第3話 余っていない作業台
「クラリス。今日の夕刻だが、予定通り茶席を設けているからね」
八月末の朝。
王都のタウンハウスの食堂で、父は食後の紅茶を飲みながら言った。
私は手元の予定帳から顔を上げた。茶席の予定自体は数日前から聞かされていたが、相手の素性については「当日話す」と濁されていた。
「お相手は、どなたですか」
「オスカー・ランデル伯爵令息だ」
父はティーカップを置き、静かに私を見た。
「真面目で、悪い噂一つない好青年だ。家柄も申し分ない。あくまで顔合わせの茶席だから、気負わなくていい」
それはつまり、縁談の候補ということだ。
父は私の施療院での活動を止めるような人ではない。だが、危険な目に遭ったばかりの娘の将来を案じ、平穏で確実な嫁ぎ先を見つけようとするのは、親として当然の行動だった。
「分かりました。夕刻までには、必ず戻ります」
私は短く頷き、席を立った。
今は縁談よりも、騎士団の施療室へ行くことの方が重要だった。
※
騎士団本部の廊下は、いつ来ても広い。
石造りの床を歩く騎士たちの足音は大きく、すれ違う男たちは皆、見上げるほど背が高い。それでも、あの団長の隣を歩いたときの、視界の半分が黒い軍服で塞がれるような感覚とは比べ物にならなかった。
施療室の重い扉を開け、私は足を踏み入れた。
そして、すぐに違和感に気づいて足を止めた。
窓際に、見覚えのない作業台が一つ増えている。
真新しい白木の台だった。高さは、私の腰の少し下あたり。昨日まで私が使っていた備え付けの作業台は、私の胸の高さまであり、薬草を刻むたびに爪先立ちにならなければならなかった。
「昨日まで、ありませんでしたよね」
私は、部屋の奥の書類架の前にいた大きな背中に向かって声をかけた。
ダリウス様は、手元の報告書から視線を外さず、振り返りもしなかった。
「余っていた」
低い声が、部屋の隅から返ってくる。
薬棚の整理をしていたグレン医師が、小さく咳払いをした。
「団長。昨夜のうちにわざわざ木工房へ寸法を出しておいて、余りもないでしょうに」
私はダリウス様を見た。
彼の広い肩が、ほんのわずかに動いた。
「……余らせた」
それだけ言って、彼は再び書類に目を落とした。
私は新しい作業台に近づき、そっと手を置いた。木の表面は滑らかに削られ、角も丁寧に落とされている。新しい木材の匂いがした。
試しに、籠に入っていたセイラン草を取り出し、包丁を握って台の前に立ってみる。
爪先立ちになる必要はなかった。肩に余計な力を入れなくても、真上からまっすぐに刃を下ろすことができる。
ちょうどいい高さだった。驚くほど、ぴったりと。
この方は、私が高い台で背伸びをしているところを、ただの一度も口に出さずに見ていたのだ。
そして、私が帰った後に木工房へ行き、私の背丈に合う寸法を伝えて、この台を作らせた。
「ありがとうございます。今日から、こちらを使わせていただきます」
私が言うと、ダリウス様は「ああ」とだけ短く返した。
それ以上追及するのはやめた。言えば、彼はまた何か別の理由を探して言い訳をするに決まっている。
私は心地よい高さの台で、黙々と薬草を刻み続けた。ふくらはぎが痛まないことが、ひどく嬉しかった。
※
夕刻。
タウンハウスの応接室には、上品な茶の香りが漂っていた。
向かいの長椅子に座るオスカー・ランデル様は、父の言葉通り、絵に描いたような好青年だった。金糸の混じる明るい茶髪に、穏やかな灰色の瞳。仕立ての良い上着を身にまとい、姿勢も所作も洗練されている。二十四歳という年齢以上に、落ち着いた空気を纏う方だった。
「クラリス嬢は、王都の施療院で奉仕活動をされていると伺いました」
オスカー様は、ティーカップを静かにソーサーに戻しながら言った。
「はい。週に四日ほど、薬草の管理や応急処置の助手を務めております」
「素晴らしいことです。貴族の令嬢の中には、土や血の匂いを嫌う方も多い。ですが、国を支えているのはそういった現場の働きです」
彼の言葉に、嘘や建前は感じられなかった。
「ランデル家は、王都と地方を結ぶ街道沿いの倉庫群や、運送商会を広く束ねております」
オスカー様は穏やかに微笑んだ。
「物資が滞りなく運ばれ、必要な場所へ必要なだけ届く。それがどれほど重要で、どれほど多くの人の手によって成り立っているか。私は幼い頃から、父の仕事を見て育ちました。だからこそ、現場で実務に就かれるクラリス嬢の姿勢を、心から尊敬いたします」
嫌味のない、真っ直ぐな称賛だった。
倉庫と運送商会。確かな実業を持つ伯爵家の嫡男として、彼はとても現実的で、地に足の着いた考え方をしている。
その後も、領地の気候の話や、最近の王都の物価の話など、会話は淀みなく進んだ。彼は私の言葉に耳を傾け、決して自分の意見を押し付けようとはしなかった。
父が彼を勧める理由が、よく分かった。
容姿、家柄、性格。どこを取っても欠点がない。もし彼と結婚すれば、きっと何一つ不自由のない、穏やかで安定した生活が待っているだろう。
客観的に見て、これ以上の良縁はない。
茶席が終わり、オスカー様を玄関まで見送った。
「本日は、楽しい時間をありがとうございました」
「こちらこそ。またお会いできる日を楽しみにしております」
完璧な礼をして、彼は馬車へ乗り込んでいった。
夜。
自室に戻った私は、鏡台の前に座って髪を解いた。
オスカー様は、間違いなく良い人だった。彼の隣に立てば、誰もが羨むだろう。
けれど、私の心は少しも動いていなかった。
会話が弾まなかったわけではない。彼が嫌だったわけでもない。ただ、心が平坦なままだった。鼓動が速くなることも、次は何を話そうかと焦ることもなかった。
鏡の中の自分を見つめる。
今日、私が一番心が動いたのは、いつだったか。
思い出すのは、美しい茶器でも、洗練された微笑みでもなかった。
泥と血の匂いが染み付いた施療室。
無骨で不器用な男の背中。
そして、私のために作られた、真新しい白木の低い作業台。
私が背伸びをしていることに気づき、何も言わずに寸法を測り、「余っていた」と嘘をついた。
手すりのような太い腕。傷のある顔。
あの人のことを思い出すと、今日一日ずっと楽だったはずのふくらはぎが、なぜか少しだけ熱を帯びたように感じた。
良い人に出会ったからこそ、はっきりと比較ができた。
私が惹かれているのは、言葉で称賛してくれる人ではない。私をよく観察し、必要なものを無言で用意してくれる、あの不器用な男なのだ。
私は目を閉じ、新しい木の匂いを思い出した。




