第12話 エリク、息を吐いてください
十月も中旬に入り、秋の冷え込みが日ごとに増していた。
この日は、朝から北の街道へ出た灰狼討伐隊の帰還が予定されていた。治癒術師が前線に回っているため、王都の施療室は、一次処置に当たる私とグレン医師、そして数名の助手だけで彼らを迎え入れることになる。
昼過ぎ。
けたたましい馬のいななきと共に、荷馬車が次々と到着した。
「怪我人を運べ! 奥へ!」
血の匂いと、男たちの怒声が施療室に充満する。
私は事前に用意していた清潔な布と止血粉を抱え、運び込まれてくる担架の間に飛び込んだ。
腿を深く裂かれた重傷者がいる。医師と助手がそちらへ走り、すぐに止血と縫合の準備を始めた。
私は、重傷者の優先順位を見極めながら、壁際に座り込んでいる数人の軽傷者たちへ目を向けた。
その中に、見覚えのある顔があった。
エリク様だ。派遣初日に負傷者を運び込んだ時、誰より先に担架を担いでいた若い騎士だった。
彼は壁に背を預け、自力で外套を脱いでいた。右腕に浅い引っかき傷のようなものが一つあるだけだ。出血もすでに止まっている。
だが、彼の肩が上下する速度が、おかしかった。
速い。浅い。
討伐帰りの荒い息とは違う。喉だけで、どうにか空気を取り込もうとする呼吸だった。
私は彼のもとへ駆け寄り、膝をついて顔を覗き込んだ。
「エリク様、聞こえますか。息苦しさはありますか」
「……いえ、少し、疲れただけで」
声が途切れる。
灯りの下で見える彼の唇は、ほんのりと青紫色に沈んでいた。
右腕の傷を見る。傷口の縁が、わずかに黒く変色し始めていた。
「灰狼毒の疑いがあります」
私は立ち上がり、施療室全体に響く声で叫んだ。
「ダリウス様!」
入り口で他の負傷者の搬送を指揮していた巨大な黒い影が、即座に振り返った。
ダリウス様は二歩で私の隣に来た。
「傷の変色と呼吸の浅さから、爪の付け根の毒嚢に触れた可能性が高いです」
グレン医師は重傷者の縫合にかかりきりだったが、私の所見を聞くと一度だけこちらを見た。
「毒消しを取り寄せろ。投与は私が確認する」
医師の判断が下った。あとは、人と手を動かすだけだ。
「治癒術師がいないので、魔法での浄化はできません。すぐに王都薬院へ人を走らせてください。常備している灰狼の毒消しを、あるだけすべて」
「聞いたな。行け」
ダリウス様は、背後にいた部下へ短く命じた。
それから、私の隣で片膝をつく。
「彼をどうする」
「姿勢を正して、気道を確保します。顎を少し上げてください」
彼の手は、私の指示を一切疑わなかった。巨大な指がエリク様の顎に添えられ、ほんのわずかな力加減で、呼吸が最も楽になる角度で頭を固定する。
「洗浄用の湯と、セイラン草の粉を。急いで」
私は近くの助手に指示を飛ばし、自らは布を持ってエリク様の傷口を洗った。
強く絞らない。毒が早く回るのを防ぐためだ。
その時、隣の寝台で縫合を受けていた重傷の騎士が、痛みに耐えかねて大きく身を捩った。
押さえていた助手の手が弾かれ、血しぶきがこちらへ向かって飛んでくる。
私は避ける間もなく、目を閉じた。
だが、血は私にはかからなかった。
視界が真っ暗になる。
ダリウス様が無言で私の前に覆い被さり、その広い背中と黒い軍服で、飛んできた血をすべて遮ってくれたのだ。
彼の体は、私の手元に十分な光と空間を残したまま、完璧な壁としてそこにあった。
「……エリク様。息を吐いてください。吸うより、吐く方を長く」
私は彼に守られながら、一度も手を止めることなく処置を続けた。
ダリウス様は理由を問わない。私が今何をすべきかを理解し、私が仕事をするための環境を、自分の体を使って無言で整えてくれている。
この戦場のような施療室の中で、彼は私の判断を完全に信じていた。
四半刻後。
薬院から届いた毒消しを飲ませ、エリク様の呼吸が深く安定し、唇に赤みが戻ってくるのを確認した。
私は大きく息を吐き、床についていた膝の痛みを自覚して立ち上がった。
「……助かりました」
振り返ると、ダリウス様が私の前に立っていた。
彼の軍服の背中には、黒い染みがべったりと付いている。
彼は自分の懐から清潔な布を取り出すと、私の顔の近くへ、ゆっくりと手を伸ばした。
そして、私の頬に触れる寸前で、一度ぴたりと動きを止めた。
傷つけることを恐れるような、あの確認の間。
私は彼を見上げて、小さく頷いた。
彼の手が動き、大きな指先が布越しに私の頬を撫でる。
私自身も気づいていなかった、飛んできた血の小さな一滴を、彼は丁寧に拭い取ってくれた。
「お前がいて、助かった」
労いではない。戦場での戦果を確認し合うような、短く強い肯定だった。
◇ ダリウス ◇
あの小さな女は、血の海の中でも決して怯まない。
エリクの呼吸がおかしいと言われた時、俺は彼女の判断を疑わなかった。
九人の令嬢たちの顔が頭をよぎることはなかった。
あの瞬間にあったのは、「彼女が異常を見つけたなら、それは間違いなく異常だ」という、確信だけだった。
俺は、彼女の言葉を採用したのではない。
彼女自身を、完全に信じていた。
あの日の求婚も、意味が分からなかったわけではない。
分かりたくなかったのだ。自分が選ばれたと認めてから違ったと知るより、最初から間違いだと思う方が傷は浅い。俺は正しさではなく、痛くない解釈を選んだ。
だが、目の前で命を拾い上げる彼女を見ていると、その逃げ方がひどく卑怯なものに思えた。
彼女の指が傷を洗い、呼吸を整えさせる。その手元を照らすためなら、俺の背中が血で濡れることなどどうでもよかった。
処置が終わった後、彼女の頬に血が跳ねているのを見つけた。
俺の汚れた手で触れれば、彼女の肌を汚してしまう。だから布を使った。
触れる前に、俺の手は無意識に止まっていた。
彼女が嫌がるのではないかと、一瞬だけ怖くなったのだ。
だが、彼女は逃げずに、真っ直ぐに俺を見て頷いた。
あの小さな顎を、俺は力任せに引き寄せることはできない。
俺が彼女の求婚にどう答えるべきか。
まだ、俺には分からない。




