第9話 派遣は終わりましたが、仕事は続きます
九月二十九日。
王都騎士団の施療室の重い扉を開けると、昨日までと同じ、血と消毒薬と薬草の青臭い匂いがした。
「おはようございます」
「おお、ハーウェル嬢。早速来てくれたか」
グレン医師が、帳簿から顔を上げて深く頷いた。
昨日、本院の院長から「救護連携勤務」の辞令を受けた私は、今日からまたここへ通っている。
十一月末までの約二ヶ月間。週の半分を本院で、残りの半分を騎士団の施療室で務めることになった。
「灰狼の毒の急患が、例年よりずっと早いペースで増えている。君が引き続き前線の処置に入ってくれると助かる」
「はい。よろしくお願いいたします」
私は荷物を置き、いつもの低い作業台の前に立った。
恋愛による便宜で残ったわけではない。純粋に、現場が人手を必要としているからだ。昨日決意した「彼が信じるまで見せる」という戦いが、職場が同じである以上、物理的にやりやすくなったのは事実だが。
午前中の処置の準備をしていると、廊下から重い足音が聞こえてきた。
窓からの光が完全に遮られ、私の背中に巨大な影が落ちる。
振り返ると、ダリウス様が立っていた。
黒い軍服姿の彼は、私を見て、わずかに足の動きを止めた。黒い瞳が、少しだけ見開かれている。
「……なぜ、いる」
ひどく低い声だった。
「昨日で、派遣は終わったはずだ」
私は振り返り、姿勢を正した。
「昨日の夕方、本院の院長とこちらの医務責任者の間で決定いたしました。十一月末まで、本院と騎士団の救護連携勤務に就きます」
ダリウス様は瞬きをした。
「連携勤務」
「はい。週に二日は、引き続きこちらの施療室へ参ります」
ダリウス様は、私の言葉を頭の中で反芻しているようだった。
やがて、その太い眉がゆっくりと寄せられた。
「……つまり、昨日求婚しなくても、会えたということか」
この方は、まだ状況の辻褄合わせをしようとしている。
私の言葉を理解できないのではない。理解した先にある「自分が選ばれた」という可能性から身を守るため、私を「派遣が終わる前に副団長との仲介を頼んだ令嬢」という安全な箱へ戻そうとしているのだ。
私は、即座に首を横に振った。
「連携勤務が決まったのは、私が本院へ戻った後のことです。昨日の時点では存じ上げませんでした」
「そうか」
「ですが」
私は、彼を真っ直ぐに見上げた。
「知っていたとしても、私は昨日求婚しました」
ダリウス様の肩が、わずかに動いた。
「私があなたを慕っているのは、仕事の都合ではありません。明日から会えなくなるから求婚したわけでも、会えるなら言わなくていいわけでもありません」
部屋が静まり返った。
彼の顔には、作戦の前提条件が根本から覆った指揮官のような、純粋な戸惑いがあった。
五年かけて彼の中にこびりついた「若い令嬢の好意はジュリアン向け」という強固な経験則が、音を立てて崩れたのが分かった。
「……俺、なのか」
「はい。求婚している相手は、ダリウス様です」
そこへ、開け放たれた扉から金髪の副団長が入ってきた。
「団長。昨日の討伐報告書の決裁が……」
ジュリアン様は、書類の束を抱えて口を開きかけ、私とダリウス様の対峙を見て動きを止めた。
ダリウス様はハッとして、自分の軍服の懐から、四つ折りにした紙を取り出した。
昨日、彼が律儀に書き上げていた「ジュリアン様との面会候補日と贈答品一覧」の紙だ。彼はそれを、ジュリアン様へ差し出そうとした。
「ロシュ。これだが」
思考が追いついていないのだ。自分の経験則の外にある事態を処理しきれず、作戦が破綻しているのに、とりあえず昨日の続きの行動で間を持たせようとしている。
ジュリアン様は、その紙と、私の呆れた顔を交互に見た。
そして、一切の表情を動かさずに、冷ややかな声で言い放った。
「お断りします」
「なぜだ。これは……」
「副団長の職務外です」
ジュリアン様は、ピシャリと言い切った。
「俺は報告書の決裁をもらいに来ただけです。ご自身の縁談の処理は、ご自身でなさってください。俺は関与しません」
それだけ言うと、ジュリアン様は報告書の束をダリウス様の分厚い胸に押し付け、さっさと踵を返してしまった。
残されたダリウス様は、胸に押し付けられた報告書と、自分の手にある四つ折りの紙を、交互に見下ろしていた。
私は、低い作業台の前に戻った。
「ダリウス様」
彼がこちらを見る。
「灰狼の毒消しの在庫が、少し心許ないようです。近いうちに薬院へ補充の要請を出しておいていただけますか」
「……ああ。分かった」
ひどく低い声が返ってくる。
彼は四つ折りの紙をゆっくりと破り、部屋の隅の屑籠へ捨てた。
派遣は終わった。
的外れな誤解も、これで終わったはずだ。
ここからは、彼が私からの好意を「自分向けのものだ」と信じられるかどうかの戦いになる。
秋の深まりとともに、例年より早く活発化した灰狼の気配が、確実に王都のすぐそばまで迫っていた。




