第7話 あなたと祭りを歩きたい
九月最後の週末。
王都の慈善施療院では、年に一度の慈善祭が開かれていた。
敷地内には薬草茶や焼き菓子の屋台が並び、近隣の住人たちでごった返している。施療院の資金を集めるための大切な行事であり、王都騎士団からも警備の応援が出ていた。
非番のはずのダリウス様は、中庭の端にある大きな樫の木の木陰に立っていた。
私服ではなく、黒い軍服姿だ。警備に当たる部下たちの配置を、少し離れた場所から黙って見守っているようだった。
私は彼のもとへ歩み寄った。
「ダリウス様」
彼は視線を落とし、私を見た。
「……怪我人か」
「いいえ。怪我人は出ていません」
私は息を吸い、彼を見上げた。
「私と一緒に、少しだけ祭りを歩いていただけませんか」
回りくどい理由はつけなかった。
護衛が必要だとか、案内をしてほしいとか、そういう建前はいらない。ただ、私があなたと歩きたいのだと、真っ直ぐに伝えたかった。
ダリウス様は、わずかに瞬きをした。
「俺が歩けば、人が避けるぞ」
「人混みが減って丁度いいです」
私が引かないのを見て、彼は小さく息を吐いた。
「……迷子になるなよ」
そう言って、彼が歩き出す。
彼の歩幅は、いつもの半分になっていた。私が無理なくついていけるように、無意識に速度を落としてくれている。
攻略を始めてから二週間あまり。こういう小さな特別扱いが、私の日常になりつつあった。
祭りの喧騒の中を、二人で歩く。
彼の言う通り、黒熊のような巨体と顔の傷を見ると、道行く人々は自然と道を空けた。
広場に出ると、子どもたちが追いかけっこをしていた。そのうちの一人が、屋台に気を取られてこちらへ走ってくる。
ぶつかる、と思った瞬間、ダリウス様は無言で大きく二歩、後ろへ下がった。
ぶつかるのを避けただけではない。子どもが顔を上げて自分を見たとき、怯えさせないために、あらかじめ十分な距離を取ったのだ。
あの日の街道で、血のついた手を背中に隠した時と同じだった。
焼き菓子を売る屋台の前で、私は足を止めた。
隣には、硝子細工を並べた小さな露店がある。ダリウス様はそちらに目を向け、小さな犬の硝子細工を手に取った。
大きな手だった。彼の掌に乗ると、小鳥ほどの大きさの硝子細工が、木の実のように小さく見える。
彼は親指と人差し指だけを使い、他の指を大きく開いたまま、そっと光に透かしていた。
「綺麗な細工ですね」
「……力を入れると、砕ける」
彼はひどく慎重な手つきで、それを元の布の上に戻した。
壊さないように、傷つけないように。
彼が小指ほどの薬瓶を扱うときと、まったく同じ手つきだった。
広場の中央で、楽団の演奏が始まった。
どっと人が押し寄せてくる。
歓声と共に人の波がうねり、私が背後から押されそうになったその時だった。
視界が、急に暗くなった。
ダリウス様が無言で私の背後に回り、押し寄せる人混みとの間に立ち塞がったのだ。
岩のように硬く、分厚い胸板と広い肩。
その巨大な体が、波を割る防波堤になり、私の周囲だけが無風の空間になった。
窓の光が遮られるのと同じ、すべてを塞いでしまうほどの大きさ。
それなのに、少しも息苦しくない。むしろ、絶対に安全な場所にいるという安心感があった。
「ありがとうございます」
私が見上げると、彼は前を見たまま、低く答えた。
「……足元に気をつけろ」
「はい」
私は、彼の黒い軍服の袖口を少しだけ摘んだ。
彼は振り払わなかった。
楽しい時間だった。
もっとこの時間が続けばいいと、心から思った。
だからこそ、ふと施療院の壁に貼られた勤務予定表が目に入った時、足が止まりそうになった。
来週からの予定の枠に、私の名前はない。
そうだ。
今日は九月最後の週末。
私の騎士団施療室への派遣期間は、六週間。
残された勤務日は、あと一日しかない。
九月二十八日。それが派遣の最終日だ。
その日を過ぎれば、私は王都の本院へ戻る。騎士団へ通う正当な理由はなくなる。
胸の奥が、急に冷たくなった。
仕事が終われば、彼と会う理由も消える。
「……」
袖口を掴む手に、思わず力が入った。
彼が特別扱いをしてくれるようになったからといって、安心してはいけなかったのだ。彼は私の好意を、ただの「熱心な仕事上の付き合い」だと思っている。
期限が来れば、彼は私を「有能な助手だった」と記憶の隅に置き、また元の日常に戻っていくだけだ。
焦りが、胃の腑を焼いた。
そんなことは絶対に許さない。
私は自分の恋心を、仕事の偶然なんかに預けておくつもりはない。
待っていても、この人は私を引き留めない。ならば、私が退路を断つ。
次の勤務日。
六週間の派遣の最終日。
誤解の余地など一切ない、はっきりとした言葉を彼に突きつけよう。
私は彼を見上げた。
求婚しよう。
この男に、私と結婚してくださいと。




