第15話 待つ妻の一日を、見に行く
十月中旬。
私は本院での勤務の合間を縫って、救護連携の打ち合わせに来ていたグレン医師に、ある紹介を頼み込んでいた。
「遠征の多い騎士の奥方とお会いしたいのですか。まあ、紹介できないことはないですが」
医師は怪訝な顔をした。私が真剣な態度を崩さないでいると、やがて渋々といった様子で、一人の女性の住所を教えてくれた。
王都の東区にある、こぢんまりとした煉瓦造りの家。
出迎えてくれたのは、王都騎士団の小隊長を務める騎士の妻、マーサ夫人だった。彼女の夫は現在、北の国境警備のため一ヶ月の長期遠征に出ている。
「わざわざ施療院からお越しくださるなんて。さあ、どうぞ」
通された居間は塵一つなく整頓され、暖炉には火が入り、焼きたての林檎の菓子の甘い匂いがした。
マーサ夫人は私より五つほど年上で、快活に笑う、地に足の着いた女性だった。
悲壮感や、留守を守る哀れな妻という雰囲気は欠片もない。
私は用意していただいた紅茶を一口飲み、単刀直入に尋ねた。
「マーサ夫人。ご主人が長く不在にされる間、家計のやり繰りや不測の事態への備えはどうされているのですか」
夫人は少し驚いたように瞬きをした。貴族令嬢が尋ねるには、いささか生々しすぎる質問だったかもしれない。
だが、すぐに事も無げに答えてくれた。
「給金の大半は、騎士団から直接家族の口座に振り込まれる手続きにしているわ。遠征の前には、彼が必ず当座の現金を確認して置いていくし」
「手紙が来ない期間が長く続くことはありませんか」
「しょっちゅうよ。二週間音沙汰がないことなんてざらね」
彼女は笑いながら、熱いお茶を注ぎ足してくれた。
「手紙は補給の馬車に便乗して届くから、雨で街道がぬかるめば当然遅れる。最初は心配で眠れない夜もあったわ。でも、心配しても馬車は早くならないもの。今では『また馬車が泥にはまったのね』と思って、自分の仕事をするだけよ」
「ご主人がお怪我をされたという連絡を、夜間に受けたことは」
「あるわ」
夫人の顔から、少しだけ笑みが消えた。
「夜中に使いの騎士が来て、急いで施療室へ走った。本当に怖かったわ」
彼女はカップの縁を指でなぞった。
「でもね、知らせが来るということは、誰かが彼を助け、手当てをして、生きて王都へ運んでくれたということでしょう。だから、私はここで家を守って、彼が帰る場所を整えておくのが仕事なの」
私は、手元のティーカップを見つめた。
ダリウス様が懸念した「留守を待つ生活」。
たしかに、それは楽なものではない。不安も孤独もある。
だが、それは決して「耐えられない苦労」ではなかった。騎士の妻たちは無力ではない。彼女たちは夫の仕事を理解し、生活を回す術を持ち、強かに日常を生きている。
私が知らずに飛び込もうとしているわけではないと、はっきりと確信した。
※
その日の夜。
私は連携勤務のため、騎士団本部の施療室に残って帳簿の整理をしていた。
不意に、外でけたたましい鐘の音が鳴り響いた。
緊急出動の合図だ。
廊下を複数の重い軍靴が駆け抜けていく。私もすぐにペンを置き、予備の止血粉と清潔な布を箱に詰め込んで中庭へ走った。
松明の赤い光が揺れる中、ダリウス様が漆黒の軍馬に跨り、大音声で指示を飛ばしていた。
「南の街道に魔獣の群れだ。第二、第三小隊は俺に続け。荷馬車は後方から追従しろ」
分厚い胸板を覆う硬い装甲。背中には、夜の闇に溶けるような黒い外套。
私は後方支援の馬車へ走り、医療物資の箱を押し込んだ。
「ハーウェル嬢、助かる!」
御者台の騎士が箱を受け取る。
門を抜けていく騎馬隊。ダリウス様は、こちらへ振り返ることはなかった。前だけを見据え、真っ先に闇の中へ駆け出していく。
出動を見送った後の本部は、奇妙なほど静かになった。
私は施療室に戻り、湯を沸かし、寝台のシーツを整え、新しい包帯の束を作った。
それ以外に、やることがない。
待つ側の時間は、恐ろしく進みが遅い。
壁の時計の針の音だけが、やけに大きく響く。低い作業台の木肌に触れた指先が、少しずつ冷たくなっていくのが分かった。
もし、あの大きな体が動かなくなって運ばれてきたら。
もし、彼が私を庇った時のように、誰かを庇って深い傷を負ったら。
想像するだけで、息が詰まる。
(……怖い)
私は、自分の両手をきつく握りしめた。爪が手のひらに食い込む。
ダリウス様が言った通りだ。これは、怖い。
送り出す側ではなく、後方で無事を祈って待つだけの時間は、想像以上に恐ろしい。
だが、同時に思う。
この恐怖から逃げるために、あの人の隣を諦めたいか。
答えは否だった。
三時間後。
泥と血の入り混じった匂いと共に、騎士たちが帰還した。
軽傷者が数名。重傷者はいない。
ダリウス様は、一番最後に施療室へ姿を現した。黒い軍服にはべったりと魔獣の返り血がついていたが、彼の足取りはしっかりとしていた。
私は無意識に息を吐き出し、水差しと布を持って駆け寄った。
「ダリウス様。お怪我は」
「ない。お前、なぜまだ残っている。もう帰る時間だろう」
ダリウス様は、私がいることに驚いたように眉を寄せた。
「片付けがありましたから」
私は短い布を取り出し、彼の前腕についた泥をそっと拭った。
「お疲れ様でした」
彼は少しだけ居心地が悪そうに視線を逸らし、「ああ」と短く答えた。
私はその横顔を見上げながら、心の中で検証結果を確認していた。
留守を待つこと。夜中に叩き起こされること。無事を祈る恐怖。
それらが事実であると認める。
認めた上で、私はそれらを知らずに選んでいるわけではない。彼が私を思いやって並べた拒絶の理由のうち、二つは、私の中で検証を終えた。
残る現実は、あと一つ。
彼が最も気にしていた、社交界からの「出自の偏見」という現実だ。
それは近日中に、私の目で直接確かめる。




