第1話 黒熊と呼ばれる男
八月半ば。
王都慈善施療院の裏庭には、むせ返るような薬草の青臭さが立ち込めていた。
私は日除けの下に帳簿を広げ、届いたばかりの木箱の中身と順番ににらめっこをしていた。
「セイラン草の束が三十。乾燥状態は良好。葉の厚みも十分です」
父が治めるハーウェル領から納品された薬材だ。
私は束の一つを手に取り、茎の折れ具合を確かめる。
「ただし、こちらの箱の止血粉は、底が少し湿気を吸っています。納品経路を確認してください。東の街道を通ったなら、昨晩の雨のせいかもしれません」
「すぐに確認させます、ハーウェル嬢」
施療院の職員が、慌てて帳簿に書き込みを入れる。
「湿気たものは別にしておいてください。急ぎの処置では使い物になりません。新しいものを一番上の棚へ」
「はい、承知いたしました」
私は王都のタウンハウスから、週に四日、ここへ「貴族奉仕助手」として通っている。
身分だけの名誉職ではない。
薬草の整理、止血、骨の固定、患者の呼吸状態の観察、搬送の優先順位の決定。物資の管理。どれも現場の仕事だ。
私に魔法は使えない。
異常を見つけ、応急処置をし、専門家である医師や治癒術師につなぎ、人を動かす。それが私の役割だった。
検品を終え、私は残りの薬草箱を二つ、帰りの馬車に積み込んだ。
洗いたての布と、予備の止血粉だ。念のため、自邸の管理庫へ移しておく。
事件が起きたのは、その帰路だった。
王都の外れ。駅馬車の待合所付近を通りかかったときだ。
突然、馬車が大きく跳ねた。
咆哮が響く。
車体が激しく傾いだ。私は薬草の箱ごと床へ転がり、窓枠にしがみついた。
悲鳴。馬のいななき。
ひび割れた窓硝子の向こうに、巨大な獣の姿が見えた。
灰狼だ。
濡れた息の音が、すぐそこから聞こえる。獣特有の饐えた臭いが鼻をついた。
恐怖で喉が引きつる。指先が冷たくなり、呼吸の仕方を忘れそうになった。
次の瞬間、黒い塊が視界を横切った。
一度きりの、風を裂く重い音。
それだけで、灰狼は声も上げずに崩れ落ちた。
血しぶきが、待合所の白壁に赤い筋を描く。
剣を振って血を落とした男は、私の乗る客車を振り返らなかった。
まっすぐに、待合所の前で横転した荷馬車の方へ歩いていく。
農家の一家が巻き込まれたらしかった。
投げ出された御者が、土の上で血だまりを作っている。
私は傾いた車内の窓から、声を張った。
「箱を」
巨大な背中が、一拍だけこちらを向いた。
顔に古い傷のある、恐ろしく大きな男だった。
黒い軍服。広い肩。
目が合って、心臓が縮み上がった。
怖い。純粋な生存本能が、そう告げていた。
それでも、私は叫んだ。
「座席の下です。布と、止血の粉が入っています」
彼は何も言わず、私の馬車の歪んだ扉をこじ開けた。
箱を掴み出すと、また御者のもとへ戻る。
「もっと上です。腿の付け根を縛ってください。強く」
私の指示に、男は迷わなかった。
誰だお前は、とも言わない。身分も年齢も問わず、言われた通りに一番太い血管の上を布で縛り上げた。
的確で、無駄のない動きだった。彼が体重をかけて布を引くたび、ごつい前腕の筋肉が隆起するのが見えた。
後れて駆けつけてきた護衛の騎士たちへ、短い指示が飛ぶ。
「傷の位置を確認しろ。頭を打っている者を優先。王都へ走らせる馬を二頭出せ」
誰を先に助けるべきか、この人は一瞬も迷わない。
興奮して暴れる馬の首を、丸太のような太い腕が押さえ込む。
低い声で二言、三言。
馬は、嘘のように静かになった。
道の端で、荷馬車から放り出された子どもが泣いていた。
男は歩み寄ろうとして、足を止めた。
自分の手を見ている。
魔獣の血で、指の間まで黒く濡れていた。
彼はその手を、無言で背中へ回した。
そして別の騎士へ顎をしゃくり、子どもの方を示した。
最後に、彼は私のところへ来た。
馬車の歪んだ枠に手をかけ、私と目が合う。
彼が馬車の前に立つと、夕暮れ前の太陽が完全に遮られ、車内が薄暗くなった。
そして、無言で一歩下がった。
「足場が悪い。降りられるか」
地面の底から響くような声だった。
差し出されたのは、手ではなく前腕だった。踏み台にしろということらしい。
私はそこへ両手を置いた。
岩のようで、少しも揺らがない。
地面へ降りた瞬間、右の足首に鋭い痛みが走った。
転がったときに捻ったのだろう。
顔をしかめたのは、ほんの一瞬だったと思う。
「足首か」
見られていた。
「捻ったようです。ですが、歩けます」
「抱き上げる。構わないか」
甘い言葉ではなかった。
怪我人の搬送手順を、順番通りに確認する声だ。
相手の選択権を奪わずに、必要な許可だけを求める。
「……お願いいたします」
身体が浮いた。
片腕だけで抱え上げられても、私はまったく揺れなかった。
彼が歩き出すと、硬い布の擦れる音がした。黒い軍服には、血と土の匂いが染み付いている。
その肩越しに、彼が黒い外套を脱ぐのが見えた。
自分の外套を、血の気の失せた御者へ掛けている。
八月の街道で、汗だくになった男が。
「団長。遅れました」
馬を降りて駆けてきたのは、長い金髪の美しい騎士だった。
騎士団の制服。襟元の階級章。
そこで初めて、私は自分を助けた男が王都騎士団の団長であることを知った。
ダリウス様は、副官らしきその美しい騎士に頷いた。
「怪我人は施療院へ運ぶ。馬車を手配しろ」
「はっ。それにしても」
金髪の騎士が、倒れた灰狼の死骸を見て眉をひそめた。
「八月に王都の近郊まで降りてくるとは。秋の魔獣の大移動には、まだ早すぎます」
「……ああ。嫌な時期だな」
ダリウス様が、ほんの少しだけ私を見た。
それから、すぐに視線を逸らした。
私は降ろされた後も、ただ休んでいたわけではない。
痛む足首を庇いながら、施療院の助手の顔に戻った。
「そちらの騎士の方。私の馬車に積んである予備の止血粉を持ってきてください」
指示を出し、散乱した薬草箱を回収させる。
同時に施療院へ人を走らせる。何人の負傷者がどの程度の怪我で搬送されるか、事前の受け入れ態勢を整えさせた。
王都の施療院が突然の重傷者に混乱しないよう、手配するのは私の仕事だったからだ。
それをしながら、私は目で追っていた。
怪我人を見捨てない背中。
血のついた手を隠す仕草。
汗だくのまま、他人へ外套を掛ける肩。
大きな体も、顔の傷も、低い声も、たしかに怖い。
怖いのに、目が離せなかった。
あの的確な判断力。
小さなものへ向ける、不器用で確実な配慮。
あれは、どういう人なのだろう。
私はこのとき、自分の感情に名前をつけていない。
ただ、純粋な興味があった。
もっと近くで、あの判断の理由を知りたかった。
翌日、騎士団から施療院へ要請が来た。
北の街道へ治癒術師を同行させるため、王都の騎士団施療室の人手が足りなくなる。
代わりに、六週間の派遣を出してほしいという。
私は迷わず、院長に志願した。
騎士団へ通い始めるのは、翌々日のことだった。




