第37話 夫婦になって、初めて喧嘩しました
一月に入り、王都は本格的な冬の寒さに包まれていた。
この日は朝から氷雨が降り続いていた。底冷えするような湿気が屋敷の中にまで入り込み、骨の髄まで冷やすような一日だった。
夜。
本院と第二処置所を行き来する連日の勤務を終え、夜になって私はダリウス邸へ帰ってきた。
玄関の低いフックに濡れた外套を掛け、疲労で重くなった体を引きずるようにして書斎へ向かう。
書斎では、ダリウス様が巨大な机に向かい、翌日からの北街道への巡回警備の準備書類に目を通していた。
私は彼に声をかけようとして、ふと足を止めた。
ランプの光の下でペンを走らせる彼の左手が、ほんのわずかに、しかし確実に強張っていたのだ。
そして、その利き手ではない左手を庇うように、彼の広い肩が不自然な角度で傾いている。
「ダリウス様。左腕が、痛むのではありませんか」
私が尋ねると、彼はビクッと肩を震わせ、慌てて左手を机の下に隠した。
「……いや。何ともない」
「嘘です。雨の日は古傷が疼くのでしょう。以前もそうでした。なぜ隠すのですか」
私は疲労のせいか、いつもより少しだけ語気が強くなってしまった。
ダリウス様は顔をしかめ、私を真っ直ぐに見返した。
「隠しているわけではない。だが、明日からの巡回は重要だ。俺が休むわけにはいかん」
「休めとは言っていません。温布を当てて、痛みを和らげる処置をさせてほしいと言っているのです。無理をして明日剣が握れなくなったらどうするのですか」
「これくらいの痛みで剣が握れなくなる俺ではない。それより、お前こそ」
ダリウス様は、鋭い視線を私に向けた。
「ここ数日、まともに寝ていないだろう。さっきから顔色が悪い。目の下にも隈ができている。……そんな状態で、俺の世話などしなくていい。さっさと休め」
「私は大丈夫です。ただ少し疲れているだけですわ」
「疲労で倒れられては困る。お前は自分の限界を分かっていない。だから、寝ろと言っているんだ」
私たちは、お互いを睨み合った。
相手を心配する気持ちが裏目に出て、言葉がどんどん硬く、冷たくなっていく。
怒鳴り合いではない。ただ、二人とも引くことができず、意地を張っている状態だった。
ふと、私は気がついた。
私が彼に無理をしないでほしいと思うように、彼もまた、私が無理をして倒れるのを恐れているのだ。
そして、お互いに「相手に心配をかけまい」として自分の不調を隠し、結果的に相手を怒らせている。
「……ダリウス様」
私は深く息を吐き出し、張り詰めていた肩の力を抜いた。
「私たちは、同じことをしていますね」
「同じこと?」
「はい。相手を守りたいあまりに、自分の不調を隠して、一人でどうにかしようとしている。……あなたが昔、私の幸せを勝手に決めて遠ざけようとしたのと同じです」
ダリウス様はハッとしたように息を呑んだ。
「私も、自分の限界を一人で決めて、あなたに頼ろうとしませんでした。……ごめんなさい」
私が素直に謝ると、ダリウス様は少しだけ困ったような、そしてひどく優しい顔になった。
「……俺も、すまん。お前に心配をかけたくなかった」
彼はゆっくりと立ち上がり、私の前に来た。
「新しいルールを決めましょう」
私は彼を見上げた。
「自分の不調を、相手に隠さないこと。無理をして一人で解決するのではなく、事実を告げて、どう休むかを二人で決めること。……いかがですか」
ダリウス様は深く頷いた。
「分かった。約束する」
そして、彼は不器用に左腕を差し出した。
「……痛む。温めてほしい」
私は小さく笑い、厨房へ向かった。
お湯を沸かし、清潔な布を浸して硬く絞る。
書斎に戻ると、ダリウス様は私が座る小さな机の横に、私のための丸椅子を引き出して待っていた。
「座れ」
「ありがとうございます」
私が椅子に座ると、彼は私の隣に立ち、自分の左腕を私の膝の上にそっと置いた。
私は温かい布で、彼の古傷を優しく包み込む。
「……これで、痛みが引きますか?」
「ああ。ずいぶんと楽になった」
ダリウス様は私の頭に大きな手を乗せ、ぽんぽんと軽く叩いた。
「温湿布が終わったら、今日はもう休め。明日の朝食の準備は、俺が使用人に指示を出しておく」
「はい。お言葉に甘えますわ」
どちらか一方が介抱するだけではない。彼もまた、私の疲労を理解し、具体的な行動で休ませようとしてくれている。
氷雨の音が窓を打つ静かな夜。
私たちは初めての喧嘩を経て、また一つ、夫婦としての新しいルールを手に入れたのだった。




