第13話 九人と同じに数えないでください
十月も中旬を過ぎた。
エリク様の灰狼毒の処置から数日後。私は本院での勤務を終えた足で、王都騎士団の団長室へ向かった。
ノックをして重い扉を開けると、ダリウス様は一人で執務机に向かい、山積みの書類を処理しているところだった。
私の姿を認めると、彼はペンを置いた。
「……施療室で何かあったか」
「いいえ。今日は怪我人の報告ではありません」
私は扉を閉め、彼の机の前に立った。
見上げる。いつものように、首が痛くなるほどの角度で。
「ダリウス様。今日は、私の話を聞いていただきます」
私の強い口調に、彼はわずかに身構えたように見えた。黒い瞳が、じっと私を見下ろしている。
「先日、私はあなたに求婚しました。そして、それはジュリアン様へ近づくための方便ではないと、はっきりと申し上げました」
「……ああ。聞いた」
「それでも、あなたがまだ私の言葉を心の底からは信じきれていない理由も、存じています」
ダリウス様の広い肩が、ぴくりと動いた。
「過去に九人の令嬢が、あなたに贈り物をして、最終的に副団長への紹介を頼んだそうですね」
部屋の空気が、一瞬で凍りついた。
彼が過去の経験を口に出されたがらないことは分かっていた。だが、これを避けて通るわけにはいかない。
「私は、あなたを利用して誰かに近づくつもりはありません。私が妻になりたいのは、ダリウス様、あなたご自身です」
私は息を吸い込んだ。
「どうして私なのかと、まだお疑いですか。なぜジュリアン様のような美しい青年ではなく、あなたなのかと」
ダリウス様は答えなかった。
ただ、太い指が机の縁をきつく掴んでいる。力込められたその指の関節が、白く変色していた。
「ならば、私がこの六週間、施療室で何を見てきたのかを申し上げます」
抽象的な言葉は使わない。私が観察し、蓄積してきた事実だけを並べる。
「あなたが私と廊下を歩くとき、常に歩幅を半分に落としてくださっているのを知っています」
ダリウス様が、わずかに目を見開いた。
「私が高い台で背伸びをしているのを見て、何も言わずに低い作業台を用意してくださったことも。ご自分の傷や食事を後回しにして、常に部下を優先することも」
私は、彼の机を掴む大きな手を見た。
「その巨大な手で小指ほどの薬瓶をつまむときだけ、壊さないようにひどく慎重になることも。雨の前に古傷が疼いていても、決して任務の優先順位を崩さないことも」
一歩、机に近づく。
「そして、あの夜。私の指示をただの一度も疑わず、飛んできた血から無言で私を庇ってくださったことも」
言葉が、静かな団長室に響く。
「私は、これらすべてを見てきました。これらはジュリアン様のものではありません。ダリウス様、あなたご自身のものです」
ダリウス様は、微動だにしなかった。
ただ、黒い瞳の奥で、何かが激しく揺れ動いているのだけが分かった。
「この大きな体も、顔の傷も、私は格好いいと思っています。それを疑うのは、私の目を疑うのと同じです」
私は彼を真っ直ぐに見つめ、最後にして最大の要求を口にした。
「私を、過去の九人と同じに数えないでください」
過去を責めない。彼の痛みを否定もしない。
ただ、十人目の束としてではなく、私という個人の意思として、真っ直ぐに見てほしかった。
長い、本当に長い沈黙が落ちた。
窓から差し込む秋の夕日が、彼の顔の古傷を白く浮かび上がらせている。
彼の中で、五年間の経験則と、目の前に突きつけられた事実が激しく拮抗しているのが分かった。信じてしまえば、また裏切られた時の傷が深くなる。その恐怖が、彼を縛り付けているのだ。
私は急かさなかった。
ただ、彼が自分で結論を出すのを待った。
やがて、ダリウス様はゆっくりと目を閉じ、机を掴んでいた手の力を抜いた。
深く息を吐き出す。
目を開けた時、そこにあったのは迷いや戸惑いではなかった。
「……信じる」
地を這うような、ひどく低く、かすれた声だった。
だが、その一言には確かな重みがあった。
「俺に向けられた言葉だと、信じる」
肩から、一気に力が抜けた。
勝った。
これでようやく、「好意が自分向けではない」という最大の障害を壊すことができたのだ。
私が安堵の笑みを浮かべかけた、その時だった。
「信じた上で、聞いてほしいことがある」
ダリウス様が、私を真っ直ぐに見据えて言った。
その声は、かつてなく真剣で、どこか冷酷な響きすら帯びていた。




