第100話 川口の最後の夜
「よう」
ドアを開けると、作業着姿の佐藤が立っていた。
両手に、缶コーヒーを一本ずつ持っている。
「荷造り、終わったか」
「だいたい」
「だいたいってのは、終わってないってことだ」
佐藤は勝手に靴を脱いで、勝手に上がり込んできた。
リビングには、段ボール箱が壁際に積み上がっていた。ガムテープの上に、節子の字で「台所」「葵」「結衣・おもちゃ」と書いてある。
ソファの上では、結衣がぬいぐるみを抱えたまま眠っていた。
台所では、節子が最後の夕食の片付けをしていた。誠は、食卓で黙ってお茶を飲んでいた。
「お邪魔します」
佐藤が、珍しく神妙な声で頭を下げた。
誠が、湯のみを持ったまま小さく頷いた。
---
「葵」
佐藤が、廊下の奥に向かって声をかけた。
「下に、蓮が来てる。顔、見せてやってくれ」
葵の部屋のドアが、勢いよく開いた。
「蓮、来てるの?」
「上がってこいって言ったんだけどな。照れくさいんだと。ロビーで待ってる」
葵は、サンダルをつっかけて飛び出していった。
玄関のドアが閉まると、佐藤が拓人を見て、顎でベランダを指した。
---
最上階の風は、昼間の熱をまだ少し残していた。
足元に、川口の街の灯りが広がっている。その向こうに、荒川の暗い帯。さらに向こうに、東京の明かり。
佐藤が、缶コーヒーを一本、拓人に放った。
「ほれ」
受け取ると、冷たかった。
二人で、手すりにもたれて、プルタブを開けた。
「四年か」
佐藤が、ぽつりと言った。
「早えな」
「早いですね」
「最初にお前に会ったとき、俺、殴ってやろうと思ってたんだぞ」
拓人は、思わず笑った。
「知ってます」
「息子が娘さんに殴られたって聞いてな。どんな親だって、学校に怒鳴り込んだんだ。そしたら」
佐藤は、缶をあおった。
「でっかい男が、ひょろひょろの体操着袋持って、真っ青な顔して立ってやがる。耳の曲がったネズミがついてるやつだ」
「……」
「あれ見た瞬間に、全部わかった。こいつ、一人で全部やろうとしてるなって」
佐藤は、夜景を見たまま言った。
「俺も、そうだったからな」
拓人は、佐藤の横顔を見た。
この人が、自分の昔の話をすることはほとんどなかった。
「蓮が生まれた頃、工務店が傾いててな。家のことは全部かみさんに任せて、俺は朝から晩まで現場だった。気づいたら、蓮が俺の顔見て泣くようになってた」
佐藤は、ガハハと短く笑った。
いつもより、ずっと小さな笑い声だった。
「だからよ。お前が離乳食の裏ごしで失敗してるの見たとき、放っておけなかったんだ。昔の自分を見てるみたいでな」
---
拓人は、缶を握ったまま黙っていた。
公園のベンチ。特売日の話。夜泣きの対策。
あのとき、佐藤は笑いながら全部教えてくれた。
天涯孤独だった拓人に、兄貴というものを教えてくれた。
「覚えてますか。フェニックスのコーチが骨折したとき」
「やめろ」
「グラウンドの真ん中で、土下座しましたよね」
「やめろって言ってんだ」
佐藤は、缶で拓人の腕を小突いた。
「あれはな、勢いだ。大会まで一週間しかなかったんだぞ。UEFAのなんとかライセンス持ってる男が目の前で暇そうにしてたら、誰だって頭ぐらい下げる」
「暇そうでしたか」
「暇そうだったよ。毎日、ベンチの端で子供の練習ばっかり見てやがって」
拓人は、笑った。
あの土下座がなければ、少年サッカーのベンチに座ることはなかった。
神崎からの電話も、なかったかもしれない。
ジッダも、クラブW杯も、明日の飛行機も。
