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第21話 婚約者の正しい距離、三歩

十月も下旬。正式な婚約手続きを終えて数日が過ぎた。


 この日、私は救護連携の勤務日で、騎士団本部の廊下を施療室へ向かって歩いていた。


 前方から、ダリウス様が歩いてくるのが見えた。


 婚約してからというもの、すれ違うたびに彼が少しだけ視線を逸らし、居心地が悪そうにするのが常だった。あの真っ直ぐな求婚の勢いはどこへやら、彼の中で「婚約者」という新しい関係に対する明確な照れが発生しているらしい。


 私は小さく笑いながら、彼に声をかけようとした。


「ダリウス様」


 しかし、ダリウス様は私の声を聞くや否や、ピタリと足を止めた。


 そして、なぜか大きく横へ一歩ずれ、私から距離を取ったのだ。


 大股で一歩。通常の成人男性なら二歩分はあろうかという距離だ。


 私は目を白黒させた。


「……ダリウス様?」


「おはよう、クラリス」


 声はいつも通り低いが、彼はそのまま壁に背を向けるようにして立ち止まり、私が通り過ぎるのを待つような姿勢をとった。


 翌日も同じだった。


 施療室で私が薬草の在庫を確認していると、ダリウス様が入ってきた。


 彼が近づいてくる気配を感じて振り返ると、彼は私からちょうど三歩分、きっちりと距離を空けて立ち止まった。


「怪我人は出ていないか」


「はい、本日はありません」


 私は彼に歩み寄ろうとした。


 すると彼は、私が一歩近づいた分だけ、無言で一歩後ろへ下がったのだ。


 私は思わず足を止めた。


「ダリウス様。なぜ逃げるのですか」


「逃げていない」


 彼は真面目な顔で答えた。


「未婚の男女が、人前で過度に接近するのは品位を損なう。礼儀として、三歩の距離を保つべきだと本に書いてあった」


「……本?」


 彼が懐から取り出したのは、少し表紙の擦り切れた分厚い書物だった。


 表題には『貴族社会における模範的婚約者の作法と嗜み』と金文字で刻まれている。


 私は頭痛を覚えて、こめかみを押さえた。


 彼は、兵卒から叩き上げで騎士団長になった男だ。仕事においては完璧な判断を下すが、貴族としての社交や「婚約者」としての振る舞いには、致命的なまでに経験がない。


 九人の令嬢たちの記憶という「初期条件」が壊れた後、彼が頼ったのは、まさかの作法書だった。


「他にもある」


 ダリウス様は、真剣な顔で作法書のページをめくった。


「私的な会話は一刻を超えないこと。贈り物には必ず詩を添えること。……詩の教本も、昨日手配した」


「要りません」


 私は即座に否定し、彼から三歩の距離を一気に詰めた。


 彼が後ずさるより早く、その大きな手から分厚い作法書をひったくる。


「ダリウス様。あなたはご自分を卑下することはやめましたが、今度は本に逃げているだけです」


「逃げていない。正しい手順を踏もうとしているだけだ」


「その手順は、私には合っていません」


 私は作法書を自分の鞄に押し込んだ。


「私は、あなたと廊下で三歩離れて歩きたくありません。会話の時間を制限されたくもありません」


 私は彼を見上げた。


「分からないことがあるなら、本を読むのではなく、まず私に聞いてください。私たちがどう過ごすかは、本ではなく、二人で決めることです」


 ダリウス様は、奪われた手元を見たまま、しばらく黙っていた。


 やがて、彼はゆっくりと頷いた。


「……すまん。俺の独りよがりだった」


「謝らなくて結構です」


 私は少しだけ笑った。


「その代わり、今日の昼休憩は、中庭で一刻以上、私と会話をしていただきます。詩は不要です」


 ダリウス様は、黒い瞳を瞬かせ、それから不器用に口元を緩めた。


「……分かった」


 昼休憩。


 中庭のベンチで、私たちは隣同士に座った。


 三歩の距離はない。彼の巨大な肩が、私の肩に触れそうなほど近くにある。


 彼は少しだけ緊張しているようだったが、もはや作法書に逃げ込もうとはしなかった。ただ、私が用意したライ麦パンを無言で噛みちぎりながら、私の話に耳を傾けている。


 ふと、廊下から足音が聞こえてきた。


 ジュリアン様だった。彼は中庭のベンチで並んで座る私たちを見て、やれやれというように肩をすくめた。


「団長。王都薬院から急ぎの報せです」


 ジュリアン様が手渡した封書を受け取り、ダリウス様は目を通した。


 その瞬間、彼の顔から「不器用な婚約者」の表情が消え、冷徹な騎士団長の顔に戻った。


「……どうしましたか」


 私が尋ねると、彼は低い声で答えた。


「王都周辺の薬院から、灰狼の毒消しの注文が急増しているそうだ。在庫の減りが、例年のこの時期の四倍に近い」


 秋の大移動。


 冬前の魔獣の南下が、今年は異常に早い。


 私は、自分が抱えている鞄の中の作法書ではなく、施療院の在庫表を思い浮かべた。


 私たちの婚約生活は、平穏無事には進ませてもらえないらしい。

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