第2話 団長も患者です
八月の第三週。
王都騎士団の施療室には、朝から血と消毒薬、そして乾いた薬草の匂いが混ざり合って満ちていた。
「今日から六週間、治癒術師が北の街道へ討伐隊に同行する」
騎士団施療室の責任者であるグレン医師が、私と数人の助手に向かって言った。白髪を短く刈り込んだ、現場一筋の医師だ。
「大きな治癒魔法は当分使えん。我々の仕事は、怪我人の状態を正確に把握し、洗浄し、止血し、悪化を防ぐことだ。魔法の代わりは誰にもできん。無理はするな。判断に迷えばすぐに私を呼べ」
「はい」
私は短く頷いた。
王都の施療院から「貴族奉仕助手」として派遣されてきた私の役割は、まさにそこにある。
魔法で一瞬にして傷を塞ぐことは、私にはできない。できるのは、異常を見つけ、応急処置を施し、専門家へつなぎ、人を動かすことだけだ。現場の仕事と己の限界は、自分の領地の薬草園で嫌というほど学んでいる。
昼前、中規模の魔獣討伐を終えた小隊が帰還した。
静かだった施療室が、急に騒がしくなる。
軍靴の重い音が響き、埃と血にまみれた騎士たちが次々と運び込まれてきた。
「足をやられた! 肩を貸してくれ」
「こっちは腕だ。血が止まらん」
怒号と呻き声が交差する。私はすぐに清潔な布と止血粉の入った籠を抱え、一番出血のひどい騎士のもとへ走った。
「布を当てます。ご自分でここを強く押さえていてください」
「あ、ああ」
「医師を呼びます。それまで絶対に手を離さないで」
一つ指示を出し、次の負傷者へ向かう。
混乱の中、ひときわ大きく、よく通る低い声が響いた。
「入り口を塞ぐな。軽傷者は壁際へ寄れ。重傷の者を奥の寝台へ運べ」
ダリウス様だった。
黒い軍服は泥と魔獣の返り血で汚れ、広い肩が入り口の光を塞いでいる。大声で威圧しているわけではないのに、その短い指示だけで、混乱していた騎士たちが嘘のように統率を取り戻していく。
彼は部屋の隅に立ち、全体の状況を見渡していた。
ふと、その左腕から血が滴っているのに気づいた。
軍服の袖が裂け、前腕に浅からぬ切り傷ができている。しかし彼は顔色一つ変えず、自分の傷を後回しにして部下たちへの指示を続けていた。
一通り負傷者の一次処置が落ち着いたのを見計らい、私は布と洗浄用の水差しを持って彼の前へ歩み寄った。
見上げなければ、顔が見えない。
「団長。腕を拝見します」
ダリウス様はこちらを見下ろし、わずかに眉を寄せた。
「浅い。他の者を先にしろ」
「他の負傷者の一次処置はすべて終わりました」
私は水差しを近くの台に置き、彼の腕を指差した。
「次はあなたの番です」
「俺は後でいい」
「駄目です」
私は一歩踏み込み、部屋の隅にある丸椅子を指した。
「座ってください。団長も患者です」
ダリウス様は瞬きをした。
私が引く気がないことを察したのか、あるいは面倒になったのか。彼は小さく息を吐き、従順にその小さな椅子に腰を下ろした。
大きな体が丸椅子に収まると、ようやく私の視線と同じくらいの高さになる。それでも、目の前にある分厚い胸板と太い腕の威圧感は少しも減らない。
私は裂けた袖をまくり上げ、傷口を確認した。
「しみますよ」
「構わん」
布に水を含ませ、血と泥を洗い落とす。岩のように硬い腕だった。私がどれだけ力を込めて拭っても、彼の手首は一ミリも動かない。息すら浅くしているようだった。
「痛みますか」
「いや」
「浅傷でも、化膿して熱を出せば指揮に障ります。三日は水に濡らさないでください」
手早く止血粉を振り、包帯を巻く。彼の腕が太すぎて、私の両手では布を回すのにひどく苦労した。
包帯を留め終えると、私は近くの配膳台から硬いパンと干し肉の包みを取ってきた。
「食べてください」
彼に差し出すと、また拒絶の言葉が返ってきた。
「後で食う。まだ報告書が」
「今です」
私は包みを彼の手の中に押し付けた。
「負傷した上に昼食を抜けば、治りが遅くなります。団長が倒れれば、騎士団の損失です」
医学的かつ職務的な理由を並べると、彼はそれ以上反論しなかった。
太い指で不器用に包みを開け、無言でパンをかじり始める。
ふと背後から視線を感じて振り返ると、手当を終えた騎士たちが、信じられないものを見るような目でこちらを凝視していた。
声を潜めているつもりらしいが、静かになった施療室ではよく聞こえる。
「団長が、大人しく座っている……」
「しかも、飯まで食わされてるぞ」
そこへ、帳面を片手にジュリアン様が入ってきた。
壁際でパンをかじるダリウス様と、その前に立つ私を交互に見て、彼は美しい顔に微かな驚きを浮かべた。
「……珍しい光景ですね」
「何がですか」
「団長が医務室で自分の順番を守り、食事までしていることです。いつもなら、傷を布で縛って執務室へ戻っている」
ジュリアン様は肩をすくめた。
「ハーウェル嬢。あなた、猛獣の扱いが上手いのでは」
「怪我と空腹を放置する方が不自然です。私は当たり前のことを言っただけです」
私が淡々と返すと、ジュリアン様は「なるほど」とだけ言って、ダリウス様の方へ歩いていった。
あの美貌の副団長様に何を言われても、私の心は少しも動かない。
ただ、大きな体を丸めてパンを食べるダリウス様の姿が、少しだけ可笑しかった。
午後の施療室は、波が引いたように静かだった。
私は薬局の隅にある高い作業台に向かい、明日のために乾燥させたセイラン草を刻んでいた。
騎士団の設備は、当然ながら大柄な男性向けに作られている。
胸の高さまである作業台は、小柄な私にはひどく使い勝手が悪かった。刃を落とすために体重をかけようとすると、どうしても爪先立ちにならざるを得ない。ふくらはぎが張り、腕の力だけで硬い薬草を刻むのは骨が折れた。
トントン、という包丁の音が規則正しく響く。
届かない上の棚から薬瓶を取るために、一度背伸びをして、諦めて踏み台を探そうとしたときだった。
背後に、人の気配がした。
窓から差し込む西日が遮られ、私の手元に巨大な影が落ちる。
振り返ると、腕に真新しい包帯を巻いたダリウス様が立っていた。
彼は何も言わず、私が爪先立ちになっている足元と、高すぎる作業台をじっと見ていた。
「ダリウス様? 傷が痛みますか」
声をかけると、彼はハッとしたように視線を上げた。
「……いや。問題ない」
それだけ言うと、彼は踵を返し、足早に施療室を出て行った。
何だったのだろう。
私は首を傾げながら、再び爪先立ちになってセイラン草を刻み始めた。




