第10話 九人のうちの一人
十月に入り、朝夕の冷え込みが一段と厳しくなってきた。
この日は、私が本院で勤務する日だった。
施療院の奥にある会議室で、月に一度の慈善委員会が開かれていた。王都の貴族夫人が集まり、寄付金の使い道や施療院の運営方針について話し合う場だ。
私は貴族奉仕助手として、現場の報告をするために末席に座っていた。
「……以上が、先月分の薬草の使用報告です。また、皆様にご報告があります」
私は手元の資料を一枚めくった。
「私ことクラリス・ハーウェルは、六週間の騎士団施療室への派遣勤務を終えました。しかし、街道での灰狼の被害増大に伴い、十一月末まで引き続き、騎士団と本院の救護連携勤務に就くことになりました」
会議室に、小さなどよめきが起きた。
貴族令嬢が血生臭い騎士団へ通い続けることへの驚きもあるだろうが、それだけではない空気が混じっていた。
「まあ、引き続き騎士団へ……」
「では、まだあの方とお会いになる機会があるのね」
扇の陰から、ひそひそと囁き合う声が聞こえる。
その中で、一人だけ表情を硬くしている方がいた。
マリアンヌ・フェルナー夫人だ。
私より少し年上の、若く美しい既婚の貴婦人である。彼女は扇を閉じ、少しだけ険しい目で私を見た。
「ハーウェル嬢」
「はい、フェルナー夫人」
「あなたは、なぜそこまでして騎士団へ通うのですか? 奉仕活動は立派ですが、若い未婚の令嬢があのむさ苦しいむくつけき男たちの……いえ、あの団長に近づくのは、あまり感心しませんわ」
夫人の言葉には、明らかな棘があった。
ただの心配ではない。私が何かよからぬ目的を持って、ダリウス様に近づいていると確信しているような口調だった。
「利用しない方がいいわ。あの方の親切につけ込んで、自分の目的を果たすような真似は」
利用する。
その言葉の意味するところに思い当たり、私は静かに首を横に振った。
「夫人。誤解があるようですが、私が騎士団へ通うのは、彼らを利用するためではありません。現場が私を必要とし、私もまた、ダリウス・ベルグ団長のもとで働くことを望んでいるからです」
「……」
「私は、ダリウス様ご自身に敬意を抱いております。副団長へ取り次いでもらうためではありません」
会議室が、一瞬シンと静まり返った。
マリアンヌ夫人は、目を見開いた。彼女の顔から棘が消え、代わりに、深い羞恥と驚きが広がっていくのが分かった。
会議が終わり、他の夫人たちが席を立つ中、マリアンヌ夫人が私に声をかけてきた。
「ハーウェル嬢。少しだけ、よろしいかしら」
私たちは会議室の隅の窓辺に移動した。
夫人は窓の外の枯れ葉を見つめたまま、ぽつりと口を開いた。
「……ごめんなさい。私、あなたも私と同じだと思ってしまったの」
「同じ、とは?」
「あの人に近づいて、ジュリアン副団長を紹介してもらおうとしているのだと」
夫人は自嘲するように笑った。
「私、結婚する前、あの方へ手作りの焼き菓子を持って行ったことがあるの。三回も。あの方はいつも真面目な顔で受け取って、丁寧な礼状をくださったわ。だから、四回目にお願いしたの。ロシュ卿の夜会の予定を教えてくれないかって」
彼女の指が、持っていた扇の房をきつく握りしめている。
「あの方は、怒りもしなかった。ただ『分かった』と言って、ロシュ卿の空き時間を書いた紙を渡してくれた。……私、あの時のあの方の、何も期待していないような、冷めた目を見た時、自分がどれほど残酷なことをしたのか、初めて気づいたのよ」
夫人の告白を聞きながら、私は胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じた。
怒りではない。
ダリウス様の「経験則」の重さが、具体的な手触りを持って私にのしかかってきたからだ。
手作りのお菓子。三回の訪問。
それだけの時間をかけて「親切」を装い、最後に本命の男への橋渡しを要求する。
そんなことを、あの不器用で律儀な男は、何度も、何度も繰り返されてきたのだ。
「今は、別の男性と結婚して幸せに暮らしているわ。でも、騎士団の話を聞くたびに、あの時の自分の浅ましさを思い出してしまって……」
夫人は深く頭を下げた。
「本当に、ごめんなさい。あなたの真剣な気持ちを、私のくだらない過去と一緒に勘違いしてしまった」
「……いいえ、謝らないでください」
私は静かに答えた。
「教えていただいて、ありがとうございます。私は、あの方がどれほど深い傷を抱えているのか、少しだけ理解できた気がします」
その日の夕方。
私は騎士団へ立ち寄り、廊下でジュリアン様を捕まえた。
「ロシュ副団長。一つだけ、確認させてください」
「何ですか、改まって」
「フェルナー夫人から、過去のお話を伺いました。彼女のように、ダリウス様を利用してあなたへ近づこうとした令嬢は、本当に九人いたのですか?」
ジュリアン様は、わずかに目を伏せた。
「……九人です。団長が今の地位に就いてから五年、私が把握している限りでは」
彼はそれ以上、何も言わなかった。私を同情させようとも、ダリウス様を擁護しようともしなかった。ただ、冷酷な事実の数だけを返した。
九人。
私は壁に寄りかかり、目を閉じた。
彼が私の求婚を信じられないのは、鈍感だからではない。
自分の顔の傷と巨大な体が、美しい副団長と並んだ時にどう見えるか。それを嫌というほど思い知らされてきたからだ。
同情で恋を強めたりはしない。私はもう、彼が好きだから。
ただ、戦い方を変えなければならないと確信した。
言葉で「あなたが好きだ」と伝えるだけでは足りない。
彼が「自分は選ばれない」と信じ込んでいるその理由そのものを、私が真っ向から壊さなければならないのだ。




