第14話 腕の中の重み
村の入り口に、松明を持った大人が数人、固まっていた。
火の揺れが顔の陰を濃くしている。
雪解けの湿った風が、煙を細く引いた。
彼らはロルフたちを見つけるなり、息をほどいたように駆け寄った。
先頭の男は声だけが大きい。
だが、松明を握る手は震えていた。
「よかった!森に入ったって聞いた時は、どうなるかと思いましたぜ」
言いながらも視線は落ち着かない。
松明の火が、何度も同じところを照らしては逸れる。
暗い森へ誰かが入った。
それだけで村の夜はざわつく。噂は足より速い。
「うちの村のモンが迷惑を……」
言いかけた男は、ルシアの腕の中を覗き込み、声を落とす。
「……寝てるのか」
ルシアは、起こさないように小さく頷いた。
男たちの肩から一気に力が抜ける。
座り込む者までいた。
誰かが松明を地面に突き、膝に手をつく。
「……よかった」
誰に向けた言葉か分からない呟きが、火の間を転がった。
ロルフは周囲を一瞥し、男たちの息の乱れと足の泥を確認した。慌てて集まったのが分かる。
「とりあえず、その子の家へ案内しますぜ」
「あぁ、頼む」
ロルフが短く返す。
ルシアは男の背を追い、灯の列に混じって村へ入った。
土の道はもう暗い。戸口の灯が点々と並び、影が細く伸びている。
「こっちだ」
声の大きい男が指で示す。
その先へ急ぐ足音が増え、戸口をいくつか飛ばすように抜けた。
屋根の影が濃い家の前で、ようやく足を止める。
戸口の灯が揺れて、濡れた地面に淡い色がにじんだ。
戸を叩くと、ほどなく女が飛び出してきた。レナの母親だった。
髪を結う暇もなかったのか、長い髪が背中に散っている。
目の下が赤い。息が切れているのに、言葉だけが先に出る。
「よかった!なんとお礼を言えば……」
礼の言葉が喉で絡んで、ほどけない。
ルシアは礼より先に、腕の中の小さな重みを見た。
眠っているのに、レナの眉はわずかに寄っていた。
指先もまだ、何かを握りしめるように力んでいる。
夢の中でも、森の暗さを抱えているのだろう。
「……小さい身体で、たくさんたくさん、考えたんやろうなぁ」
その一言に、母親の顔がきゅっと歪んだ。
怒りたいのに、叱りたいのに、今はただ、帰ってきたことが嬉しい。
その感情が交じって、言葉がうまく出ない。
ルシアは部屋へ入り、寝台にレナをそっと横たえた。
寝台の藁がわずかに鳴る。
「今夜は、ゆっくり休みな」
髪を指で梳くように撫でる。
レナはくすぐったそうに身じろぎしたが、目は開かない。
寝息だけが整っていく。
握っていた指が、少しずつほどけた。
母親が両手を胸の前で組み、何度も頭を下げた。
「朝になったら、きつく言い聞かせます。二度と、こんな……」
「夜の森は危ないからな」
ロルフが淡々と言う。
叱責ではない。確認の言葉だ。
母親はそれに頷いたが、視線が落ち着かない。
壁に掛かった木の十字と、ロルフの腰の剣とを、行ったり来たりしている。
十字の前で立ち止まるでもなく、祈りの仕草を作るでもない。
ただ目だけが、そこへ戻ってしまう。
壁の十字の周りには何もない。花も布も、聖人の絵も置かれていない。
飾れば安心する、と教わってきた家ではない。
祈りは飾りじゃない。そういう置き方だった。
レナの母親は、口を開きかけて閉じた。
言い方ひとつで、明日の村の空気が変わると知っている顔だった。
「それも、なのですが……」
母親の声が、最後で潰れた。
恐れているのは礼儀ではない。
明日、村の誰かがそれを聞きつけ、火種にすることだ。
「騎士様へ十字を切るのは意味がない、とまで言ったそうで」
言い切った瞬間、母親の肩がわずかに落ちる。
口にしてしまった。
これでもう、後戻りできない。
「うちでは、騎士様が来ても、十字を切らなくてもいいと教えてしまっていて……」
母親は言い切れず、視線を落とした。
“教えてしまった”という言い方に、罪の形がにじむ。
