第5話 恋をしたので、まず一歩
九月も半ばへ向かい、朝夕の風にわずかな冷たさが混じるようになった。
恋を自覚してから、最初の勤務日。
タウンハウスから王都騎士団へと向かう馬車の中で、私は膝の上の鞄をぎゅっと握りしめていた。
不思議なものだ。昨日までと同じ景色、同じ仕事の予定だというのに、胸の奥には静かな熱が灯っている。
私が、ダリウス・ベルグ様を好きだという事実。
同情でも義憤でもなく、ただ「一番に報告したい」「いないと残念だ」という、私自身の確かな欲求だった。
結論が出たのなら、次はどう動くべきか。
待っていても、この方は絶対に気づかない。過去に何があったのかは知らないが、彼の思い込みは、そんじょそこらの城壁よりも分厚くて頑丈だ。私がここでただ頬を染めて微笑んでいても、彼は「体調不良か」と片付けて終わるだろう。
ならば、私から踏み込むだけだ。
少しずつ、だが確実に、彼の日常の中に私の居場所を広げていく。
昼過ぎ。
施療室での午前の処置が落ち着いた頃、私は厨房の裏手で受け取ってきた木籠を抱え、廊下を歩いていた。
向かう先は、団長室ではない。中庭に面した裏口だ。
案の定、そこには黒い軍服姿の巨大な背中があった。
ダリウス様は、第二小隊の訓練場へ向かおうと、足早に歩き出しているところだった。
「ダリウス様。お待ちください」
私が声を張ると、彼は振り返って足を止めた。周囲にいた数人の騎士たちが、忙しない団長を呼び止める小柄な私の姿を見て、少しだけぎょっとしたように道を空ける。
見下ろす彼の視線が、私の抱えた木籠で止まる。
「昼食はとられましたか」
「後でとる。午後の査閲が――」
「今です」
私は即答し、彼が歩き出そうとしていた道を塞ぐように前に立った。
「査閲の前に、十五分だけ時間をください」
彼はわずかに眉を寄せたが、私が一歩も道を譲らないと分かると、小さく息を吐いた。相手を力で退けるような真似を絶対にしない人だと知っているからこそ、できる強行突破だった。
私たちは中庭の片隅にある、石造りのベンチに並んで座った。
私が座ると、爪先が地面に届くか届かないかの高さになる。しかし、隣に腰を下ろしたダリウス様は、長い脚を持て余すようにひどく窮屈そうだった。
肩幅が広すぎて、ベンチの半分以上が黒い布で埋まっている。
私は籠を開け、硬いライ麦パンと塩漬けの干し肉の包みを彼に手渡した。
「査閲で倒れられては、施療室の仕事が増えます」
「……倒れはしない」
不満げな低い声だったが、彼は大人しくパンを受け取った。
顔の大きさに対して、持っているパンがひどく小さく見える。彼はそれを、味わうというより、任務に必要な燃料を胃に放り込むような勢いで咀嚼し始めた。
私は自分の分のパンを少しずつちぎりながら、まずは今日の負傷者の状況と、薬草の消費具合について手短に報告した。
ダリウス様は黙って頷き、相槌を打つ。仕事の会話には、一切の淀みがない。
彼が最後の干し肉を飲み込み、報告が途切れた一拍を見計らって、私は正面から彼を見た。
「仕事の報告は以上です」
「ああ。把握した」
「では、ここからはダリウス様ご自身のことを伺わせてください」
ダリウス様が、立ち上がろうとしていた動きをピタリと止めた。
黒い瞳が、戸惑ったように私を見下ろす。
「俺の?」
「はい。例えば、お休みの日は何をされているのですか」
彼は答えなかった。
私が何を言っているのか、本当に理解できていない顔だった。作戦書にない未知の言語で話しかけられたような、純粋な混乱がそこにある。
「……何らかの、査定か?」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「ただ、私があなたのことを知りたいだけです。一緒に働く方の休日の過ごし方に、興味がありまして」
半分は詭弁だ。けれど、この方には「あなた自身に興味がある」という直球を、「仕事上の関係だから」という建前で包んで投げた方が、まだ受け取ってもらいやすい。
