第30話 救護所も戦場です
十一月二十四日。
大移動が始まって二日目の朝になっても、臨時救護所の入り口は詰まったままだった。
北の村から逃げてきた荷車と、前線から負傷者を運ぶ搬送馬車。昨夜から順番を争う声が絶えず、夜明けには狭い門前で二台の車輪が噛み合って、どちらも動けなくなっていた。
冷たい風が吹き込むたび、血と泥の匂いが倉庫を抜けていく。
私は手を洗い、絡んだ車輪の前へ出た。搬送馬車の荷台では、腹部を押さえた騎士の顔から急速に血の気が引いていた。
これでは、助かる命も助からない。
「止まってください!」
私は、怒鳴り合う男たちの間に割って入った。
私のような小柄な女が声を上げても、最初は誰も見向きもしなかった。
「そこの馬車! 荷台に乗っているのは腹部を裂かれた重傷者です。一刻も早く止血と縫合をしなければ、命に関わります!」
私が馬車の荷台を指差し、はっきりとした声で告げると、怒鳴り合っていた男たちの動きがピタリと止まった。
「入り口の導線を絶対に塞がないでください。今すぐ荷車を壁際に寄せて、馬車を通す道を確保して!」
私の迷いのない指示に、周囲の騎士や避難民たちがハッとして動き出す。
私はすぐさま救護所の中にいる助手たちを呼びに走った。
「患者の受け入れ手順を変更します。入り口で、症状を三つに区分してください」
私は手近にあった布の束を引き裂いた。
「グレン医師と決めた区分を使います。赤の布は、直ちに医師の処置が必要な重症。青は毒症状の疑いがあり、医師の確認を待つ方。白は処置を待てる軽症です。避難民は隣の待機区画へ。入り口で所見を記録し、勝手に投薬しないでください!」
助手たちが布を受け取り、入り口へ走る。
しかし、振り分けが機能し始めても、根本的な問題は解決していなかった。
この倉庫だけでは、もう物理的に人が入りきらないのだ。
「非常令の管理札を持つ係官を呼んでください。隣の空き倉庫を開錠し、第二処置所として使います!」
私が指示を出したその時だった。
「薬材が足りません! 毒消しどころか、セイラン草の粉も、縛るための清潔な布も底をつきます!」
助手の悲鳴のような声が上がった。
王都薬院からの供給は途絶え、ついに手元の在庫が尽きようとしている。
背筋に冷たい汗が流れた。だが、立ち止まっている暇はない。代用品を探さなければ。
「クラリス嬢。こちらへ」
ふいに、背後から落ち着いた声がした。
振り返ると、そこには見慣れた紋章を掲げた数台の荷車と、オスカー・ランデル卿の姿があった。彼は分厚い外套を着込み、何人もの人足を率いている。
「オスカー様……! なぜ、ここに」
「王都の危機ですからね。それに、あなたの邪魔にはならないと自負しております」
オスカー様は荷車を指差した。
「ランデル商会が管理する街道沿いの倉庫から、使える医療物資と、暖を取るための薪をすべて回しました。布も、強い酒もあります。……どこへ降ろしましょうか」
私は、彼の顔を真っ直ぐに見た。
かつて私へ誠実に求婚し、私の辞退も誠実に受け入れた彼は、今も過去の縁談を持ち出さず、私の持ち場に必要なものだけを正確に届けてくれたのだ。
「ありがとうございます。隣の第二処置所に運び込んでください。荷車を動かした人足の方々には、そのまま軽傷者の搬送を手伝っていただけますか」
「承知しました。皆、令嬢の指示に従え!」
オスカー様の実務的な号令で、ランデル家の運送商会網が一気に機能し始めた。
第二処置所が稼働し、物資の枯渇という最悪の事態は免れた。
息をつく間もなく、私は赤い区画に運ばれた重傷者の止血を手伝っていた。
その時。
泥だらけの馬が、いななきと共に救護所の前に急停車した。
飛び降りてきたのは、以前に私たちが毒の処置をした若き騎士、エリク様だった。彼はダリウス様が指定した、前線と王都を繋ぐ伝令網の責任者だ。
「ハーウェル嬢!」
エリク様は私の姿を見つけると、血相を変えて駆け寄ってきた。
「前線からの報告です! 第一防衛線を突破した魔獣の群れが予想以上に膨れ上がり……ダリウス団長の率いる北方主力隊が、北西の谷間で一時孤立しました!」
手から、止血用の布が滑り落ちそうになった。
私はそれを、両手でぎゅっと握り直した。
孤立。魔獣の波に囲まれ、退路を断たれたということだ。
視界の端が暗くなり、足元の床が揺れたような気がした。彼の巨大な体が、無数の牙に引き裂かれる光景が脳裏を過る。
今すぐ助けに行きたい。前線へ駆けつけ、彼の手当てをしたい。
だが、私は前線へ走る英雄の恋人ではない。
私は深呼吸を一つした。冷たい空気が肺を満たし、頭が急速に冷えていく。
ここには、今まさに血を流している数十人の患者がいるのだ。私がここを放棄すれば、ダリウス様が命懸けで後方へ送ってくれた彼らは死ぬ。
私がすべきことは、前線へ走ることではない。
「エリク様」
私の声は、自分でも驚くほど低く、落ち着いていた。
「伝令、ご苦労様です。ダリウス様は、必ず包囲を抜けて帰還されます」
エリク様が、ハッと息を呑んだ。
「それまで、私たちはここへ運ばれてくる方々を一人残らず受け入れます。この救護所は絶対に崩壊させません。……次の患者の搬送を急がせてください」
「……はっ!」
エリク様は力強く頷き、再び馬へ向かって走り出した。
私は、手元の布を患者の傷口に強く押し当てた。
ダリウス様。
あなたを信じています。だから、私は私の持ち場を守ります。
必ず、生きてこの救護所へ帰ってきてください。
◇ ダリウス ◇
剣を振り抜くたびに、重い肉を断つ感触が手に伝わってくる。
灰狼の生温かい血が顔に飛んだ。
周囲は完全に魔獣の群れに囲まれている。味方の隊列は分断され、谷間に押し込まれる形になっていた。
本来なら、焦りで胃の腑が焼け焦げそうになる状況だ。指揮官が冷静さを失えば、部隊は一瞬で全滅する。
だが、俺の頭は酷く冷えていた。
不思議と、絶望はなかった。
「隊形を崩すな! 怪我人は中央へ! 動ける者は前へ出ろ!」
声を張り上げ、群れの薄い箇所へ向かって剣を叩き込む。
背後を守る必要がない。それが、これほどまでに剣を軽くするとは思わなかった。
怪我をした部下は、後方へ送ればいい。
あそこには医師たちがいる。そして、あの小さな女が、物資と搬送を止めずに繋いでいる。
俺が送った怪我人には、助かるための最善が尽くされる。どんなに混乱しても、彼女は医師の判断へ患者を繋ぎ、人員を動かし、王都の救護を機能させているはずだ。
俺が戦場に集中できるのは、彼女が後ろを守ってくれているからだ。
「後ろは任せられる」
その事実が、俺の腕に底知れぬ力を与えていた。
巨大な灰狼が、牙を剥いて飛びかかってくる。
俺は一歩も引かず、その顎を真っ向から斬り裂いた。
死ぬわけにはいかない。
俺には、俺が帰るのを待っている女がいるのだ。




