第17話 小さな花と、大きすぎる外套
十月も下旬に差し掛かったある夜。
王都騎士団の講堂で、秋の前半戦を労うささやかな慰労会が開かれていた。
灰狼の討伐隊に参加した騎士たちとその家族が招かれ、簡単な食事と酒が振る舞われている。
私も、施療院からの救護連携要員という立場でこの場に同席していた。
広間の隅で、ダリウス様は壁際に立っていた。
軍礼装を着ていても、隠せるものは何もない。肩幅も、顔の傷も、周囲を圧倒するような大きさもそのままだった。彼がそこにいるだけで、自然と人が道を空け、壁際にポツンと一つの空間ができている。
私は彼のもとへ歩み寄ろうとした。
しかし、私より先に、彼に近づいていく家族連れがいた。
「団長」
声をかけたのは、まだ顔色に少しの蒼白さを残す若い騎士だった。
先日、施療室で灰狼の毒症状に倒れ、私たちが処置したエリク様だ。彼の隣には、妻らしい若い女性と、小さな女の子が手を繋いで立っている。
「なんだ」
ダリウス様の低い声が落ちる。
エリク様は、深く頭を下げた。
「あの夜、俺は自分が毒を受けていることに気づいていませんでした。気づいてくださったのはハーウェル嬢です」
エリク様は、周囲に聞こえるような通った声で言った。
「そして団長は、令嬢の指示に一つも異を唱えず、そのとおりに動かれた。おかげで、俺は今ここに生きて立っています」
隣にいた奥様も、ハンカチで目頭を押さえながら深くお辞儀をした。
周囲の空気が、少しだけ変わった。
遠巻きに「黒熊」を見ていた人たちの目が、部下とその家族から命の恩人として頭を下げられている男を見る目に変わっていく。
女の子が、母親に背を押されて前へ出た。
小さな手に、一輪の花を握っている。茎が短くて、花弁も少し潰れていた。ずっとこの瞬間のために握りしめていたのだろう。
女の子は、巨大なダリウス様を見上げて、一瞬だけ固まった。
それはそうだ。この方は、大人でも見上げる。
ダリウス様は、無言で片膝をついた。
石床に重い音が響き、彼の目線が女の子と同じ高さに下がる。
それから、彼は花を受け取った。
親指と人差し指だけを使って。他の指は大きく開いたまま、茎の一番丈夫な部分だけをそっとつまむ。
あの巨大な手なら、握り込めば一瞬で消えてしまうような小さな花だった。
「……ありがとう」
低い声だった。
女の子はびくりとして、それから、えへへ、と小さく笑った。
広間に、温かい波のような拍手が広がった。
ダリウス様は落ち着かない様子で立ち上がり、その一輪をどうすればいいのか分からず、結局、黒い軍服の胸の合わせに不器用に挿していた。
権威のある古参貴族から「兵卒上がり」と嘲笑われても、彼は痛くも痒くもないだろう。
だが、彼が守ってきたものは、今ここで確かな形となって彼に感謝を伝えている。
私は、胸の奥が誇らしさでいっぱいになるのを感じた。
※
慰労会も終盤に差し掛かった頃。
講堂の窓が開け放たれ、夜風が吹き込んできた。
十月下旬の夜気は思いのほか冷たく、薄手のドレスを着ていた私は、思わず二の腕をさすった。
それに気づいたのは、少し離れた場所にいたはずのダリウス様だった。
彼は無言で歩み寄ってくると、自らの肩に掛かっていた分厚い黒の外套の留め具に手をかけた。
そして――そこで、ぴたりと動きを止めた。
止まった理由は、私にもすぐに分かった。
ダリウス様は今、自分の手にある巨大な布の塊と、私の小柄な体を交互に見比べている。
この外套を私に掛けたら、私は間違いなくすっぽりと布に埋もれる。裾は床を引きずり、袖から手を出すことすらできないだろう。
彼は、私が布に呑まれた滑稽な姿を想像して、どうすべきか固まってしまっていた。
私は彼に歩み寄り、爪先立ちになった。
「いただきます」
「いや、それは」
彼が止めるより早く、私は彼の腕から外套を奪い取るようにして自分の肩に掛けた。
重い。そして、とてつもなく大きい。
予想通り、袖からは指の先すら出ない。裾は石床の上にだらりと落ちて広がった。歩けば確実につまずくだろう。
だが、恐ろしいほど温かかった。彼自身の体温と、かすかな皮の匂いが私を包み込む。
顔を上げると、ダリウス様が何か言おうとして、やめた。
私が、その重い布の中でひどく嬉しそうに笑っていたからだと思う。
彼は断る言葉を探して見つからなかったような、降参したような顔をして、小さく息を吐いた。
私は、長い袖の中で自分の手を握りしめた。
準備は整った。
この人が私に見せてくれた配慮も、私が確認した厳しい現実も、すべてはこの瞬間のためにある。
私は、ダリウス様を真っ直ぐに見上げた。
「ダリウス様。慰労会が終わった後、お時間をいただけますか」
私の静かで強い声に、彼はわずかに身をこわばらせた。
「私から、先日の『お返事』をいたします」




