第11話 雨の前の古傷も、あなたの顔も
十月の上旬。
この日は朝から空が重く、雨の前のひどい湿気が施療室に立ち込めていた。
私は薬草を刻む手を止め、入り口の扉から入ってきた巨大な影を見た。
「ダリウス様。報告書の提出ですか」
「ああ」
ダリウス様は、ジュリアン様の机に書類の束を置いた。
彼の動きは、一見いつも通りだった。作戦書のように正確で、無駄がない。
だが、私には分かった。
書類を机に置く直前、彼の左腕の動きがほんのわずかに硬かった。そして、いつもなら書類の角を揃えるはずの太い指が、今日は揃えることなくすぐに手元へ戻された。利き腕である右腕ではなく、左腕の痛みを庇うための無意識の動作だ。
私は作業台から離れ、壁際の棚から清潔な布を取り出した。
洗面器に湯を注ぎ、布を浸して硬く絞る。
「ダリウス様、少しよろしいですか」
「……俺は怪我をしていないぞ」
「存じています。ですが、椅子にお座りください」
彼はわずかに眉を寄せたが、私の手にある温かい布を見て、小さく息を吐きながら丸椅子に腰を下ろした。
私は彼の隣に立ち、左腕の軍服の袖を捲り上げた。
太い前腕には、いくつもの古傷が重なっている。一番新しいものは、私が包帯を巻いた先月の討伐での切り傷だ。完全に塞がってはいるが、周囲の皮膚が少し赤みを帯びている。
私は温めた布を、その傷跡の上にそっと置いた。
「……」
ダリウス様の肩から、微かに力が抜けるのが分かった。
「雨の前に疼くのでしたら、我慢せずに教えてくださいと、以前申し上げましたよね」
私は布の上から、太い腕を両手で包み込むようにして押さえた。
痛みを可哀想だとは思わない。これは彼が戦場で生きてきた証であり、彼が多くの命を救ってきた結果だ。だからこそ、私は彼を労りたい。
「痛みがあっても、あなたは決して仕事の優先順位を崩さない。それは素晴らしい指揮官の資質ですが、だからこそ、無理を隠さないでほしいのです。小さな不調が、戦場での一瞬の判断を遅らせるかもしれません」
ダリウス様は、布で温められる自分の腕をじっと見つめていた。
やがて、彼はゆっくりと顔を上げた。
視線が、私と真っ直ぐにぶつかる。
間近で見る彼の顔には、左のこめかみから顎にかけて、白く盛り上がった長い古傷がある。
「……怖いか」
地を這うような、ひどく低い声だった。
彼が私の反応を確かめるように、少しだけ目を細める。
私は、その傷から目を逸らさなかった。
「いいえ」
きっぱりと答える。
「私は、外見は関係ないなどと申し上げるつもりはありません。この大きな体も、顔の古傷も、すべてあなたの一部です」
私は温布を外し、新しい包帯で彼の腕を軽く固定し始めた。冷えを防ぐためだ。
「むしろ、格好いいと思っています」
ダリウス様が、息を呑む気配がした。
彼の目が見開かれ、言葉を失っているのが分かる。
「……格好いい?」
「ええ。とても」
私は包帯の端を留め、顔を上げて微笑んだ。
少しだけ頬が熱かったが、照れて言葉を引っ込めるつもりはなかった。
「顔の傷も、その太い腕も、すべてがダリウス様が誰かを守ってきた証です。私は、そんなあなたの姿を心から敬慕しております」
ダリウス様は、信じられないものを見るような目で私を見つめ返していた。
「九人の令嬢」の記憶の中には、彼の顔の傷を「格好いい」と言ってのけた者など、ただの一人もいなかったのだろう。
彼は何も言えず、ただ硬直していた。
やがて、彼は不器用に視線を逸らし、自分の大きな手で顔の下半分を覆った。
「……報告書を、本部に持っていかなければならん」
「はい。いってらっしゃいませ」
耳の裏まで真っ赤にして、彼は逃げるように施療室を出て行った。
私は、彼の広い背中を見送りながら、小さく息を吐いた。
彼の強固な経験則の中に、今日また一つ、彼が「分類不能」とする新しい事実を積み上げることができた。
少しずつ、だが確実に、彼の中の壁は崩れ始めている。




