第16話 兵卒上がりの団長
十月中旬。
王都の中心部にある荘厳な会議堂で、騎士団、施療院、そして街道管理側の三者を交えた公式会合が開かれていた。議題は、例年より早く活発化している灰狼への対応と、それに伴う医療物資の確保についてだ。
私は本院の院長の補佐として、負傷者数と必要物資の記録がまとめられた厚い帳簿を抱え、陪席していた。
円卓の向かい側には、ダリウス様とジュリアン様の姿があった。
ダリウス様は軍礼装を身に纏い、巨大な体を窮屈そうに椅子に収めている。ジュリアン様は相変わらず非の打ち所のない美しさで、手元の資料に目を通していた。
会議は初め、物資の数値確認を中心に滞りなく進んでいた。
しかし、街道の警備増強とそれに伴う予算の配分に話が及んだ時、空気が変わった。
「ダリウス団長。その配置案だが、少々前線に偏りすぎてはいないかね」
街道管理側の代表として座っていた、古参の貴族が口を開いた。年齢は父より上、ふくよかな体型に仕立ての良い上着を着た男だ。
「王都近郊の街道をこれだけ手薄にすれば、商会の流通に支障が出る。……まあ、現場で剣を振るうことしか知らん者には、大局的な経済の動きは理解しにくいかもしれんがね」
直接的な罵倒ではない。だが、言葉の端々に、あからさまな軽視が滲んでいた。
「平民から叩き上げでその地位に就かれた苦労は認めるが、王都の守りは泥臭い戦場とは違う。もう少し、洗練された配慮というものが必要ではないかな」
会議室が、一瞬だけ静まり返った。
古参貴族の言葉は、ダリウス様の「兵卒上がり」という出自を遠回しに揶揄し、彼の提案の信用性を落とそうとするものだった。
私は、膝の上で帳簿を握る手に力が入るのを感じた。
これが、ダリウス様の言っていた「社交界の偏見」なのだ。血を流して国を守っている男に対して、安全な場所にいる人間が向ける、心ない優越感。
怒りで立ち上がりそうになるのを、必死に堪える。ここで私が感情的に庇い立てすれば、かえってダリウス様の立場を悪くする。
ダリウス様は、怒鳴ることも、顔を赤くすることもしなかった。
彼は手元の資料を一枚めくり、淡々とした、あの地を這うような低い声で答えた。
「王都近郊の流通への影響については、すでにランデル商会と連携し、迂回経路の安全確認を済ませている」
「なっ……」
「前線への配置を手厚くするのは、灰狼の南下速度が予測を上回っているからだ。ここで叩かなければ、三日後には王都外縁の農村部が直接の被害を受ける」
ダリウス様は、古参貴族を真っ直ぐに見据えた。
「経済の動きを守るためにも、魔獣は前線で塞ぐ。それが、現場の判断だ」
感情論は一切ない。
ただ、記録と実績、そして指揮官としての揺るぎない判断だけがそこにあった。
古参貴族は不満げに鼻を鳴らしたが、それ以上反論することはできなかった。ジュリアン様が、横から完璧な笑みを浮かべて「詳細な経路図はこちらにございます」と資料を差し出し、完全に退路を断ったからだ。
「……では、医療物資の配分についてはどうなのだ。これほどの規模の討伐となれば、施療院側の負担も大きかろう」
矛先を変えようとする古参貴族に、本院の院長が答える前に、私はスッと立ち上がった。
「失礼いたします。施療院の記録担当として、ご説明申し上げます」
全員の視線が私に集まる。
ダリウス様が、わずかに目を見開くのが分かった。
私は彼を見ない。ただ、自分の手元にある事実の束だけを武器にした。
「先月の灰狼による負傷者の数は、例年の二倍に達しております。これに伴い、止血粉と包帯の消費量も激増しました。しかし」
私は帳簿を開き、数字を読み上げた。
「騎士団側の的確な一次処置のおかげで、重症化して長期入院に至る患者の割合は、逆に三割減少しています。つまり、前線での応急処置が機能している限り、本院の病床が逼迫することはありません」
私は、古参貴族へ向かってはっきりと告げた。
「必要なのは、前線への即効性のある物資の優先配分です。ダリウス団長の配置案は、医療の観点からも極めて合理的であり、支持いたします」
私が説明を終えて席に座ると、会議室には再び沈黙が落ちた。
数字という揺るぎない事実の前には、どんな偏見も嫌味も意味をなさない。
院長が「彼女の言う通りです」と追認し、会議はダリウス様の提案通りに進むことで決着した。
会合の後。
廊下へ出た私は、重い帳簿を抱え直しながら小さく息を吐いた。
勝った。だが、晴れやかな気分ではなかった。
今日のような場面が、これから先、何度も続くのだろう。私が彼の隣に立てば、彼だけでなく私に対しても、心ない視線が向けられるかもしれない。
ダリウス様が懸念した三つ目の理由。
その「社交上の偏見」の実態を、私は今日、はっきりと自分の目で確認した。
「……ハーウェル嬢」
背後から、低い声がした。
振り返ると、ダリウス様が立っていた。軍礼装の彼は、廊下の光を遮って巨大な影を落としている。
「先ほどの説明、助かった」
「事実を申し上げただけです。あなたの指揮が優れていることは、数字が証明しています」
私は彼を見上げた。
「ダリウス様。今日のようなことは、よくあるのですか」
彼は少しだけ視線を下げた。
「ああ。……言っただろう。上品な暮らしではないと」
彼の言葉には、やはり私を遠ざけようとする響きがあった。
私は、彼の顔の古傷を見つめた。
「ええ。確認しました。あなたが戦場以外でも、あのような偏見と戦わなければならないという現実を」
私は帳簿を胸に抱き直した。
「ですが、私は今日、その現実を見ても、少しも嫌だとは思いませんでした」
ダリウス様が、ハッと顔を上げた。
「むしろ、あのような無知な言葉に対しても、怒鳴ることなく冷静に職務を全うされるあなたを、さらに誇らしく思いました」
彼は何も言えなかった。
私は小さく礼をして、彼に背を向けた。
留守を待つ恐怖。不規則な生活。そして、心ない偏見。
彼が提示した三つの拒絶の理由は、私の中で完全に検証を終えた。
答えは決まっている。
あとは、この答えを公の場で彼に突き返すだけだ。




