第17話 借りものの泥
レナに声をかけたあと、ルシアはロルフの見回りに同行するつもりだった。
だが、結局は夕方まで子どもたちと遊び倒した。
森の縁を駆け、枝を揺らして雪を落とす遊びをしたり、雪解けの匂いが濃くなった土を踏んだり。
春が近いことだけは、子どもたちの笑い声より先に分かった。
その間、ロルフは村の端から端までを歩き、家の戸口の様子や畑道の足跡を確かめ、必要な声かけだけを落として回った。
視線だけが、時々泥だらけの女へ戻る。
合流したのは、日が傾きはじめた頃だった。
炊事の煙が低く漂い、子どもたちの頬が冷えはじめる時間だ。
最後の遊びがほどけると、子どもたちはそれぞれの家へ散っていった。
その背が角を曲がって見えなくなったところで、足音がひとつ増えた。
振り返る前に、並ぶ気配がある。
「……あなたは、すぐ泥まみれになるな」
ロルフは第一声からそれだった。
ルシアの裾も膝も、乾きかけの泥でまだらになっている。
それだけではない。
頬にも薄く、泥が跳ねていた。
「遊んでたら、こうなるのよ」
ルシアは平然と胸を張った。
言い切ったあとで、袖口の端にこびりついた泥が目に入る。
「……まって、これ借りもんやん」
声の調子が、半拍だけ落ちた。
ルシアは袖を押さえ、借りた布に泥が移らないように身をすくめた。
きれいにして返したい、という意識だけは先に立つ。
けれど、動いた拍子に乾いた泥がぱらぱらと落ちる。
地面に散ったそれは、音だけやけに軽い。
「うわ……」
ルシアは思わず目を見開き、すぐ口元を押さえた。
叱られるのが怖いのではない。借りた相手の顔が、先に浮かんだのだ。
ロルフはそれを黙って見ていた。
止めもしないし、責めもしない。
「……でも、そろそろ返さなよね」
「元々着ていた服なら、巡回の間に預かった。部屋に置いてある」
淡々とした声。
だが、必要なところだけ抜かない。
「助かるわぁ」
ルシアはほっと息をつく。
借りたまま汚している負い目が、顔に出ていた。
「この服洗って乾かしたら、お礼言いに行かなな」
ロルフは黙ったまま、ルシアの足元に落ちた泥の粉へ視線を落とす。
それから袖口、裾へと目を滑らせ、汚れの具合を一通り確かめた。
最後に、頬。
薄く跳ねた泥に視線が止まり、ロルフは短く息を吐いた。
「まず今の自分を何とかしろ」
ロルフの声は低い。
叱るというより、当然の段取りを並べる声だった。
「あ、そうそう。身体も拭きたいんやった」
ルシアは首元を指でこすって眉を寄せる。
走り回ったせいで、皮膚の上に薄い汗が張りついている感じが残っていた。
「昨日も今日も動きすぎて、身体中べたべたやわ」
「……昨夜、布で肌を拭かなかったのか?」
ロルフの眉間に皺が刻まれる。
不機嫌というより、理解できないものを見る顔だ。
「部屋入ったら、すぐ寝ちゃって」
ルシアはへへ、と笑った。
笑ってごまかした瞬間、自分でも言い訳っぽいと気づいたのか、視線を逸らす。
「……もしかして、臭い?」
ルシアは冗談めかして一歩寄った。
「におわせるな」
ロルフは即座に半歩引いた。
その反応が早すぎて、ルシアは吹き出しかける。
「帰ったらすぐに綺麗にしろ。
司祭殿が部屋に一式、準備してくれているはずだ」
「司祭様、ほんと細やかやわぁ」
ルシアは少しだけ反省した顔で、自分の袖口を見た。
世話になる相手に、余計な手間を増やしている。
「あんたは……拭いとるん?」
ルシアの目が、ロルフの首元と手首に向く。
鎧の隙間から覗く肌は、汗の気配があるのに不快さが薄い。
「鎧は蒸れる。朝の鍛錬の後と夜。拭けるときは拭く」
言い方が淡々としているのが、逆に本気だった。
ルシアは、無骨そうな男ほど雑だと思い込んでいた自分を少し恥じた。
「頭も洗いたいんやけど、皆、どうやって洗いよん?」
「……帰りながら話す」
ロルフは短く言って歩き出す。
説明より先に、まず部屋へ戻らせる判断が見えた。
「髪、長いから大変そうやわ」
ルシアは自分の髪を指に巻き、すぐにほどいて顔をしかめた。
指を通すたび、細い糸みたいな絡まりが増えていく。
「長いからには、ちゃんと手入れせん……」
途中で言葉が詰まる。
「……手入れしないと、いけないですわね」
妙に上品な口調が混じった。
自分で言って、自分で首をかしげる。
ロルフが足を止め、怪訝な顔で振り返る。
「……なにがあった」
「昨日レナに言われたの思い出して」
ルシアは指を立てて言う。
「“おばあちゃんみたいな喋り方”って。
子ども相手にはいいけど、大人相手にそれやと、余計な誤解を生むやろ?」
「誤解?」
「村ってのは、どこも噂が早いモンよ。
変な呼ばれ方が増えたら、あんたの仕事が増えそうやん」
ルシアは言い切って、肩をすくめた。
「だから、今のうちに切り替え癖つけとこうと思って」
ロルフは一拍、黙った。
「……とりあえず、その喋り方はやめておけ。無理しているようにしか見えない」
言い捨てるように言って、ロルフは歩き出す。
ルシアは口を尖らせかけて、やめた。
その夜。
司祭が用意してくれた湯と布と、固形の石鹸で、ルシアはようやく身体を整えた。
汗の膜が落ちて、首筋が軽くなる。
髪だけは手強かった。
指を通すたび、絡まりが指に引っかかる。
「うわ、絡まり増えとるやん……」
弱音がこぼれたとき、扉の向こうで足音が止まった。
「苦戦しているのか」
ロルフの声だった。
「してる。髪が言うこと聞かん」
静けさが、ひとつ落ちた。
そして短い溜息。
「明日、司祭殿に梳き櫛のことを聞け。油の話もだ」
「詳しいやん」
「必要だから知っているだけだ」
足音は遠ざかった。
その不器用な気遣いに、ルシアは思わず笑ってしまった。




