第36話 「妻です」と、自分から言いました
十二月の末。
王都の迎賓館で、今年最後の夜会が開かれていた。
秋の大移動という未曾有の危機を乗り越えたことを祝い、王家が主催した公式な行事である。私たち夫婦も、騎士団長とその妻としてこの夜会に招かれていた。
会場に足を踏み入れると、きらびやかなシャンデリアの光が広間を照らし出していた。
ダリウス様は、例の如く黒い軍礼装だ。その巨大な体躯と顔の古傷は、優雅な夜会の場にあってはひどく異質で、やはり周囲の視線を集めてしまう。
だが、その視線の質は以前とは明確に違っていた。
「ご覧なさい、ベルグ団長よ。秋の防衛戦でのご活躍、見事だったと伺っているわ」
「ええ、その隣にいらっしゃるのが、先月ご結婚されたばかりの奥様ね」
扇の陰から聞こえてくるのは、嘲笑や偏見ではなく、明らかな好意と尊敬の響きだった。
大移動の際の彼の的確な指揮、そして臨時救護所での救護班の働きは、社交界でも少なからず評価を得ていたようだ。
だが、私はその評価の変化に得意になるようなことはなかった。彼がどれほど過酷な戦場で戦ってきたかを知っているからこそ、安全な場所からの賞賛を素直に喜ぶ気にはなれなかったのだ。
私たちは広間の壁際に立ち、飲み物を手に歓談していた。
そこへ、恰幅の良い中年の貴族が歩み寄ってきた。秋の会合で、ダリウス様を「兵卒上がり」と侮蔑していた、あの古参貴族だ。
「やあ、ベルグ団長。先日の大移動では、見事な采配であった。王都の防衛を完遂したこと、心より労いを申し上げよう」
彼は以前の態度をすっかり覆し、愛想の良い笑みを浮かべてダリウス様に話しかけた。
ダリウス様は表情を変えることなく、淡々と頷いた。
「……恐縮です。部下たちの働きと、後方の救護が機能した結果に過ぎません」
「謙遜されるな。して、そちらにいらっしゃるのは……ええと、たしかハーウェル子爵家の」
古参貴族が私に視線を移し、紹介を促すように言葉を濁した。
以前のダリウス様であれば、ここで不器用な沈黙を作り、ジュリアン様に紹介を任せるか、あるいは案内役の係に丸投げしていたかもしれない。
だが、彼は私の隣で、誰に促されることもなく、静かに、そしてはっきりと口を開いた。
「妻です」
その一言には、何の飾りも、自己卑下もなかった。
ただ事実を、当然のこととして、誇りを持って言い切ったのだ。
「先日、結婚いたしました。クラリス・ベルグです」
彼は私の名を呼び、その巨大な手で私の腰をそっと引き寄せた。
私は、息を呑んだ。
頭の中に、あの求婚の日の出来事が鮮明に蘇る。
『副団長には俺から話を通そう』
あの時、彼は私の求婚をジュリアン様への縁談だと誤解し、自分が選ばれることなど微塵も考えていなかった。私を他の男へ繋ぐための「壁」になろうとしていたのだ。
その彼が今、私の隣に立ち、誰の目も憚ることなく、自分の意思で私を「妻」と紹介してくれた。
古参貴族は一瞬だけ驚いたような顔をしたが、すぐに笑顔を取り繕った。
「おお、これは失礼いたしました。ベルグ夫人、素晴らしいご伴侶を得られましたな。お二人の末長いお幸せをお祈りいたしますよ」
「ありがとうございます」
私は完璧な礼を返し、静かに微笑んだ。
大げさに涙を流すような真似はしない。ただ、彼が口にしてくれたその一言の重みを、胸の奥でしっかりと受け止めた。
※
夜会が終わり、帰りの馬車の中。
窓の外はすでに暗く、冷たい風が車体を揺らしていた。
私たちは向かい合って座り、言葉少なに外の景色を眺めていた。ダリウス様は少し疲れたのか、目を閉じて腕を組んでいる。
「ダリウス様」
私が声をかけると、彼はゆっくりと目を開けた。
「なんだ」
「……先ほどの紹介、もう一度聞きたいです」
私が冗談めかして言うと、ダリウス様は一瞬何のことか分からないような顔をして、それから明らかに視線を泳がせた。
「な、何を言っている」
「『妻です』と、とてもはっきりとおっしゃっていましたよね。以前のあなたなら、絶対に言えなかった言葉ですわ」
「……からかうな」
彼は顔を背け、窓の外の暗闇を睨みつけた。
「事実を言ったまでだ。お前は俺の妻だろう」
「はい。あなたの妻です」
私が微笑んで頷くと、彼は不器用に口元を緩め、大きな手で自分の首の後ろを撫でた。
◇ ダリウス ◇
夜会の喧騒から離れ、馬車の中に二人きりになると、ようやく肩の力が抜けるのを感じた。
彼女を「妻」だと、人前で自分の口から紹介した。
その事実が、魔獣の大群を相手に戦果を上げるよりも、ずっと現実味がなく、同時に恐ろしいほどの幸福感をもたらしていた。
かつての俺なら、自分のような傷だらけの男が、彼女のような美しい令嬢の隣に並ぶことなど許されないと思っていた。彼女が俺を選ぶはずがないと、勝手に諦めていた。
だが、彼女はそんな俺の言い訳を一つずつ退け、自分の意思で俺の隣に立ち続けてくれた。
彼女の指が、俺の袖口を軽く握る。
冷たい夜風が吹く馬車の中にあっても、俺が帰る場所には、俺の帰りを待っていてくれる、俺を選んでくれた相手がいる。
その確かな安堵感が、俺の胸の奥を温かく満たしていた。




