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『黄金のタクトと、不格好なアップリケ』〜レアルの10番、下町でパパになる〜  作者: 筑紫隼人
第3章:指導者への道

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第99話 荒川沿いの朝

朝の五時。


エルザタワーのロビーに降りると、航太がもう待っていた。


ランニングシューズの紐を、しゃがんで結び直している。


「早いな」


「パパが遅いんだよ」


外に出ると、八月の空気がもう肌にまとわりついてきた。日が昇りきる前なのに、アスファルトはぬるかった。


二人で、荒川の方へ走り出した。


---


土手の上は、静かだった。


犬を連れた老人が、ゆっくりと歩いている。河川敷のグラウンドでは、少年野球のコーチがトンボでマウンドをならしていた。


川の向こうは、東京だ。


鉄橋の上を、始発に近い電車がゆっくりと渡っていく。


高校の頃、遥とこの川沿いを歩いた夜があった。


もう少し上流の、浦和の方だ。拓人が初めて、施設の話を少しだけした夜。遥は何も聞かずに、ただ隣を歩いてくれた。


あれから、二十年がたつ。


拓人は、航太の少し後ろを走っていた。


前を行く背中が、大きかった。


四年前、この同じ土手を二人で走ったときは、拓人の方が前だった。航太は息を切らしながら、黙ってついてきた。


今は、拓人の方が、ついていくので精一杯だった。


「パパ、遅い」


「現役の高校生と一緒にするな」


「引退してから、何年たってると思ってるの」


「うるさい」


航太が、振り返らずに笑った。


---


二十分ほど走ったところで、航太が足をゆるめた。


土手の斜面に、腰を下ろした。


拓人も、隣に座った。


汗が、首筋を伝って落ちていく。川の匂いがした。


航太は、ポケットから小銭を出して、土手の下の自販機まで降りていった。


戻ってきた手には、缶が二本あった。


一本は、スポーツドリンク。


もう一本は、缶コーヒーだった。


「はい」


「……佐藤さんの真似か」


「パパ、こういうときはいつもそれ飲んでるじゃん」


拓人は、缶を受け取った。


冷たかった。


しばらく、二人とも何も言わなかった。


川の流れる音と、遠くの電車の音だけがしていた。


---


「パパ」


航太が、川を見たまま言った。


「ずっと、聞きたかったことがある」


拓人は、缶を握る手に力が入るのを感じた。


「何だ」


航太は、少しだけ黙った。


それから、言った。


「ウェンブリーの日。ママが病気だって、知ってたの?」


風が、土手の草を揺らした。


拓人は、すぐには答えられなかった。


四年間、誰にも聞かれなかった問いだった。


そして、四年間、自分で自分に聞き続けてきた問いだった。


「知ってた」


拓人は、正直に言った。


「決勝の五日前に、ママから聞いた。ガンだって。ステージ4だって」


航太は、黙っていた。


「それでも、パパは試合に出た」


言い訳は、しなかった。


ママに行けと言われた。それは本当だ。でも、行くと決めたのは自分だ。


その事実だけは、誰のせいにもしたくなかった。


「……知ってたよ」


航太が、小さく言った。


「俺も、知ってた。日本に帰ってから、じいちゃんとばあちゃんが話してるのが聞こえたんだ。パパは全部知ってて、ウェンブリーに行ったんだって」


拓人は、息子の横顔を見た。


「ずっと、怒ってた」


航太は、膝を抱えた。


「ママが倒れたとき、救急車呼んだの、俺だよ。電話しながら、ずっと思ってた。なんでパパはここにいないんだって」


拓人は、何も言えなかった。


川口に帰ってきてからの、あの冷たい目。正論をぶつけるたびに閉じていった扉。


あれは、反抗期だけじゃなかった。


「……ごめんな」


拓人は、言った。


それしか、言えなかった。


航太は、首を振らなかった。頷きもしなかった。


ただ、黙って聞いていた。


---


「でもね」


航太が、顔を上げた。


「ママが死ぬ前の日。病院で、俺だけ残されたの、覚えてる?」


覚えていた。


結衣が生まれて二日目。遥が、航太だけを呼び止めた。十分ほどして出てきた航太の目は、赤かった。


何を話したのか、拓人は聞かなかった。


聞けなかった。


「あのとき、ママに言われたんだ」


航太は、手の中のペットボトルを見つめた。


「パパがウェンブリーに行ったのは、ママが行かせたんだって。パパは行きたくないって言ったのに、ママが無理やり行かせたんだって」


拓人の喉の奥が、詰まった。


「だから、パパを恨まないでって」


