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第20話 今度は、俺から求婚させてほしい

石床に、重い音が響いた。


 私の目の前で、巨大な黒い騎士が片膝をついている。


 慰労会の広間。周囲の騎士や家族たちが固唾を呑んで見守る中、私とダリウス様の視線の高さが、ようやく真っ直ぐに揃った。


 見上げなくても、彼の顔がある。


 頬の白い古傷も、私だけを映している黒い瞳も、すべてが同じ高さにあった。


「……気の利いた、美しい言葉は知らん」


 ダリウス様の声は、低く、少しだけ震えていた。


「戦場へ出る仕事は、辞めない。これからも何度もあなたを待たせることになる。夜中に叩き起こされる、騒がしい家だ。俺の隣にいれば、心ないことを言う者もいるだろう」


「はい。存じております」


 私がはっきりと頷くと、彼は一度深く息を吸い込んだ。


「それでも」


 彼の手が、迷うように、けれど確かな意志を持って私の前へ差し出された。


 剣ダコだらけの、岩のように無骨で大きな手。


「それでも、俺はあなたと一緒に生きたい。……俺と、結婚してほしい」


 視界が、一瞬だけ滲んだ。


 九人の令嬢たちの記憶に縛られ、「自分は選ばれない」と頑なに心を閉ざしていた彼が、今、自分の欲求を言葉にして、公の場で私を選んでくれた。


「はい」


 私は、差し出された彼の右手を両手で包み込んだ。


 大きすぎて、私の手では到底握りきれない。だから、親指と人差し指、中指のあたりを両手でしっかりと握る。


 彼の太い指は、私を傷つけることを恐れるようにひどく慎重に、けれど決して離さないというように私の手を握り返した。


 その瞬間、広間が割れるような歓声と拍手に包まれた。


 もう、彼が「本当に俺なのか」と疑うことはない。


 私たちの恋愛は、ここでようやく成立したのだ。



 数日後の、十月二十四日。


 ダリウス様は、正式に私の父へ挨拶をするため、王都のタウンハウスを訪れた。


 応接室に現れた彼は、黒い軍礼装を寸分の隙もなく着込んでいた。ただでさえ巨大な体が、礼装の硬い生地のせいでさらに威圧感を増している。


 父は、上座のソファで彼を真っ直ぐに見据えた。


 即座に感涙して手を取るようなことはしない。父は地方子爵とはいえ、領地を守る貴族としての矜持がある。


「ベルグ団長殿。お掛けください」


「失礼する」


 ダリウス様がソファに腰を下ろすと、布の擦れる重い音がした。


 紅茶が運ばれ、ドアが閉められると、父は静かに口を開いた。


「娘から、話は聞いております。……団長殿。クラリスが騎士の妻として、どのような現実を引き受けることになろうとしているか、卿ご自身もよくご承知のはずだ」


「はい」


 ダリウス様は、手元のティーカップには触れず、姿勢を正したまま即答した。


「彼女の苦労については、私からすべて話しました。遠征も、夜間出動も、社交での偏見についても。彼女はそれらを実地に確認した上で、私を選んでくれました」


 彼の低い声に、迷いはなかった。


「私が彼女を巻き込むのではありません。私が、彼女を望んだのです。彼女が選んでくれたことを、私は一生裏切らない。……必ず、大切にします」


 父は、じっとダリウス様の顔を見た。


 言葉の飾りではなく、その奥にある覚悟を見極めようとする、親としての厳しい目だった。


 やがて、父は深く、長い息を吐き出した。


「……クラリスは、一度決めたら決して曲げない子です。あの子が自分の足で確かめ、卿の隣で生きると決めたのなら、親である私が口を挟むことではありません」


 父の表情が、わずかに緩んだ。


「娘を、どうかよろしく頼みます」


「……はっ」


 ダリウス様は、ソファの上で深く、力強く頭を下げた。


 私も、隣で静かに頭を下げる。


 こうして、私たちは正式に婚約者となった。



 翌日。


 騎士団の施療室での連携勤務を終えた私は、団長室を訪ねた。


 扉を開けると、ダリウス様は執務机に大量の書類を広げ、羽ペンを握って難しい顔をしていた。


 討伐の作戦書ではない。よく見ると、それは貴族院へ提出する婚約の宣誓書や、教会への申請書、両家で交わす書類の束だった。


「ダリウス様。それは……」


「ああ、クラリスか」


 彼は顔を上げ、少しだけ目をしばたたかせた。


「婚約に関する手続きの書類だ。確認すべき項目が多くてな」


 そこへ、ジュリアン様がふらりと入ってきた。机の上の書類を見て、少しからかうように目を細める。


「おや。団長。そのような面倒な事務作業、副団長であるこの私に命じればよろしいのに。以前のように、打診状から何から、すべて手配して差し上げましょうか」


 求婚を副団長への縁談だと取り違え、すべてを丸投げしようとした出来事を持ち出しているのだ。


 だが、ダリウス様は書類から目を離さず、きっぱりと首を横に振った。


「いや、これは俺が自分でやる」


「ほう?」


「俺の婚約だからな。俺と彼女のことだ、他人に任せるわけにはいかん」


 ダリウス様は、書類の文面を一行ずつ、真剣な目で確認し続けている。


 私はその横顔を見て、内心で小さく笑った。


 かつては他人のことのように書類を作らせていた彼が、今は自分の意思で、私たちの手続きを自分自身の手で進めている。


 恋愛問題は無事に解決した。


 だが、私はまだ知らなかった。


 仕事において常に完璧な彼が、「婚約者としてどう振る舞うべきか」という新たな課題に対して、また別のベクトルで不器用な誤作動を起こし始めることを。

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