第6話 攻めるのが日常になりました
九月も下旬に差し掛かる頃には、私の「攻略」は完全に日常の一部と化していた。
特別なことをするわけではない。ただ、ダリウス様との短い接触を、意図的に、そして確実に繰り返すだけだ。
ある日は、午前の訓練が終わった直後を狙った。
「ダリウス様。冷たい水をどうぞ」
「……ああ。すまん」
彼は少し戸惑いながらも、私の差し出した水杯を受け取った。喉を鳴らして一気に飲み干す姿を見届けてから、私は空の杯を受け取りつつ言う。
「今日の訓練は、ずいぶん声が大きかったですね。新兵の方ですか」
「少し。足の踏み込みが甘い者がいた。魔獣の突進を受ければ、一撃で体勢を崩される」
「それは心配ですね。怪我人が出ないよう、厳しくご指導をお願いします」
彼は真面目に頷き、私が少しだけ笑うと、なぜか彼も少しだけ口元を緩めた。
またある日は、夕方の施療室で。
「ダリウス様。左腕の傷の経過を見せてください」
「もう塞がっている」
「私がこの目で確認するまでは、治癒したとは認めません」
有無を言わさず腕を出させ、太い前腕の古傷の横に新しくできた白い線を指でなぞる。
その間、彼はまたあの石像のような硬直状態に入っていたが、私が「もう大丈夫ですね」と告げて手を離すと、わずかに安堵したように肩の力を抜いた。
短い雑談。傷の確認。施療室の備品についての相談。
すべて、副官であるジュリアン様を通さず、直接ダリウス様本人に持ち込んだ。
最初こそ、彼はいちいち「それはロシュに」と逃げようとしていたが、私が「あなたとお話ししたいのです」という態度を崩さないでいると、徐々にその反応速度が早くなっていった。
彼は、自分だけが特別扱いされているとは、おそらく少しも認識していない。ただの「熱心な施療助手」の相手をしているつもりなのだろう。
だが、変化は確実にある。
最近では、私が施療院から騎士団へ到着する時刻になると、彼はなぜか団長室から出てきて、中庭や廊下で「偶然」鉢合わせることが増えた。
本人は無自覚なのだろうが、私の来室時刻を完全に体が覚えている証拠だった。
※
そして、父から言われていた二度目の茶席の日が来た。
場所は、前回と同じく王都西区にある落ち着いた茶館だ。
オスカー・ランデル様は、今日も完璧な身なりで私を迎えてくれた。
「先日お会いしてから、少し考えました」
席に着き、紅茶が運ばれてきた後、オスカー様は静かに切り出した。
「クラリス嬢は、ご自身の足でしっかりと立ち、物事を見極めようとする方だ。だからこそ、私も飾らずに申し上げます。私は、あなたに我がランデル家の妻となっていただきたい」
真っ直ぐな言葉だった。
彼の灰色の瞳には、誠実さが満ちている。
だからこそ、私も一切の曖昧さを排して答えた。
「ありがたいお言葉ですが、お受けできません」
私はティーカップを置き、彼を真っ直ぐに見返した。
「私には、心に決めた方がおります」
オスカー様は、わずかに目を見張った。
それから、ゆっくりと息を吐き、静かに頷いた。
「……そうでしたか」
「申し訳ありません。もっと早くにお伝えすべきでした」
「いいえ。無理強いをするつもりはありません。クラリス嬢がご自身で選ばれた道であれば、それが一番なのでしょう」
彼は、相手が誰なのかを詮索しようとはしなかった。ただ、私の決断を静かに受け入れ、それ以上踏み込んでくることはなかった。
本当に、立派な方だと思う。
同日中に、父を通じてランデル家へ正式に縁談の辞退が伝えられ、この話は完全に終わった。
※
その数日後。
私は王都の目抜き通りで、買い出しをしていた。
施療室で使う清潔な布を、懇意にしている織物商へ発注するためだ。
店を出て通りを歩いていると、不意に声をかけられた。
「クラリス嬢」
振り返ると、そこには私服姿のオスカー様がいた。
「ランデル卿。奇遇ですね」
「ええ。近くの商会に寄った帰りでして」
縁談が破談になった後でも、彼は変わらず穏やかな態度で接してくれた。私たちは立ち話として、最近の街道の物流状況や、今年の冬の寒さについて短い言葉を交わした。
彼は真面目で、知識が豊富だ。会話は自然に弾む。
ふと、通りの向こう側から、視線を感じた。
振り返る。
人混みの中で、頭一つ抜きん出た巨大な黒い影があった。
ダリウス様だ。
彼は王都の巡回警備の途中だったらしい。数人の部下を連れ、道の反対側からこちらを見ていた。
目が合った。
私は軽く会釈をした。ダリウス様は、少しだけ足を止め、それから何も言わずに無言で立ち去っていった。
その時の彼の顔が、なぜかひどく強張っていたように見えた。
オスカー様も、彼の姿に気づいたようだった。
「……黒熊騎士団長殿ですね」
「はい。警備の途中だったようです」
「なるほど」
オスカー様は何かを納得したように小さく笑い、それから丁寧な礼をして去っていった。
私は、足早に去っていったダリウス様の広い背中を思い返していた。
あの無口な男が、なぜあんなに不機嫌そうな顔をしていたのか。
分からない。
だが、彼が私の隣にいる他の男を見て、足を止めたことだけは事実だった。
◇ ダリウス ◇
王都の巡回中、大通りでクラリスの姿を見つけた。
彼女の隣には、金髪の男がいた。
ランデル伯爵の息子だ。家柄が良く、見栄えもする。
二人は並んで立ち、何かを話しながら笑い合っていた。
驚くほど、自然に釣り合って見えた。
足が止まった。
胸の奥で、重くて黒い泥のような感情が渦を巻いた。
理由は分からない。ただ、あの光景がひどく嫌だった。
ランデル家の男が、彼女の言葉に頷く。彼女が、少しだけ首を傾げて笑う。
その距離が。その親しげな空気が。
腹の底から、冷たい苛立ちが込み上げてくる。
俺は何も言わず、その場を立ち去った。
部下が怪訝そうな顔をしていたが、気にしなかった。
自分の中に湧き上がったこの感情の名前を、俺は知らない。知りたくもない。
ただ、彼女の隣にあの男がいることが、ひどく気に入らなかった。
それだけだ。




