↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『黄金のタクトと、不格好なアップリケ』〜レアルの10番、下町でパパになる〜  作者: 筑紫隼人
第3章:指導者への道

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
100/105

第100話 川口の最後の夜


「よう」


ドアを開けると、作業着姿の佐藤が立っていた。


両手に、缶コーヒーを一本ずつ持っている。


「荷造り、終わったか」


「だいたい」


「だいたいってのは、終わってないってことだ」


佐藤は勝手に靴を脱いで、勝手に上がり込んできた。


リビングには、段ボール箱が壁際に積み上がっていた。ガムテープの上に、節子の字で「台所」「葵」「結衣・おもちゃ」と書いてある。


ソファの上では、結衣がぬいぐるみを抱えたまま眠っていた。


台所では、節子が最後の夕食の片付けをしていた。誠は、食卓で黙ってお茶を飲んでいた。


「お邪魔します」


佐藤が、珍しく神妙な声で頭を下げた。


誠が、湯のみを持ったまま小さく頷いた。


---


「葵」


佐藤が、廊下の奥に向かって声をかけた。


「下に、蓮が来てる。顔、見せてやってくれ」


葵の部屋のドアが、勢いよく開いた。


「蓮、来てるの?」


「上がってこいって言ったんだけどな。照れくさいんだと。ロビーで待ってる」


葵は、サンダルをつっかけて飛び出していった。


玄関のドアが閉まると、佐藤が拓人を見て、顎でベランダを指した。


---


最上階の風は、昼間の熱をまだ少し残していた。


足元に、川口の街の灯りが広がっている。その向こうに、荒川の暗い帯。さらに向こうに、東京の明かり。


佐藤が、缶コーヒーを一本、拓人に放った。


「ほれ」


受け取ると、冷たかった。


二人で、手すりにもたれて、プルタブを開けた。


「四年か」


佐藤が、ぽつりと言った。


「早えな」


「早いですね」


「最初にお前に会ったとき、俺、殴ってやろうと思ってたんだぞ」


拓人は、思わず笑った。


「知ってます」


「息子が娘さんに殴られたって聞いてな。どんな親だって、学校に怒鳴り込んだんだ。そしたら」


佐藤は、缶をあおった。


「でっかい男が、ひょろひょろの体操着袋持って、真っ青な顔して立ってやがる。耳の曲がったネズミがついてるやつだ」


「……」


「あれ見た瞬間に、全部わかった。こいつ、一人で全部やろうとしてるなって」


佐藤は、夜景を見たまま言った。


「俺も、そうだったからな」


拓人は、佐藤の横顔を見た。


この人が、自分の昔の話をすることはほとんどなかった。


「蓮が生まれた頃、工務店が傾いててな。家のことは全部かみさんに任せて、俺は朝から晩まで現場だった。気づいたら、蓮が俺の顔見て泣くようになってた」


佐藤は、ガハハと短く笑った。


いつもより、ずっと小さな笑い声だった。


「だからよ。お前が離乳食の裏ごしで失敗してるの見たとき、放っておけなかったんだ。昔の自分を見てるみたいでな」


---


拓人は、缶を握ったまま黙っていた。


公園のベンチ。特売日の話。夜泣きの対策。


あのとき、佐藤は笑いながら全部教えてくれた。


天涯孤独だった拓人に、兄貴というものを教えてくれた。


「覚えてますか。フェニックスのコーチが骨折したとき」


「やめろ」


「グラウンドの真ん中で、土下座しましたよね」


「やめろって言ってんだ」


佐藤は、缶で拓人の腕を小突いた。


「あれはな、勢いだ。大会まで一週間しかなかったんだぞ。UEFAのなんとかライセンス持ってる男が目の前で暇そうにしてたら、誰だって頭ぐらい下げる」


「暇そうでしたか」


「暇そうだったよ。毎日、ベンチの端で子供の練習ばっかり見てやがって」


拓人は、笑った。


あの土下座がなければ、少年サッカーのベンチに座ることはなかった。


神崎からの電話も、なかったかもしれない。


ジッダも、クラブW杯も、明日の飛行機も。


全部、あのグラウンドの真ん中から始まっていた。


「佐藤さん」


「なんだ」


「その指、どうしたんですか」


佐藤の手が、一瞬止まった。


缶を持つ右手の指先に、絆創膏が三枚、巻いてあった。左手にも、二枚。


「……現場でな」


「現場で、指先ばっかり五か所も?」


「最近の釘は、たちが悪いんだよ」


佐藤は、目をそらした。


拓人は、昨夜のゴール裏を思い出した。


一文字ずつ布を切って、縫いつけた横断幕。歪んだ線。そろっていない文字の大きさ。


右下の隅の、金色のカップ。


「……フェルトってのはよ」


佐藤が、夜景を見たまま言った。


「釘より、よっぽど厄介だな」


拓人は、何も言わなかった。


言ったら、泣いてしまいそうだった。


