第14話 信じている。だから、断る
十月中旬。
秋の日は短く、団長室の窓から差し込む夕日はすでに深い茜色に変わっていた。
古い書類とインクの匂いがする静かな部屋の中で、ダリウス様は真っ直ぐに私を見下ろしていた。
「信じた上で、聞いてほしいことがある」
その声は、かつてなく真剣だった。
九人の令嬢たちの記憶という強固な壁が崩れ、彼が初めて、私という一個人の言葉と向き合ってくれているのが分かった。
私は姿勢を正し、彼の次の言葉を待った。
ダリウス様は、何か重いものを飲み込むように一度だけ深く息を吸い、そしてゆっくりと口を開いた。
「あなたの好意が、俺に向けられているということ。それは、信じる」
低く、かすれた声だった。
けれど、言葉の端々に迷いはなかった。
「……俺なんかに、とは言わん。あなたが施療室で見てきたものを、嘘だとは言わない」
彼は大きな手を軽く握り、そして静かに言葉を継いだ。
「嬉しいと、思っている」
心臓が、大きく跳ねた。
彼が私の気持ちを信じてくれただけでなく、それを「嬉しい」と言葉にしてくれた。
それは、この六週間の私の戦いが、彼の中に確かに届いたという明確な証だった。胸の奥がじんわりと熱くなり、視界が少しだけ滲みそうになる。
私が安堵の笑みを浮かべかけた、その瞬間だった。
「その上で、あなたの求婚は断る」
冷や水を浴びせられたような感覚だった。
熱くなりかけた胸の奥が、一瞬で凍りつく。
信じてもらえなかった時より、ずっと痛かった。彼は私の気持ちを正しく受け取った上で、明確な意思を持って押し返してきたのだ。
ダリウス様は、私の動揺を待たなかった。
彼は作戦会議で戦況を報告する指揮官のように、淡々と、感情を交えずに事実だけを並べ始めた。
「理由は三つある」
太い指が、一つ折られる。
「一つ。俺は年に三度は王都を離れる。北の国境警備や大規模な魔獣討伐だ。長ければ二ヶ月は戻らない。手紙すら届かないこともある。あなたは、夫の生死も分からぬまま、ただ留守を待つだけの生活になる」
二つ目の指が折られる。
「二つ。王都にいる間も、平穏な暮らしはない。俺の屋敷には昼夜を問わず騎士団の連中が出入りする。夜中に緊急の出動で叩き起こされることも多い。血と泥にまみれて帰るのが日常だ。貴族令嬢が望むような、静かで上品な生活は用意できない」
そして、三つ目の指が折られた。
「三つ。俺は北の辺境出身の、平民の兵卒上がりだ」
ダリウス様は、ご自身の顔の古傷を指でなぞった。
「一代で子爵になったとはいえ、根付いた身分への偏見は消えない。社交の場に二人で出れば、周囲はまず俺の傷と出自を見る。次に、その隣にいるあなたを見る。その順番は変わらない」
彼の黒い瞳が、私を射抜いた。
「彼らは俺を面と向かって罵倒しはしない。だが、扇の陰で必ずあなたを嘲笑うだろう。兵卒上がりの男に嫁いだ、物好きな令嬢だと。あなたに、その心ない視線と偏見の的になれとは言えない」
三つの理由。
長期遠征、夜間出動、そして社交上の偏見。
彼は自分の卑下をしているのではなかった。「俺はあなたにふさわしくない」と自己陶酔しているわけでもない。
ただ、私に降りかかるであろう苦労の事実だけを、極めて現実的に列挙しているのだ。
彼なりに、私の幸せを計算し、私を守ろうとしているのは痛いほど分かった。
「……私の気持ちを、信じてくださったのですよね」
「信じている」
即答だった。
「信じている。嬉しい。だからこそ、断る」
私は、すぐには反論しなかった。
少しだけ俯き、自分の足元を見た。
ここで感情的に「どんな苦労にも耐えられます」「あなたのそばにいられるなら構いません」と叫ぶのは簡単だ。
だが、今の彼にその言葉は届かない。
私が地方から出てきたばかりで、王都の貴族社会の底意地の悪さや、騎士の妻としての過酷な現実を知らないと思っているからだ。無知ゆえの情熱だと処理されてしまえば、彼が引いた境界線を越えることはできない。
彼は、私のために私の限界を決めたのだ。
これ以上の苦労には耐えられないだろうと、私抜きで、私の未来の選択肢を奪った。
それが彼なりの誠実さだとしても、私は絶対に譲るつもりはなかった。
私はゆっくりと顔を上げた。
泣いてなどいない。私の態度は、先ほどまでの「求婚する令嬢」から、「施療院で現場を回す助手」のものへと切り替わっていた。
「ダリウス様のおっしゃる懸念は、よく分かりました」
私が冷静に答えると、ダリウス様はわずかに虚を突かれたような顔をした。泣き出されるか、食い下がられると思っていたのだろう。
「ですが、私はここで求婚を取り下げるつもりはありません」
「……俺の話を聞いていたか」
「はい。正確に。あなたは三つの現実的な問題点を挙げられました。私がそれに耐えられないと、あなたがご自身で判断されたのですね」
私は一歩、彼に近づいた。
「私は理詰めで考える質です。自分が知らないことを理由に、あっさりと自分の選択を諦めたりはしません。そして、私が何を苦労と感じるかを、私以外の誰かに勝手に決められるのも好みません」
ダリウス様が反論しようと口を開きかけたが、私はそれを許さなかった。
「現実の厳しさを私が知らないとおっしゃるなら、知ればいいだけのことです」
はっきりと宣言する。
「あなたが提示した三つの現実。それが実際にどれほどのものなのか、私が自分自身の目で確認します。そして、その現実を正しく知った上で、それでもあなたを選ぶかどうか、改めて私自身が判断します」
「……確認、だと?」
「はい。現実を検証してから、お返事をいたします」
ダリウス様は完全に言葉を失っていた。
彼の五年に及ぶ経験則にも、戦術の引き出しにも、「相手が現実の検証作業に移る」という事態は想定されていなかったのだろう。
彼は何かを言い返そうとして口をパクパクと動かしたが、結局、有効な反論の言葉を見つけられなかった。
「本日のところは、これで失礼いたします」
私は完璧な礼をして、踵を返した。
団長室の重い扉を開け、廊下へ出る。
扉を閉める直前、机の前に立ち尽くしたままの巨大な男の姿が見えた。彼が私の言葉をどう受け止めたかは分からない。
だが、私を拒絶した言葉が、彼自身の決定的な「終わり」にはならなかったことだけは確かだ。
廊下を歩きながら、私は頭の中で早くも次の手順を組み立て始めていた。
負けたわけではない。
彼が論理と事実で壁を作ったのなら、私も論理と事実でそれを一つずつ壊していくだけだ。
長期遠征で夫の留守を守るということ。
夜間の出動と不規則な生活。
平民出身の騎士団長に向けられる社交界の偏見。
ならば、検証しよう。
まずは、「待つ妻」の現実を知ることからだ。
明日、私は本院の勤務の前に、ある場所へ向かうことに決めた。




