第34話 夫婦になった翌朝
十二月十三日。
結婚式を終え、私たちが正式に夫婦となった最初の朝だった。
目を覚ますと、隣には巨大な背中があった。
ダリウス邸の寝室。彼が「絶対に落とさない」と言って特注してくれた、ひどく頑丈で広い寝台だ。
昨夜は、披露宴の疲れと、新しい家で彼と二人きりになった緊張とで、互いに少しだけぎこちなかった。寝室の扉を閉めた後も、私たちはしばらく言葉少なに並んで座っていた。
初夜だからといって、彼が獣のように襲いかかってくることはなかった。ただ、あの巨大な手で私の頬をそっと包み、「……帰ってきてくれて、嬉しい」と低く囁いてくれただけだ。
その体温を思い出し、私は毛布の中で少しだけ顔を赤くした。
私はそっと起き上がり、支度を整えて一階の食堂へ向かった。
二人仕様に改修した家が、自然に機能し始めていた。
厨房では、背の高いダリウス様用の棚の下に増設された、私の背丈に合わせた低い棚から、使用人が手際よく食器を取り出している。
食堂のテーブルには、大きな椅子と、私が足をぶらつかせずに座れる小さな椅子が並んでいる。
「おはよう、クラリス」
ダリウス様が食堂に入ってきた。
彼はすでに黒い軍服に着替え、いつものように出勤の準備を完全に整えていた。
「おはようございます、ダリウス様。今日は少し、お早いですね」
「ああ。秋の大移動の事後処理と、来期の予算編成の会議がある」
彼は大きな椅子に腰を下ろし、使用人が配膳した朝食を素早く平らげ始めた。
食事を後回しにする彼の癖は、私が施療室で「食べてください」と口うるさく言ったおかげで、最近は少しだけ改善されている。それでも、食べる速度は相変わらず軍隊の野営並みに早い。
「クラリス。お前の今日の予定は」
食後の茶を飲みながら、ダリウス様が尋ねてきた。
「本日は本院での勤務です。午後からは、年末まで試験運用されているあの第二処置所へ向かい、薬材の在庫の引き継ぎを行います」
「そうか。帰りは何時になる」
「夕方の六時頃には終わる予定です」
「分かった。暗くなる前に帰れ。もし遅くなるなら、迎えを出す」
彼は監視しているのではなく、純粋に家族として私の安全と予定を確認しているのだ。
私は嬉しくなり、小さく頷いた。
「ありがとうございます。ダリウス様は、何時に戻られますか」
「……会議が長引かなければ、七時には帰る。夕食は、一緒に」
「はい。お待ちしております」
玄関まで彼を見送る。
玄関の壁には、昨夜二人で掛けた大小二つの黒い外套が並んでいる。
ダリウス様は自分の巨大な外套を羽織ると、私の頭を大きな手でポンと一度だけ軽く叩いた。
「行ってくる」
「いってらっしゃいませ」
彼が玄関の扉を開け、外の冷たい空気の中へ歩み出していく。
その広い背中を見送る時、私はふと、彼が門を出るまでの一歩一歩が、以前よりも少しだけゆっくりになっていることに気がついた。
私が隣にいるわけではないのに、彼は無意識に歩幅を落としているのだ。
その小さな変化が、私にはたまらなく愛おしかった。
※
夕方。
私は本院と第二処置所での勤務を終え、ダリウス邸へ帰ってきた。
「おかえりなさいませ、奥様」
使用人に出迎えられ、私は自分の小さな外套を、ダリウス様のまだ掛かっていない高いフックの隣にある、低いフックへ掛けた。
私は書斎へ向かった。
ダリウス様の巨大な執務机の隣には、私のための小さな、しかし頑丈な机が並べて置かれている。
私はその机に座り、今日施療院で整理した薬材の帳簿を広げた。隣にある空の低い棚に、自分の使い慣れた薬箱をそっと置く。
これで、この家は本当に完成したのだと思った。
私の居場所が、彼と並んでここにある。
夜の七時を少し回った頃、玄関が開き、ダリウス様の重い足音が聞こえてきた。
「……ただいま」
「おかえりなさいませ、ダリウス様」
書斎から顔を出すと、彼は少しだけ疲れた顔をしていたが、私を見るとホッと肩の力を抜いた。
二人で夕食のテーブルを囲む。
特別な出来事はない。ただ、今日あった些細な仕事の報告や、明日の予定を少しだけ言葉を交わしながら確認し合う。
(……なんだか、とても嬉しい)
私は、温かいスープを飲みながら、内心でそう呟いた。
激しい恋の駆け引きも、命を懸けた魔獣討伐も、もうここにはない。
あるのは、明日の予定を確認し合い、同じ家で眠り、また同じ家へ帰ってくるという、穏やかで確かな日常だけだ。
私は、この日常を選び続けるために、彼と結婚したのだ。
しかし、その平穏な新婚生活のルールが、早くも現実の壁にぶつかろうとしていることに、私はまだ気づいていなかった。




