第8話 求婚しているのは、あなたです
そして話は、九月二十八日の団長室へ戻る。
求婚相手はダリウス様だと、これ以上なく明確に伝えた。
それでも彼は、書きかけた打診状を破り捨てず、ただ裏返しただけだった。
言葉の意味が分からないのではない。理解した瞬間に生まれる「自分が選ばれたかもしれない」という可能性を、認めるのが怖いのだ。今の私には、そう見えた。
そこへ、扉が乱暴に開かれた。
「団長、お呼びで――」
入ってきたのは、金髪の美しい副団長、ジュリアン様だった。
彼は机の上の裏返された書類と、私とダリウス様の対峙を見て、みるみるうちに疲労の色を濃くした。
「これは何ですか」
「お前の縁談だ」
ダリウス様が真面目な顔で答える。
「聞いていません」
「今、通した」
「通さないでください」
ジュリアン様は両手で顔を覆った。指の隙間から、私を見る。
「ハーウェル嬢。念のため伺いますが、あなたは俺と結婚したいのですか」
「いいえ」
即答した。
ジュリアン様が深く息を吐き、ダリウス様が眉を寄せた。
「では、なぜ今日、派遣の最終日に団長室に来た」
「ですから、ダリウス様に求婚しに来たのです」
もう三度目だ。
ダリウス様は答えなかった。
「今日で派遣が終わるからです。明日から、ここへ通う理由がなくなる。だから、はっきりと言葉にしました」
私はダリウス様から目を逸らさなかった。
「私が施療室で薬草を刻んでいるとき、あなたは何も言わずに低い作業台を用意してくださいましたね」
彼の肩が、わずかに動いた。
「怪我人の前では、あなた自身の怪我を後回しにされて。私が無理に座らせたときだけ、大人しく包帯を巻かせてくださいました」
事実だけを、一つずつ並べていく。
「お祭りの日、私がぶつからないように、人混みとの間に立ってくださった。私があなた自身についてお聞きしたときも、逃げずに答えてくださった」
私は彼の手を見た。
「私は、ジュリアン様のことは存じ上げません。私がこの六週間で見てきたのは、ダリウス様、あなただけです」
部屋が静まり返った。
ダリウス様は、机の上をゆっくりと見つめた。打診状。空き時間。贈答品の一覧。
それから、私を見た。
信じきれない、という顔だ。彼の中に染みついた何かが、「本気にしてはいけない」と警鐘を鳴らしているのだろう。
私は、彼の答えを急かさなかった。
五年かけて彼の中に積み上がった経験則が、今日一日の言葉だけで覆るとは思っていない。
言葉で伝わらないのなら。
「信じていただけないのなら、無理に今すぐお返事はいただきません」
私は一歩下がり、彼に向かって礼をした。
「あなたが信じられるようになるまで、何度でもお伝えします。そして、見せます」
ダリウス様は何も言わず、ただ呆然と私を見送った。
ジュリアン様が、すれ違いざまに私にだけ聞こえる声で呟く。
「……長期戦になりますよ」
「望むところです」
団長室を出て、私は廊下を歩きながら小さく息を吐いた。
最大の大技は放った。「ジュリアン目当て」という誤解は、これで塞いだはずだ。
ここから先は、彼が「私からの好意」を信じられるかどうかの戦いになる。
私は手帳を取り出し、明日の本院での勤務予定を確認した。
騎士団への派遣は終わった。だが、私には私がやるべき仕事がある。
※
その日の夕方。
九月二十八日。
派遣最終日の業務を終えて本院へ戻った私が、薬局で在庫の整理をしていると、施療院長から呼び出しを受けた。
「ハーウェル嬢。急な話で申し訳ないが」
院長室に入ると、騎士団施療室の責任者であるグレン医師も同席していた。
「街道での灰狼の目撃例が、例年のこの時期に比べて異常に多い。秋の大移動の前兆かもしれん。騎士団側でも毒の急患が増加している」
医師が重々しい口調で引き取った。
「北へ向かった治癒術師は、まだ戻らん。王都の騎士団施療室には、毒の進行を遅らせ、確実な応急処置ができる人間が常に必要だ。……君のことだ」
「そこで、十一月末まで、本院と騎士団の『救護連携勤務』という形をとることにした」
院長が書類を差し出す。
「週四日の勤務のうち、二日を騎士団、二日を本院とする。これは君の働きを評価しての正式な要請だ。引き受けてもらえるか」
私は書類を受け取った。
「……引き受けます」
恋愛による便宜ではない。
完全に、業務上の理由による連携勤務の延長だった。
私は書類を抱きしめ、少しだけ天を仰ぎたくなった。
これではまるで、私があれほど覚悟を決めて求婚したのが、ひどく滑稽な空回りだったみたいではないか。
だが、彼に会いに行く正当な理由ができたのも事実だ。
私は気を引き締め直し、明日の騎士団での勤務に向けて、灰狼の毒消しの在庫確認を始めた。




