第35話 決めたルールでは足りませんでした
十二月中旬。
私たちが結婚式を挙げ、夫婦としての生活を始めてから数日が経ったある夜のことだった。
王都は底冷えするような寒さに包まれ、窓ガラスにはびっしりと霜が降りていた。ダリウス邸の書斎で、大小二つ並んだ机に向かい、それぞれ書類仕事をしていた私たちの耳に、不意に遠くから警鐘の音が届いた。
「……緊急の搬送だ」
ダリウス様が素早くペンを置き、立ち上がった。彼が立ち上がると、書斎のランプの光が大きく遮られる。
私もすぐに自分の小さな机から立ち上がり、壁際の低い棚から、あらかじめ準備してある救護用の薬材箱を掴み取った。
一階の玄関ホールへ降りると、冷え切った夜気と共に、泥だらけの伝令が飛び込んできた。
「団長! 西の街道沿いで大規模な土砂崩れが発生し、夜間巡回中の馬車と商隊が複数巻き込まれました! 負傷者多数、直ちに年末まで試験運用中の第二処置所へ搬送を開始します!」
「分かった。すぐに本部へ向かい、追加の救助隊を編成する」
ダリウス様は短く応じ、壁の高いフックから自身の巨大な外套を引き抜いた。
私も、自分の小さな外套を羽織る。
試験常設中の第二処置所は、私が連携勤務で実務を取り仕切っている場所だ。これほどの大規模搬送となれば、当直の医師だけでは手が回らない。
「私も向かいます」
私が薬箱を抱え直して言うと、ダリウス様の動きがピタリと止まった。
彼の黒い瞳が、私と、そして外の暗闇を交互に見る。
「……護衛は」
低い、ひどく硬い声だった。
婚約中に、私たちは結婚後の働き方について明確なルールを定めた。
その中の一つが、「夜間の非常事態による呼び出しには、必ず騎士団からの護衛を同行させる」というものだ。
しかし、今夜の緊急動員で、屋敷から出られる騎士はすでに第一陣へ加わっていた。門と家族を守る最低限の守衛だけは残っているが、持ち場を離すわけにはいかない。
「申し訳ありません、団長」
伝令の騎士が青ざめた顔で報告した。
「本部の待機組も現場へ出ています。今すぐ同行できる騎士はおりません」
機動できる護衛がいない。
ダリウス様は、分厚い手袋をはめた手で、腰の剣の柄をきつく握りしめた。
「……ならば、俺が処置所まで送る」
彼が言い放った言葉に、私は即座に首を横に振った。
「いけません。ダリウス様」
「夜間の単独行動はさせない約束だ。お前を一人で暗い夜道へ出すわけにはいかん」
「だからといって、騎士団長であるあなたが私を送るために時間を割けば、本部での指揮系統に空白が生まれます」
私は彼を見上げ、きっぱりと言い切った。
「あなたは私の夫ですが、同時に王都の盾です。今この瞬間、夫としての役割を優先して、団長としての指揮所を空けることは、絶対に許されません」
ダリウス様は、息を呑んだ。
巨大な体が、玄関ホールで岩のように固まっている。彼の中で、「妻を守りたい」という強烈な本能と、「騎士団長としての責務」が激しく衝突しているのが分かった。
私は彼に反論の隙を与えなかった。私とて、無謀に一人で夜道を走るつもりはないのだ。
「ダリウス様。護衛がいないのなら、代替案をとります」
私は、頭の中で王都の地図と当直の配置を素早く組み合わせた。
「本院の夜間当直班が、非常鐘を聞いて医療物資の馬車を出すはずです。あの馬車は、この屋敷の前の街道を通ります。門衛に緑の灯を掲げてもらい、敷地の門前で停めて、医務局の護衛つき馬車へ乗ります」
「だが……」
「私は一人で夜道へ出ません。処置所に到着したら、直ちに安全確認の『緑の連絡札』を、戻りの伝令に託して本部へ届けさせます」
私は彼に一歩近づき、その硬く握られた拳の上に、自分の小さな手をそっと重ねた。
「夫として送りたいというお気持ちは、嬉しいです。ですが、今は団長として本部へ残ってください」