佐藤は、それ以上は何も説明しなかった。


誰と縫ったのか。何日かかったのか。フェニックスの子供たちがいたのか。サポーターの誰かがいたのか。


拓人は、聞かなかった。


聞かなくても、わかる気がした。


---


佐藤が、作業着のポケットから、小さな布の袋を取り出した。


「餞別だ」


受け取ると、軽かった。


口を開けると、中に入っていたのは、裁縫道具だった。


針。糸巻きが何色か。小さな糸切りばさみ。指ぬき。


「向こうで、袋が破れたら困るだろ」


「……はい」


「葵ちゃんの袋、もうボロボロだからな。そのうち縫い直してやれ。結衣ちゃんのも、そのうち要る」


拓人は、針の入った小さなケースを指でなぞった。


四年前の深夜。YouTubeの動画を止めながら、針を持つ手が震えていた。


あの頃の自分に、今の自分を見せてやりたかった。


「それとな」


佐藤が、缶の残りを飲み干した。


「蓮のこと、ありがとな」


「俺は、何も」


「したんだよ。お前が見つけてくれなかったら、あいつはただの、ちょっとうまい小学生で終わってた」


佐藤は、空になった缶を手の中でへこませた。


「あいつ、言ってたぞ。いつかドイツに行くって。お前のチームの試合を、生で見るんだって」


「来てください。いつでも」


「行くさ。旅費は、お前持ちな」


佐藤が、ガハガハと笑った。


今度は、いつもの大きさの笑い声だった。


---


玄関の方で、ドアが開く音がした。


葵が戻ってきた。目が、少し赤かった。


「蓮、帰った?」


拓人が聞くと、葵は頷いた。


「ドイツに来るって。いつか、絶対」


それだけ言って、葵は自分の部屋に戻っていった。


ドアが閉まる前に、小さく鼻をすする音が聞こえた。


佐藤は、その背中を見送ってから、時計を見た。


「さて。明日は早えんだろ。帰るわ」


立ち上がった佐藤は、リビングを横切る途中で、ソファの前に足を止めた。


結衣が、ぬいぐるみを抱えたまま眠っている。


佐藤は、大きな体を折りたたむようにしゃがんだ。


絆創膏だらけの指で、結衣の前髪をそっと払った。


「結衣ちゃん」


起こさないように、小さな声だった。


「向こうで、パパのこと頼んだぞ。あいつ、すぐ一人で抱え込むからな」


結衣は、むにゃむにゃと何か言って、寝返りを打った。


佐藤は、肩を揺らして声を殺して笑った。


---


玄関で、佐藤は靴を履いた。


誠と節子が、台所から出てきた。


「佐藤さん。本当に、お世話になりました」


節子が、深く頭を下げた。


「やめてくださいよ、お義母さん。こっちが世話になったんですから」


誠は、何も言わなかった。


ただ、佐藤に向かって、静かに頷いた。


佐藤も、黙って頷き返した。


それだけで、二人の間では何かが通じたらしかった。


拓人は、ドアの外まで送りに出た。


エレベーターホールの前で、佐藤が振り返った。


「拓人」


「はい」


佐藤は、拓人の肩を、拳で軽く小突いた。


「負けたら、帰ってこい」


拓人は、黙って頷いた。


「勝っても、帰ってこい」


エレベーターのドアが開いた。


佐藤は乗り込んで、くるりとこっちを向いた。


「どっちにしても、帰ってこい。ここは、お前の家だ」


ドアが、閉まり始めた。


「兄貴」


拓人は言った。


閉まりかけたドアの隙間で、佐藤がにやりと笑った。


それから、エレベーターの中から、ガハガハという笑い声が響いてきた。


声は、ドアが閉まってからも、しばらく聞こえていた。


下の階へ遠ざかっていく笑い声を、拓人はずっと聞いていた。


---


部屋に戻ると、リビングは静かだった。


結衣は、ソファで寝息を立てていた。


拓人は、ベランダの手すりに置きっぱなしになっていた空き缶を、二つ拾い上げた。


一つは、まっすぐなまま。


もう一つは、佐藤の手の形にへこんでいた。


拓人は、へこんだ方の缶を、捨てずに段ボール箱の一番上に入れた。


ガムテープで、封をした。


マジックで、箱の上に書いた。


「大事なもの」


◆次話予告◆


出発の朝。


空港のロビーで、結衣が拓人の指を握る。


その小さな手が、離そうとしなかったもの。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。


一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
現代ドラマ ヒューマンドラマ スポーツ サッカー 家族 感動 シングルファーザー 育児 涙腺崩壊注意 実話風 成長物語 Jリーグ 海外サッカー 父と子 泣ける ノンファンタジー 元プロサッカー選手 レアル・マドリード 浦和レッズ 埼玉 川口
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。