間違いだったのか、間違いではないのか。
村の中では、それをはっきり言えない。
「気にしていない」
ロルフは表情を動かさない。
ただその声は、母親の焦りを受け止めるだけの重さを持っていた。
「今日はあなたも疲れただろう。休め」
母親は安堵したように息を吐いたが、まだ完全には戻らない。
ロルフはそれ以上踏み込まず、ルシアへ目配せして家を出た。
今ここで踏み込めば、母親の恐れはさらに深くなる。
外に出ると、夜の冷えが一段強く感じた。
松明の列が散り、火が一つ、また一つと遠ざかる。
「我々も休もう」
ロルフが歩き出す。
「あなたは司祭館の離れで寝泊まりできるそうだ」
「司祭館?」
「教会の裏にある建物だ。司祭殿が暮らしている」
一拍置いて、ロルフは続ける。
「私は教会の一室で泊まる」
「ほーん。一人で大丈夫なん?」
ルシアの声音は、いつもの軽さを取り戻していた。
だが、その軽さの下で、呼吸が少し浅い。
寒さと疲れを笑いで覆う癖がある。
ロルフにはそれが分かった。
「誰にものを言っている」
ロルフは口では刺したが、胸の内では少しだけ息が楽になった。
彼女は逃げなかった。
知らぬ亀裂を見ても、目を逸らさず、子どもの前に立った。
子どもの口から出る、“作法の違い”。
たったそれだけで、村の空気が凍る。
境界巡察騎士団が思っているより、根は深い。
ロルフは、ルシアが抱えたまま眠り落ちたレナを思い出し、奥歯を噛んだ。
あの小さな重みは、単なる迷子ではない。
村が抱える裂け目の上に、ちょうど落ちてしまったのだ。
ロルフは一度だけ息を吐き、思考を切り離すように視線を前へ戻した。
立ち止まっても、答えは出ない。今は、手を動かす順番が先に来る。
教会の前を通ると、窓から灯りが漏れていた。
揺れる明かりに人影がいくつか重なり、椅子を引く気配が短く鳴っていた。
教会裏の司祭館に着くと、戸は閉まっていた。
だが中に気配がない。司祭館という建物ごと留守にしている、という静けさだった。
普段なら話は司祭館でまとめる。
今日は、教会に人が寄せられている。十字の件を夜のうちに収めるためだろう。
司祭がルシアをまず休ませる順番にしたのだと、ロルフはそこでようやく腑に落ちた。
ロルフは戸に手をかけ、押す。
鍵は掛かっていなかった。
中へ入ると、冷えた石の匂いに、薪の名残が薄く混じっている。
廊下は細い。床板がわずかに鳴るのを、ロルフの歩幅が先に殺した。
離れへ向かう。
渡りの短い廊下を抜けた先に、小さな部屋がひとつあった。
扉を開けると、部屋は静かだった。
火は落ちているが、冷えきってはいない。昼のうちに残った温みが、板の隙間にまだ沈んでいる。
壁際には、木を打ちつけただけの簡単な棚があり、薄い冊子が数冊、背を揃えて立っていた。
祈りの言葉を写したものか、暦の覚え書きか。多くの手に渡ってきたのか、角は丸く、背表紙はこすれて題は読めない。
寝具は藁と布を重ねたものだった。
布は粗いが、洗われている匂いがする。指で撫でれば、繊維がきしりと鳴りそうな手触りだ。
「司祭館の詳しいことは明日聞く。今は、休め」
言い残して、ロルフは一歩だけ引く。
「うん、おやすみ」
ロルフが扉を閉める手つきは丁寧だった。音を立てない、というより、ここから先を区切る手だった。
戸が閉まる。
静けさが、部屋に落ちる。
ルシアは息を吐き、肩をわずかに緩めた。
「……色々あったなぁ」
独り言に近い声だった。
その一言が、今日の終わりみたいに、部屋の中へ沈んでいった。
ルシアは靴紐をほどくのも忘れ、外套を椅子に投げたまま寝台へ沈んだ。
身体の芯まで冷えていたはずなのに、眠気のほうが早い。
まぶたが重い。思考がほどける。
火のない部屋の暗さは、昼の暗さと違う。
眠る前に感じる暗さは、触れられるほど濃い。
目を閉じる直前、遠くで犬が一度だけ吠えた。
返す吠えはない。
それからは、何も聞こえなくなった。




