第25話 結婚しても施療院へ行きます
五日間の巡回施療を終え、私は西の街道から王都へ戻った。
増員された護衛が剣を抜く事態はなかったが、沿道の村では灰狼に噛まれた家畜が例年の三倍に増えていた。診療記録と目撃地点は、帰還したその日のうちに本院と騎士団へ提出した。大移動の早まりは、もはや予感ではなく数字になりつつある。
十一月も中旬に入り、吐く息が白く色づく季節になった。
ダリウス様との結婚式を翌月に控え、私は彼と正式に話し合わなければならないことがあった。
この日、騎士団の施療室での業務を終えた私は、団長室を訪ねた。
「ダリウス様。結婚後の私の仕事について、ご相談があります」
私は彼が執務机に向かっている前に立ち、用意してきた一枚の紙を差し出した。
彼が紙を受け取り、その黒い瞳が文字を追う。
「……結婚後も、施療活動を続けたいということか」
「はい。ですが、これまで通りというわけにはいきません。騎士団長の妻としての責務もありますから」
私は紙に書いた項目を、一つずつ説明し始めた。
「勤務頻度は現在の週四日から、週二日に減らします。本院と騎士団へ一日ずつです」
感情的な「どうしても続けたい」という訴えはしなかった。
彼は騎士団長だ。妻が危険な現場に出ることを感覚的に嫌がるのは分かっている。だからこそ、私は具体的な条件を提示し、専門家同士の共同設計としてこの問題を解くつもりだった。
「夜間の急患呼び出しには、原則として応じません」
私は二つ目の項目を指差した。
「ただし、秋の大移動のような非常事態宣言が出た場合のみ、例外とします。その際も、単独での外出はせず、必ず護衛を同行させることを条件とします」
ダリウス様は紙を見つめたまま、静かに口を開いた。
「……護衛は、俺が手配する。騎士団から、腕の立つ者を二人、お前の専属につけよう」
「はい。ありがとうございます」
私は頷いた。彼が最初から反対せず、条件のすり合わせに入ってくれたことが嬉しかった。
「それから、権限についてです」
私は続けた。
「私はあくまで『貴族奉仕助手』であり、医師ではありません。診断や魔法による治癒はできません。その一線を越えるような責任は負わないこと、そして、手に余る事態が起きた場合は、直ちに専門家へ引き継ぐことをお約束します」
ダリウス様はペンを取り、私の書いた紙の余白にいくつかの項目を書き足した。
「夜間の外出だけでなく、日中の移動時も、本院と騎士団の往復には必ず護衛をつけること。……それと」
彼の手が少しだけ止まり、それから力強く書き込まれた。
「週に最低一日は、必ず俺と一緒に夕食をとること。互いの仕事がどれだけ忙しくても、これだけは守れ」
私は、彼の書き足したその文字を見て、少しだけ笑ってしまった。
「はい。もちろんです」
それは、「夫が許す」でも「妻が押し切る」でもない、私たち二人が共に生活していくためのルールだった。
彼が、私の仕事を奪うことなく、私が安全に働き続けられる環境を一緒に作ろうとしてくれている。それが、何よりも誇らしかった。
「……ところで、ダリウス様」
私はふと、思い出したことを口にした。
「先ほど、本院の院長から伺ったのですが」
「なんだ」
「王都の薬院に備蓄されている灰狼の毒消しが、平時の三十日分から、現在十二日分まで減っているそうです」
ダリウス様が、ペンを置いた。その太い眉が、険しく寄る。
「十二日分、だと?」
「はい。……ですが、これはあくまで『平時』の消費量で計算した場合です。もし秋の大移動が本格化し、負傷者が急増すれば」
私は手元の資料に目を落とした。
「消費量は通常の約四倍に跳ね上がります。つまり、実質的には三日分しか在庫がないということです」
団長室の空気が、一気に張り詰めた。
ダリウス様は立ち上がり、壁に掛けられた王都周辺の巨大な地図の前に立った。
「……北からの薬材便の遅れが響いているな」
「はい。昨日も到着しなかったと報告がありました」
ダリウス様は地図の上の、北の街道を指でなぞった。
「魔獣の動きが、予想よりはるかに早い。……これは、本格的に備えを固める必要がある」
彼は振り返り、私を見た。
「クラリス。本院と騎士団の『救護連携』だが、今の中庭の施療室だけでは、大規模な負傷者の受け入れに対応しきれん」
「はい。私もそう思います」
「門の近くにある空き倉庫を、臨時の救護所として整備する案がある。お前も、その設計に加わってくれ」
私は深く頷いた。
結婚後の生活の約束を交わしたばかりだが、その前に、私たちはこの王都を守るための戦いを乗り越えなければならない。
二人の共同設計は、ただの家庭内のルールにとどまらず、現場の最前線へと広がろうとしていた。




