第29話 大移動が、早すぎる
十一月二十三日。
その日の夜明けは、凍てつくように冷たかった。
吐く息が白く濁り、空はまだ鉛色に沈んでいる。王都中に、警鐘の低く重い音が鳴り響いていた。
救護所の医療判断はグレン医師、私は物資と搬送の調整。その分担を、出発前にもう一度だけ頭の中でなぞった。
騎士団本部の前庭には、出撃準備を整えた完全武装の騎士たちが整列していた。
軍馬のいななきと、金属の鎧が擦れ合う硬い音が冷気に響く。
ダリウス様は漆黒の重装甲に身を包み、部隊の先頭で愛馬の手綱を握っていた。顔の古傷が、夜明けの薄暗い光の中で白く浮かび上がっている。
私は彼が馬に乗る直前、その巨大な体の前に歩み寄った。
手には、本院の院長から支給された厚手の外套を持っている。私自身の体丈に合わせた、動きやすい作りのものだ。
「ダリウス様」
彼が視線を落とす。
重装備の彼は、いつも以上に巨大で、そして戦場の空気を纏って恐ろしかった。だが、私を見つめる黒い瞳には、一切の冷たさはなかった。
「救護所へ行くのか」
「はい。門の近くに設営した臨時救護所へ向かいます。負傷者と避難民の受け入れ態勢は、すでに整えました」
ダリウス様は無言のまま、鋼の籠手で覆われた大きな手を差し出した。
私は迷わず自分の両手を伸ばし、彼の親指と人差し指の二本を下からしっかりと握りしめた。
分厚い金属越しでも、彼の体温と強い意志が伝わってくるような気がした。
「王都の防壁の外には、一歩も出るな」
低い、命令を下す声だった。
「後方の判断はお前に任せる。無理だと思ったら、すぐに本院へ応援を呼べ。自分一人で背負おうとするな」
「存じております。……ダリウス様も、ご武運を」
彼が私の手を軽く握り返し、そしてパッと離した。
馬に飛び乗り、手綱を引く。
「出陣する!」
ダリウス様の野太い号令と共に、黒い奔流のような騎馬隊が、夜明け前の王都の門を抜けて街道へと駆け出していった。
その背中を見送る時間はなかった。
私もすぐに踵を返し、自分の戦場である救護所へと走り出した。
※
王都の北門近くに設営された臨時救護所は、元々は使われていなかった巨大な空き倉庫だ。
私が到着すると同時に、すでに街道から逃げてきた避難民の荷車と、負傷した警備兵を乗せた搬送馬車が次々と流れ込んできた。
「道を空けて! 怪我人を奥の寝台へ!」
私は声を張り上げ、入り口に殺到する人々を捌いた。
倉庫の中には、血の匂いと泥の匂い、そして恐怖に駆られた人々の悲鳴と呻き声が充満し始めていた。
「ハーウェル嬢! こちらに三名、魔獣にやられました!」
助手が私を呼ぶ。
私は足早に近づき、木箱の上に寝かされた若い兵士の顔を覗き込んだ。
「呼吸が浅いです。右肩の裂傷から出血。……傷口の縁が黒く変色しています」
私は彼の唇の色を確認し、即座に判断を下した。
「灰狼毒の疑いです。セイラン草の粉をぬるま湯で溶いて、傷の周囲に厚く塗ってください。布で傷口を強く縛らないで。この方を青の区画へ。毒消しの投与はグレン医師の確認を受けてください」
「はい!」
「隣の方は脚に変形があります。動かさず、添え木で仮固定を。正式な所見は医師へ。まずは出血のひどい方を赤の区画へ運んでください」
私は魔法で怪我を治すことはできない。
正式な診断も、薬の投与決定も医師の領分だ。
私にできるのは、定められた基準に沿って危険な兆候を拾い、医師へ所見を伝え、有限の人手と物資が必要な場所へ届くよう動かすことだった。
昼前には、救護所は野戦病院のような有様になっていた。
私は血で汚れた手を洗い、騎士団施療室から救護所へ移っていたグレン医師のもとへ向かった。
彼は顔をしかめながら、机に広げられた在庫の帳簿を睨みつけていた。
「先生。灰狼の毒消しの在庫は、あとどれくらい残っていますか」
私が尋ねると、医師は重いため息を吐いた。
「……薬院からかき集めた分が、木箱に三つだ。平時の消費量なら十二日分だが……」
彼は、次々と運び込まれてくる毒症状の患者たちを見遣った。
「この尋常ではないペースで消費すれば、四倍の速さでなくなる。実質、三日持つかどうかだ。北の宿場が閉鎖されて、原料の到着も見込めない」
三日。
たった三日で、王都の毒消しは底をつく。
背筋が冷たくなる数字だった。だが、ここで出し惜しみをして目の前の命を見捨てるわけにはいかない。
「入り口での所見を統一します。疑わしい方は全員、先生の確認へ回します」
「頼む。投与の優先順位は私が決める。君は患者を見落とさず、ここへ繋いでくれ」
午後。
馬を乗り潰すような勢いで、伝令の騎士が救護所に飛び込んできた。
「前線から報告! ダリウス団長率いる北方主力隊、第三防壁の北西五キロ地点で、魔獣の主力群と交戦中! 群れの数は予測の倍以上です!」
周囲の空気が凍りついた。
予測の倍。それがどれほどの絶望的な数か、この場にいる誰もが理解した。
私の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
彼は今、その恐ろしい魔獣の波の先頭に立ち、剣を振るっている。
怪我をしていないだろうか。無茶をしていないだろうか。彼が前線を維持できなければ、この王都に魔獣がなだれ込んでくる。
不安で手先が震えそうになった。
だが、私はその震えを、強く拳を握りしめることで押さえ込んだ。
彼がいないことを嘆いている暇はない。彼の無事を祈って座り込んでいる時間もない。
彼は前線で人々を守っている。
ならば私は、彼が守り抜いた命を、この後方で一つ残らず繋ぎ止める。
離れていても、私たちは同じ人々を守るために、別の場所で戦っているのだ。
「聞いての通りです!」
私は動揺する助手たちに向かって、はっきりとした声で指示を飛ばした。
「前線で騎士団が壁になっている限り、ここへはまだ負傷者が運び込まれてきます。寝台の空きを作ってください。軽傷で動ける避難民は、奥の区画へ誘導して待機させること。入り口の導線を絶対に塞いではいけません!」
私の迷いのない声に、助手たちがハッとして動き出す。
私は救護所用に高さを調整した作業台へ戻り、再びセイラン草を刻み始めた。
無心で包丁を動かしながら、運ばれてくる患者の所見を記録し、危険な兆候をグレン医師へ伝え続ける。
しかし、事態は私たちの努力を嘲笑うかのように悪化していった。
夕闇が迫る頃、救護所の入り口で怒号が響き始めた。
「馬車を退けろ! 怪我人を運べないだろうが!」
「こっちの荷車が先だ! 家族が乗っているんだ!」
逃げ惑う避難民の荷車と、前線から戻ってきた負傷者搬送の馬車が入り乱れ、倉庫の入り口付近が完全に麻痺しつつあったのだ。
加えて、手元の薬材箱の底が見え始めている。
毒消しだけでなく、清潔な布も、止血粉も、足りない。
大移動の一日目が終わろうとしている時点で、救護所はすでに限界に近い悲鳴を上げていた。