彼は怪訝そうな顔のまま、やがてぼそりと答えた。
「……馬の世話と、武具の手入れだ」
「他には?」
「足りなければ、溜まった書類の決裁を」
「それは休日ではありませんね。仕事です」
私がきっぱりと言うと、彼は口を引き結んだ。どうやら図星だったらしい。
「では、お好きな食べ物は何ですか」
「……肉だ」
即答だった。
「お嫌いなものは」
「嫌いというか……甘すぎる菓子は、腹の足しにならん」
「なるほど。では、苦手なものは」
「夜会だ。あれは息が詰まる」
私は内心で小さく笑った。
令嬢との雑談など、この五年間、まともにしたことがないのだろう。少なくとも、彼自身にこんな個人的な質問をした者はほとんどいなかったはずだ。
彼は私の質問の意図を図りかねて、ひどく居心地が悪そうにしている。
だが、無視して立ち去ることはしない。
相手が誰であれ、投げられた言葉には、不器用でも必ず正直に返す。そういう人なのだ。
「よく分かりました。お答えいただいて、ありがとうございます」
私が微笑むと、彼はますます居心地が悪そうに視線を逸らし、大きな手で自分の首の後ろを撫でた。
「……査閲の時間だ」
「はい。行ってらっしゃいませ」
逃げるように歩き出す大きな背中を見送りながら、私は小さく息を吐いた。
大きな進展はない。けれど、これは確かな一歩だ。
彼は、私を拒絶しなかったのだから。
その日の夕方。
タウンハウスへ戻った私は、自室で着替えるよりも先に、父の書斎へ向かった。
ドアをノックし、入室の許可を得る。
父は机に向かい、領地からの報告書に目を通していた。
「クラリスか。今日は早いな」
「お父様。少しお時間をいただけますか」
私は父の前の椅子に座り、背筋を伸ばした。
遠回しな言い方は避けた。
「先日の、オスカー・ランデル卿との縁談の件です。大変ありがたいお話ですが、このまま進めるわけにはいきません。辞退させていただきたく存じます」
父は羽ペンを置き、静かに私を見た。
驚いた顔ではなかった。すでに予想していたというような、静かな目だった。
「理由を聞いてもいいか」
「ランデル卿は、とても誠実で立派な方です。良いお相手だということは、お話ししてよく分かりました」
私は膝の上で、両手を軽く組み合わせた。
「ですが、私の心は別の方に向いております。そのお気持ちがある限り、ランデル卿をこれ以上お待たせするのは不誠実です」
父は小さく息を吐き、湯気の立つ紅茶のカップへ視線を落とした。
「……やはり、あの騎士団長殿か」
「はい」
否定しなかった。誤魔化す理由もない。
父は腕を組み、天井を仰いだ。
「お前が命を助けられた恩義を感じているのは分かる。立派な方だという噂も聞く。だが、彼との道は平坦ではないぞ」
「恩義や憧れではありません」
私は、きっぱりと答えた。
「私が、あの方を慕っているのです。平坦でない道だとしても、私が自分で選んだことです」
私の言葉に迷いがないことを確認したのか、父はゆっくりと頷いた。
「分かった。お前の人生だ。お前がそう決めたのなら、私が無理に押し付けることはしない」
「ありがとうございます、お父様」
「だがな、クラリス」
父の目が、少しだけ厳しくなった。
「ランデル卿とは、すでに次回の茶席の約束をしてある。先方も、わざわざ時間を割いてくださっているのだ」
「はい」
「私からランデル伯爵へ断りを入れるのは簡単だ。だが、お前自身が彼と直接会い、お前の口で辞退を伝えなさい。それが、誠意を示してくださった相手への最低限の礼儀というものだ」
「承知いたしました。必ず、私自身の言葉でお伝えします」
私は深く頭を下げた。
オスカー様への返事を保留にして、どちらに転んでもいいように手元に置いておくような真似はしない。
自分の足で立つと決めたのだ。
恋をしたからこそ、退路を断つ。
私の選択権は、誰にも譲らない。




