭く」


 言い方が淡々としているのが、逆に本気だった。

 ルシアは、無骨そうな男ほど雑だと思い込んでいた自分を少し恥じた。


「頭も洗いたいんやけど、皆、どうやって洗いよん?」


「……帰りながら話す」


 ロルフは短く言って歩き出す。

 説明より先に、まず部屋へ戻らせる判断が見えた。


「髪、長いから大変そうやわ」


 ルシアは自分の髪を指に巻き、すぐにほどいて顔をしかめた。

 指を通すたび、細い糸みたいな絡まりが増えていく。


「長いからには、ちゃんと手入れせん……」


 途中で言葉が詰まる。


「……手入れしないと、いけないですわね」


 妙に上品な口調が混じった。

 自分で言って、自分で首をかしげる。


 ロルフが足を止め、怪訝な顔で振り返る。


「……なにがあった」


「昨日レナに言われたの思い出して」


 ルシアは指を立てて言う。


「“おばあちゃんみたいな喋り方”って。

子ども相手にはいいけど、大人相手にそれやと、余計な誤解を生むやろ?」


「誤解?」


「村ってのは、どこも噂が早いモンよ。

変な呼ばれ方が増えたら、あんたの仕事が増えそうやん」


 ルシアは言い切って、肩をすくめた。


「だから、今のうちに切り替え癖つけとこうと思って」


 ロルフは一拍、黙った。


「……とりあえず、その喋り方はやめておけ。無理しているようにしか見えない」


 言い捨てるように言って、ロルフは歩き出す。

 ルシアは口を尖らせかけて、やめた。


 その夜。

 司祭が用意してくれた湯と布と、固形の石鹸で、ルシアはようやく身体を整えた。


 汗の膜が落ちて、首筋が軽くなる。


 髪だけは手強かった。

 指を通すたび、絡まりが指に引っかかる。


「うわ、絡まり増えとるやん……」


 弱音がこぼれたとき、扉の向こうで足音が止まった。


「苦戦しているのか」


 ロルフの声だった。


「してる。髪が言うこと聞かん」


 静けさが、ひとつ落ちた。

 そして短い溜息。


「明日、司祭殿に梳き櫛のことを聞け。油の話もだ」


「詳しいやん」


「必要だから知っているだけだ」


 足音は遠ざかった。

 その不器用な気遣いに、ルシアは思わず笑ってしまった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