第4話 一番に報告したい人
九月に入り、朝夕の風がわずかに涼しさを帯びるようになった。
騎士団の施療室への派遣勤務も、今日で九日目になる。
与えられた私の持ち場は、あの窓際の低い作業台だ。背伸びをせずに済むおかげで、一日の終わりのふくらはぎの疲労がまったく違っていた。
今日は、朝から施療室の空気が少しだけ緩かった。
ダリウス様が、王宮での軍務会議と近郊の巡回討伐を兼ねて、一日不在なのだ。
あの巨大な背中がないだけで、広い施療室がさらに広く感じられる。圧迫感がないのは良いことのはずなのに、どこか空間の芯が抜けてしまったような、奇妙な物足りなさがあった。
私は作業台で薬草を刻み終えると、以前から気になっていた薬材棚の前に立った。
「先生。この棚の配置、少し動かしてもよろしいでしょうか」
記録をつけていたグレン医師が、顔を上げる。
「配置を? 使いにくいかね」
「緊急時に一番よく使う止血粉と清潔な包帯が、下段の奥にあります。一方で、滅多に出番のない治癒魔法の触媒石が、最も取り出しやすい中段を占めています」
治癒術師が長期不在の今、触媒石を使う機会はほぼない。
「それから、使用記録の帳簿ですが」
私は新しい束を提示した。
「記入者によって書き方がバラバラで、月末の在庫確認に手間取っています。日付、品名、使用量、処置者の名前を一覧にできる定型表を作りました。これを使えば、在庫の減りが一目で分かります」
医師は私の作った表と薬棚を交互に見比べ、小さく唸った。
「なるほど。たしかに、探す手間が省けるな。よし、君の使いやすいように変えてくれ」
「ありがとうございます」
私は手の空いている助手を二人借りて、棚の中身をすべて入れ替えた。
動線を考え、よく使うものを手前の目の高さへ。重い液体の瓶は下段へ。使用頻度の低いものは上段の奥へ。
昼過ぎに小規模な訓練での怪我人が数名運ばれてきたとき、その効果はすぐに表れた。
「包帯と消毒液を!」
医師の指示に、助手は迷うことなく中段から必要なものを取り出し、即座に手渡した。これまでのように棚の前で目当ての瓶を探してしゃがみ込む時間がない。処置の速度が、目に見えて上がっていた。
「素晴らしい。これなら夜間の急患でも慌てずに済む」
医師が手放しで褒めてくれた。助手たちも、格段に働きやすくなったと喜んでいる。
私も、自分の仕事が現場の役に立ったことが嬉しかった。
その瞬間だった。
「上手くいきましたよ」と、真っ先に伝えたい相手の顔が浮かんだ。
父ではない。目の前で褒めてくれた医師でもない。
あの、顔に傷のある不器用な男の顔だった。
無意識に、部屋の隅の書類架の方を振り返る。
けれど、そこには誰もいない。
今日は一日不在なのだと、朝から分かっていたはずだった。
いない。
その事実を改めて認識した途端、胸の奥がすっと冷えた。
驚くほど、残念だった。
成功を褒めてほしかったわけではない。ただ、「そうか。助かる」というあの低い声で、短く事実を肯定してほしかった。彼ならきっと、この改善がどれほど生存率を上げるか、瞬時に理解してくれるはずだから。
夕暮れ時。
西日が施療室の床を赤く染め始めた頃、廊下から重い足音が聞こえてきた。
複数の軍靴の音。その中に混じる、一際重く、等間隔な足音。
硬い布が擦れる気配がして、重い扉が開いた。
「怪我人はいない。消耗品の補充だけ頼む」
低い声とともに、ダリウス様が入ってきた。
扉口が急に狭く見え、私の手元へ巨大な影が伸びてくる。
丸一日馬に乗っていたのだろう。黒い軍服にはうっすらと土埃が白く付着し、無精ひげが朝よりも少し濃くなっているように見えた。
私は、無意識に表情がほどけるのを感じた。
気づけば、手にしていた帳簿を持ったまま、足早に彼のもとへ駆け寄っていた。
見上げる。いつものように、首が痛くなる角度で。
「ダリウス様。おかえりなさいませ」
「……ああ。何かあったか」
彼は少しだけ目を丸くした。私が駆け寄ってきた理由が分からない、という顔だ。
「薬棚の配置を見直しました」
私は彼を棚の前まで案内し、一覧にした在庫表を見せた。
「止血粉と包帯を手前にし、治癒術師が不在の間は使わない触媒石を奥へやりました。記録も定型化しましたので、夜間でも迷わず持ち出せますし、補充の時期もすぐに分かります」
ダリウス様は、薬棚と在庫表を静かに見下ろした。
それから、太い指で帳簿の端をそっと撫でる。小指ほどの薬瓶を扱うときと同じ、あの慎重な手つきで。
「……夜間の持ち出しが早くなるな」
「はい」
「補充の漏れも減る。戦場に近いやり方だ」
彼は顔を向け、真っ直ぐに私を見た。
「助かる。よくやってくれた」
ただの、業務上の報告に対する短い労いだった。
それなのに、その一言で、一日中ぽっかりと空いていた胸の穴が、温かいもので隙間なく満たされていくのを感じた。
「お役に立てて光栄です」
私が答えると、彼はわずかに視線を逸らし、なぜか少し居心地が悪そうに「……ああ」とだけ言って、自室へ戻っていった。
※
その夜。
タウンハウスの自室に戻った私は、入浴を済ませ、寝台の上に座って膝を抱えていた。
静かな部屋の中で、今日一日の自分の心の動きを順番に並べてみる。
薬棚の改善が上手くいったとき、一番に報告したいと思ったのはあの人だった。
彼がいないと気づいたとき、予想以上に残念だった。
廊下から足音が聞こえ、彼が戻ってきたとき、無条件に嬉しかった。
一番に報告したい。
いないと残念。
戻ると嬉しい。
私は、理屈で物事を考える質だ。
命を助けられたから惹かれたのではないかと、ずっと疑っていた。英雄への憧れや、怪我を隠して働く姿への同情を、恋と呼び違えているだけではないかと。
けれど、今日私が感じたものは、義憤でも同情でもない。
もっと些細な、ごく個人的で、日常的な欲求の蓄積だった。
「……そういうことね」
私は小さく息を吐き、自分の顔を手で覆った。
認めざるを得ない。
私は、あの恐ろしく大きな、黒熊と呼ばれる騎士団長に恋をしている。
自分の感情に名前がつくと、視界が一気にクリアになった。
私は、ダリウス・ベルグ様が好きだ。
結論が出たのなら、次はどう動くべきか。
彼はこちらの好意など、露ほども想像していない。過去に似たようなことがあったのだろう。「若い令嬢の好意は自分向けではない」という、正体の分からない経験則の中に閉じこもっている。
私がここで頬を染めて待っていても、あの男は永遠に気づかないだろう。彼にとって、私はただの「小柄で有能な施療院の助手」に過ぎないのだから。
気づかれないのなら、気づかせるしかない。
言葉で伝わらないのなら、行動で示すしかない。
派遣期間は、あと三週間ほど残っている。彼が私を特別扱いしてくれている(本人は「余っていた」などと誤魔化しているが)のは事実だ。
なら、その隙間から攻め込むだけだ。
私は寝台から降り、明日の制服の準備を始めた。
攻略を開始する。
明日の勤務で、まずは第一歩を踏み出そうと、私は静かに腹を決めた。




