第31話 帰ってきた黒熊
十一月二十五日の朝。
分厚い雲の隙間から、冷たく白い光が差し込んでいた。
私は王都の門近くに設営された臨時救護所で、低い作業台の前に立ち、最後の一握りとなったセイラン草の粉を布に小分けしていた。
昨夜から一睡もしていない。手足は氷のように冷え切っていたが、動くのをやめるわけにはいかなかった。
第二処置所として開けた隣の空き倉庫には、手当てを終えた避難民や軽傷の騎士たちが、オスカー様の運んでくれた毛布に包まって肩を寄せ合っている。
重傷者の止血と毒の処置は、すべて夜明け前に終わっていた。これ以上の患者が一度に運び込まれれば、いくら物資があっても人手が足りなくなる。
ぎりぎりの均衡状態だった。
遠くから、複数の馬の蹄の音が響いた。
入り口の門が開き、泥だらけの伝令の騎士が転がり込んでくる。ダリウス様が前線への伝令網の責任者に任じた、エリク様だった。
「ハーウェル嬢! 院長!」
エリク様の声は、極度の疲労と、それを上回る歓喜でひび割れていた。
「魔獣の主力群、撃破しました! 群れは散り散りになり、北の山群へ退却していきます!」
救護所にいた全員が、息を呑んだ。
私が真っ先に尋ねたのは、ただ一つだ。
「包囲されていたダリウス団長は……!」
「ご無事です!」
エリク様は顔を紅潮させて力強く頷いた。
「事前の取り決め通り、伝令網が機能しました。俺の報告を受けた第一代行のジュリアン副団長と、第二代行のランツ大隊長が、直ちに別働隊を率いて側面から魔獣を叩き、包囲を崩したのです。偶然ではありません。団長の配置した布陣と事前の備えが、完璧に噛み合いました!」
奇跡が起きたわけではなかった。
私たちが事前に机の上で決め、それぞれの持ち場で守り抜いた「規則」が、王都を救い、そしてダリウス様を救ったのだ。
全身から、ドッと重い疲労と安堵が押し寄せてきた。
張り詰めていた糸が切れそうになるのを堪え、私は深く息を吐き出した。
※
一時間後。
泥と魔獣の血に塗れた北方主力隊が、王都へ帰還した。
私は救護所の入り口に立ち、彼らを迎えた。
先頭に、真っ黒に汚れ、黒い装甲のあちこちがひしゃげた巨大な騎士がいた。
ダリウス様だ。
彼は私を見つけると、重い動作で馬から降りた。こちらへ歩み寄ってくる足取りは、いつもの正確な歩幅とは違い、少しだけ引き摺るようだった。
私は駆け寄った。
無事を喜んで、その広い胸に飛び込みたかった。生きて帰ってきてくれた彼に触れて、その体温を確かめたかった。
けれど、彼の手甲の隙間から赤黒い血が滴っているのを見て、私はぴたりと足を止めた。
恋人としての感情を奥へ押し込み、救護所の助手としての冷たい思考に切り替える。
「ダリウス様」
「……ああ。戻った」
「怪我をされていますね。こちらへ」
私は彼の無骨な腕を引き、入り口近くに用意していた丸椅子へ向かわせようとした。
だが、彼はその場に踏み止まった。
「俺はいい。重傷の者を奥へ」
「重傷者はすでに別の者が運び込んでいます。救護所は十分に回っています」
私は彼の大きな背中を押し、半ば強引に椅子に押し込んだ。
「ダリウス様。団長も患者です。まずは座ってください」
それは、夏の終わりの派遣初日、私が彼に初めて言ったのと同じ言葉だった。
ダリウス様は一瞬だけ目を丸くし、それから、小さく息を吐いて椅子に身を沈めた。
「……お前には、勝てないな」
「当然です」
私は彼の籠手を外し、前腕の装甲を手早く解いた。
致命傷はない。だが、魔獣の爪が掠ったような裂傷がいくつかあり、血が滲んでいる。
温かい布で血と泥を拭い、粉を振りかけて包帯を巻く。
私の手が動く間、彼はいつものように微動だにしなかった。ただ、その黒い瞳が、私の顔をじっと見つめていた。
「……怖かった」
不意に、彼が低い声でぽつりと言った。
私の手が止まった。
「包囲された時ですか?」
「いや」
ダリウス様は、私の巻いた包帯の端を、自分の太い指でそっとなぞった。
「前線で死ぬことは怖くない。だが……俺が王都へ帰れなくなれば、後方にいるお前がどうなるか。俺の守るべきものが、背後でどうなっているか分からないことが、恐ろしかった」
戦場で誰よりも強いこの男が、「怖い」と口にすることの重み。
「だが、エリクの伝令が走り、ジュリアンが来た。お前が後方を完全に支え、俺が戻るまで持ち堪えさせたからこそ、俺は前線で剣を振り続けることができた」
彼は、私を見上げた。
「お前がそこにいてくれて、よかった」
守る側の男が、離れて任せることの恐怖と、私に支えられたという事実を、真っ直ぐに認めてくれた。
私は少しだけ視界を滲ませながら、包帯の端をきつく留めた。
「当然です。私は、ダリウス様と同じ家へ帰るのですから」
「……そうだな」
彼は不器用に口角を上げ、私の手をそっと、あの二本指を包む形で握りしめた。
※
非常事態が解除されたのは、その日の夕刻だった。
大移動の群れは完全に霧散し、王都の防壁は守り抜かれた。
「ハーウェル嬢」
本院の院長が、手元の書類を整理しながら私に声をかけた。
「君が提案し、仕切ってくれた第二処置所だが、非常に機能的だった。年末まで、この倉庫を救護連携の拠点として試験的に常設しようと思う。引き続き、頼めるか」
「はい。よろしくお願いいたします」
夜。
少しだけ落ち着きを取り戻した団長室で、私とダリウス様は小さなテーブルに向かい合っていた。
テーブルの上には、数日前に二人で書き込んだ手帳がある。
「第三防壁は破られず、王都外縁への避難命令も出なかった」
ダリウス様が、手帳の項目を太い指でなぞる。
「救護所は第二処置所まで使ったが、本院と救護所の双方が収容不能になる事態は避けられたな」
「はい。オスカー様が運んでくださった物資と、臨時救護所の増設のおかげです。重症者は医師の指示で本院へ搬送しましたが、非常招集は解除されています」
私たちは顔を見合わせた。
ダリウス様が、手帳をパタンと閉じた。
「延期の基準は、どちらも満たさなかった」
「ええ。満たしませんでした」
「ならば、予定通りだ」
彼の黒い瞳が、静かな熱を帯びて私を見る。
「十二月十二日。俺たちの結婚式を行う」
私は深く頷いた。
翌日にはランデル商会が南回りの輸送路を開き、止まっていた薬材と木材も動き始めた。式の指輪も、屋敷の低い棚も、職人から予定に間に合うとの報せが届いた。
危機は去った。私たちだけの力ではない。前線、救護所、伝令、商会。その仕組みが噛み合って、王都と私たちの結婚式を守り抜いたのだ。




