第38話 一緒に歩いて帰ろう
翌年の三月。
王都を覆っていた厳しい寒波は過ぎ去り、空には春雨を予感させるような、少しだけ湿気を帯びた柔らかな雲が広がっていた。
北門近くに新設された「王都連携新救護所」。
去年の秋の大移動の際、臨時で立ち上げられ、年末まで試験運用されていた第二処置所が、この春から正式な王都の施設として常設化されたのだ。
私はその真新しい建物の奥で、搬入されたばかりの薬草の木箱を開け、帳簿と照らし合わせていた。
「セイラン草の粉、規定量あります。止血用の布も問題ありません。こちらの箱は、右の棚の三段目へ収めてください」
私の指示を受け、数人の若い助手たちが機敏に立ち働く。
ふと視線を向けると、窓際の明るい場所で、一人の小柄な助手が薬草を細かく刻んでいた。
彼女が使っているのは、私の腰の少し下くらいまでしかない、低い作業台だ。背伸びをすることもなく、無理な姿勢をとることもなく、彼女は快適そうに包丁を動かしている。
その低い作業台は、この新救護所では標準設備として三つほど導入されている。
かつて、騎士団の施療室で私が爪先立ちになっているのを見て、ダリウス様が無言で用意してくれたあの台と同じ寸法だ。
あれは当初、私個人のための特別な配慮だった。だが、それが実務上どれほど小柄な作業者の負担を減らし、効率を上げるかが証明された結果、こうして正式な設備基準として採用されたのである。
私が「騎士団長の妻」だから特別扱いされているのではない。私がここで働き、作り上げてきた効率と実績が、正当に評価されて制度として定着したのだ。
それが何よりも嬉しく、誇らしかった。
先週、王家からは、秋の防衛と救護体制の整備を功績として、ベルグ家の世襲を審議するとの通知も届いた。
私たちは審議を受けることだけを決めた。許可が下りても、それはまだ見ぬ子どもへ強いる答えではなく、将来渡せる選択肢の一つにする。家名も生き方も、その時に本人を交えて決めればいい。あの会食で出した結論は、変わっていなかった。
「ベルグ夫人。本日の重症患者の引き継ぎ記録、これでよろしいですか」
新救護所の医務責任者となったグレン医師が、書類を手にして私に声をかけてきた。
結婚して数ヶ月が経つが、職場で「夫人」と呼ばれることにはまだ少しだけこそばゆい感覚がある。
「はい。経過観察中の患者の所見は、すべて記録しました。夜間当直の編成も、新しく定めたルールの通りに配置済みです」
「助かるよ。相変わらず、君の段取りには隙がない」
医師は笑って書類を受け取った。
夕刻。
本日の業務を終え、私が自分の使い慣れた薬箱を低い棚に片付けていた時だった。
入り口の扉が開き、救護所の床に巨大な影が落ちた。窓から差し込む夕暮れの光が、その広い肩幅によってごっそりと遮られる。
顔を上げなくても、誰が来たのかはすぐに分かった。
「ダリウス様」
私が声をかけると、黒い軍服姿のダリウス様がゆっくりと歩み寄ってきた。
無精ひげの残る強面と、顔の古傷。初めて会った時は息が止まるほど恐ろしく見えたその姿も、今ではただ、私を心の底から安心させるものに変わっている。
「仕事は終わったか」
彼が私の前に立ち止まり、低い声で尋ねた。
「はい、たった今。……ですが、ダリウス様」
私は、手に持っていた鞄を提げ直しながら、少しだけ不思議に思って彼を見上げた。
「先月、私たちが二人でルールを改訂しましたよね。日中で危険のない王都内の移動なら、本院や救護所からの帰宅は単独でも構わないと。今日は護衛も必要ありませんし、私は一人で帰れますわ」
ダリウス様は、私の問いに対して表情を少しも変えなかった。
「知っている」
「では、なぜわざわざこちらへ?」
「一緒に歩きたい」
ただ一言、それだけだった。
回りくどい理由も、過保護な言い訳もない。ただ自分の欲求を、短く真っ直ぐに伝えてくる。
私は目を丸くし、それから、こらえきれずに小さく吹き出してしまった。
「……ふふ。はい。それでは、一緒に帰りましょう」
私たちは新救護所を後にし、夕暮れの王都の街路を並んで歩き始めた。
冷たい春雨の匂いが混じる風が、私たちの間を吹き抜けていく。
私は、隣を歩く彼の足元を見た。
彼の長い足が踏み出す歩幅は、昔からずっと、私と歩く時だけ無意識のうちに半分に落とされている。私が無理に早歩きをしなくても、自然に隣を歩き続けられる速度だ。
最初は、ただの配慮だと思っていた。
けれど違う。これは、私たちが夫婦として、これから先の長い人生を同じ速度で進んでいくための、彼なりの不器用で優しい歩みなのだ。
私は歩きながら、彼の方へ少しだけ距離を詰めた。
そして、私の手から一番近い場所にある、彼の左手にそっと触れる。
手全体を繋ごうとしても、私の小さな手では到底回らない。だから私は、彼の太い人差し指と中指の二本を、自分の両手で下から包み込むようにして、しっかりと握りしめた。
ダリウス様の巨大な手が、一瞬だけビクッと反応した。
だが、すぐに彼はその二本の指にほんの少しだけ力を込め、私の手を落とさないように、ひどく慎重に握り返してくれた。
「今日は、雨が降りそうですね」
私が言うと、ダリウス様は空を見上げた。
「ああ。夜には降るだろうな」
「古傷が疼くようなら、帰ったらすぐに温布を用意しますから、隠さずに言ってくださいね」
「……分かっている。隠さないと約束したからな」
彼は少しだけ照れくさそうに視線を逸らし、それでも繋いだ指の力は緩めなかった。
世界を揺るがすような大事件も、劇的な魔法も、ここにはない。
ただ、仕事を終えた二人が歩幅を合わせ、指を繋いで、同じ家へ帰る。
その繰り返せる日常が、途方もなく幸福なのだと、私は彼の手の温もりを感じながら静かに確信していた。
◇ ダリウス ◇
左手の二本の指を、彼女の小さな両手がしっかりと握りしめている。
歩くたびに伝わってくるその柔らかな感触と確かな体温が、俺の胸の奥をひどく静かに満たしていく。
思い出す。
あの街道で、魔獣を斬った俺に、彼女は傾いた客車の中から怯むことなく御者の止血を指示してきた。
あの日から、俺の初期条件は狂い始めたのだ。
剣を振るい、血の海に立つことしか知らなかった。守ることはできると思っていた。怪我人を後方へ送り、王都の防壁を維持し、誰かの命を繋ぐ盾になることなら。
俺の巨大な体と顔の傷は、敵を威圧し、戦場で生き残るためには都合が良かった。
だが、その無骨で傷だらけの手を、誰かに握ってもらえる日が来るとは、本当に思っていなかった。
俺の小指にすら入らなかった、彼女の小さな指輪。
その小さな手のひらが、今は俺の指を握り、絶対に離さないというように力を込めている。
俺は、彼女に合わせた歩幅のまま、繋いだ指先にほんの少しだけ力を返した。壊れ物を扱うように慎重に、だが、もう二度と俺の方から手を引くことはないという意志を込めて。
空から、冷たい水滴がぽつりと頬に落ちた。
雨が降り始める。
だが、もう一人で古傷の痛みに耐える夜はない。
俺の隣には、同じ家へ帰り、俺の傷に温かい布を当ててくれる妻がいる。
この手を離す理由は、もうどこにもなかった。