航太の声が、少しだけ震えた。


「それから、こうも言われた」


航太は、川の向こうを見た。


「パパは、迷うと動けなくなる人だから。もしパパが迷ってたら、航太が背中を押してあげてって」


拓人は、缶コーヒーを握ったまま、動けなくなった。


家族会議の夜。


テーブルを回って、自分の肩に置かれた手。


今度は、俺たちがついていく番だよ。


あれは、遥だったのだ。


四年前の病室から、遥が、息子の手を通して、背中を押していた。


「……なんで、今まで言わなかった」


声が、かすれた。


航太は、少しだけ笑った。


「ママに言われたんだよ。パパが自分から聞いてくるまで、言っちゃだめって。パパが自分で聞けるようになったら、もう大丈夫だからって」


それから、肩をすくめた。


「でも、パパ全然聞いてこないから。こっちから聞くことにした」


拓人は、笑おうとした。


うまく、笑えなかった。


視界が、にじんでいた。


---


航太は、何も言わなかった。


拓人の顔を見ないように、川の方を向いていた。


ただ、隣に座っていた。


言葉が出てくるまで、そばにいる。


それだけでいいときがある。


それを航太に教えたのは、誰だったのだろう。


佐藤か。誠か。それとも、遥か。


どのくらいそうしていたか、わからない。


太陽が、川の向こうのビルの上に顔を出した。


水面が、一気に光った。


拓人は、手の甲で目元をぬぐった。


「航太」


「ん」


「ありがとうな」


「ママに言ってよ」


「ママにも言う」


航太は、ペットボトルの残りを一気に飲み干した。


「なあ、航太」


「なに」


「ママな、ウェンブリーに行きたかったって言ってたんだ」


航太が、こっちを向いた。


「決勝の前に、二人でカフェに行った。そのとき、小さい声で言ったんだ。行きたかったなって」


「……そうなんだ」


「お腹が大きいから無理だって、笑ってた」


拓人は、缶コーヒーを飲み干した。苦かった。


「だから、今度は連れていく」


「どこに」


「チャンピオンズリーグの決勝。ママの日記を持って、ベンチに座る」


航太は、少し驚いた顔をした。


それから、ふっと笑った。


「まだ一試合も指揮してないのに?」


「目標は、でかい方がいい」


「それ、ママが言いそう」


「ママの受け売りだ」


---


「パパ」


「ん」


「また、川口に帰ってくる?」


航太は、前を向いたまま聞いた。


さっきより、ずっと小さな声だった。


十六歳の背中が、一瞬だけ、十二歳に戻ったように見えた。


拓人は、川を見た。


遥の隣を歩いた夜がある。航太と黙って走った朝がある。佐藤に「待て」と言われた夕方がある。


「帰ってくる」


拓人は言った。


「ここが、俺たちの家だから」


言ってから、気づいた。


昨日の夜、ゴール裏に広がった、あの横断幕と同じ言葉だった。


航太も、気づいたらしい。


ちらりと拓人を見て、それから、照れくさそうに目をそらした。


「……パクったね」


「うるさい」


二人で、少しだけ笑った。


---


帰りは、競争になった。


言い出したのは、航太だった。


「エルザタワーまで。負けた方が、今日の昼ごはん作る」


「今日は、ばあちゃんが作るって言ってたぞ」


「じゃあ、明日の朝ごはん」


「明日は、もう飛行機の中だ」


「じゃあ、ミュンヘンでの最初の晩ごはん」


拓人は、立ち上がった。


「乗った」


航太が、先に走り出した。


拓人も、追いかけた。


脚が重い。息が苦しい。三十七歳の体が、悲鳴を上げている。


それでも、走った。


前を行く背中を、見失わないように。


結局、エルザタワーの前に着いたとき、航太は十メートル先で両手を膝についていた。


「俺の勝ち」


「……ミュンヘンの、最初の晩飯な」


「カレーね。パパのやつ」


「わかった」


航太は、満足そうに頷いて、エントランスに入っていった。


その背中を見ながら、拓人は思った。


遥。


お前の息子は、ちゃんと約束を守ったぞ。


---


その日の夜。


荷造りの終わったリビングで、インターホンが鳴った。


モニターに映っていたのは、見慣れた作業着の男だった。


両手に、缶コーヒーを一本ずつ持っていた。


◆次話予告◆


出発前夜。


缶コーヒーを二本持って、佐藤がやって来る。


「兄貴」と呼んだ男との、川口最後の夜。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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