ダリウス様は、私の手と、私の真っ直ぐな視線をじっと見つめ返した。
彼が強権を発動して私を閉じ込めるようなことはしないと、私は知っている。彼は、私の判断を信じてくれる人だからだ。
やがて、彼は深く、重い息を吐き出した。
「……通常の所要時間に、十五分だ」
「え?」
「馬車が着く予定時刻を十五分過ぎても『緑の連絡札』が届かなければ、事前の代行順位に従って指揮をジュリアンへ移し、捜索を出す」
作戦の最終確認のような、容赦のない声だった。
私は小さく乾いた笑いをこぼし、「承知いたしました」と頷いた。
※
本院の馬車に無事に合流できた私は、第二処置所へ到着するなり、凄まじい混乱の中に飛び込んだ。
「ハーウェル嬢! 重傷者が六名、奥の寝台へ!」
「こちらの方は泥を飲んでいます、気道の確保を!」
私は持ち込んだ薬箱を開き、入り口で患者の区分を叫びながら、まずは約束通り、緑色の小さな木札を伝令の少年に押し付けた。
「これを、本部のダリウス団長へ。ほかの報告札と同じ順で、確実に届けてください」
それからは、戦場のような時間が続いた。
土砂崩れによる骨折、挫傷、そして冷えによる体力低下。
私は医師の指示の元、止血粉を撒き、添え木を固定し、助手を動かして湯と毛布を絶え間なく運ばせた。
単独で無理な判断はしない。自分の限界を超えそうな傷は、即座に医師へ引き継ぐ。
それも、私と彼の間で交わしたルールの内だったからだ。
すべての急患の処置が終わり、処置所にようやく落ち着きが戻ったのは、夜明け前だった。
「……終わりましたね」
血と泥で汚れきった手を洗いながら、私は深く息を吐き出した。
※
翌朝。
それぞれの事後処理を終え、私たちはダリウス邸の書斎へ戻ってきた。
窓の外はすっかり明るくなっていたが、私たち二人は疲労で言葉も少なかった。
ダリウス様は軍服の襟元を少しだけ緩め、自分の巨大な机ではなく、私が座っている小さな机の横に丸椅子を引き寄せて座った。
そして、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。
それは、婚約中に私たちが取り決めた「結婚後の仕事のルール」が箇条書きされた紙だった。
彼はその紙を机の上に置き、自分の失敗を恥じることも、私を危険な目に遭わせたと過剰に自己卑下をすることもなく、ただ静かに言った。
「……決めたルールでは、足りなかったな」
「はい。足りませんでした」
私は頷いた。
ルールというものは、一度決めて完璧に機能するような甘いものではない。現実の想定外の事態に直面し、その都度、現場に合わせて書き直していくしかないのだ。
「夜間の護衛が不足した場合の、代替策を追記しましょう」
私はペンを取り、紙の余白に新しい項目を書き込んだ。
「騎士団からの同行が不可能な場合は、医務局側の代理護衛と合流する。そして、到着次第、本部に安全確認の『連絡札』を送る」
ダリウス様もペンを受け取り、その下に太く力強い文字で書き足した。
「単独判断の限界を厳守する。……それと、連絡札が遅れた場合の、捜索開始時間の基準」
私たちは、喧嘩をすることも、互いを責めることもなく、ただ淡々と、これからの生活を安全に回すための仕組みをアップデートしていった。
「……緑の札が届いた時、少しだけ肩の力が抜けた」
ダリウス様が、ペンを置きながらぽつりと言った。
「本部の指揮所からでも、お前が無事だと分かる仕組みは……悪くない」
私は小さく微笑み、新しいルールが書き足された紙を、二人の机の真ん中に置いた。
「ええ。明日からも、このルールでいきましょう」
夫婦だからといって、ただ感情で守り合うのではない。
私たちはこうして、現実と向き合いながら、二人で生きるための形を作り続けていくのだ。