全部、あのグラウンドの真ん中から始まっていた。
「佐藤さん」
「なんだ」
「その指、どうしたんですか」
佐藤の手が、一瞬止まった。
缶を持つ右手の指先に、絆創膏が三枚、巻いてあった。左手にも、二枚。
「……現場でな」
「現場で、指先ばっかり五か所も?」
「最近の釘は、たちが悪いんだよ」
佐藤は、目をそらした。
拓人は、昨夜のゴール裏を思い出した。
一文字ずつ布を切って、縫いつけた横断幕。歪んだ線。そろっていない文字の大きさ。
右下の隅の、金色のカップ。
「……フェルトってのはよ」
佐藤が、夜景を見たまま言った。
「釘より、よっぽど厄介だな」
拓人は、何も言わなかった。
言ったら、泣いてしまいそうだった。
佐藤は、それ以上は何も説明しなかった。
誰と縫ったのか。何日かかったのか。フェニックスの子供たちがいたのか。サポーターの誰かがいたのか。
拓人は、聞かなかった。
聞かなくても、わかる気がした。
---
佐藤が、作業着のポケットから、小さな布の袋を取り出した。
「餞別だ」
受け取ると、軽かった。
口を開けると、中に入っていたのは、裁縫道具だった。
針。糸巻きが何色か。小さな糸切りばさみ。指ぬき。
「向こうで、袋が破れたら困るだろ」
「……はい」
「葵ちゃんの袋、もうボロボロだからな。そのうち縫い直してやれ。結衣ちゃんのも、そのうち要る」
拓人は、針の入った小さなケースを指でなぞった。
四年前の深夜。YouTubeの動画を止めながら、針を持つ手が震えていた。
あの頃の自分に、今の自分を見せてやりたかった。
「それとな」
佐藤が、缶の残りを飲み干した。
「蓮のこと、ありがとな」
「俺は、何も」
「したんだよ。お前が見つけてくれなかったら、あいつはただの、ちょっとうまい小学生で終わってた」
佐藤は、空になった缶を手の中でへこませた。
「あいつ、言ってたぞ。いつかドイツに行くって。お前のチームの試合を、生で見るんだって」
「来てください。いつでも」
「行くさ。旅費は、お前持ちな」
佐藤が、ガハガハと笑った。
今度は、いつもの大きさの笑い声だった。
---
玄関の方で、ドアが開く音がした。
葵が戻ってきた。目が、少し赤かった。
「蓮、帰った?」
拓人が聞くと、葵は頷いた。
「ドイツに来るって。いつか、絶対」
それだけ言って、葵は自分の部屋に戻っていった。
ドアが閉まる前に、小さく鼻をすする音が聞こえた。
佐藤は、その背中を見送ってから、時計を見た。
「さて。明日は早えんだろ。帰るわ」
立ち上がった佐藤は、リビングを横切る途中で、ソファの前に足を止めた。
結衣が、ぬいぐるみを抱えたまま眠っている。
佐藤は、大きな体を折りたたむようにしゃがんだ。
絆創膏だらけの指で、結衣の前髪をそっと払った。
「結衣ちゃん」
起こさないように、小さな声だった。
「向こうで、パパのこと頼んだぞ。あいつ、すぐ一人で抱え込むからな」
結衣は、むにゃむにゃと何か言って、寝返りを打った。
佐藤は、肩を揺らして声を殺して笑った。
---
玄関で、佐藤は靴を履いた。
誠と節子が、台所から出てきた。
「佐藤さん。本当に、お世話になりました」
節子が、深く頭を下げた。
「やめてくださいよ、お義母さん。こっちが世話になったんですから」
誠は、何も言わなかった。
ただ、佐藤に向かって、静かに頷いた。
佐藤も、黙って頷き返した。
それだけで、二人の間では何かが通じたらしかった。
拓人は、ドアの外まで送りに出た。
エレベーターホールの前で、佐藤が振り返った。
「拓人」
「はい」
佐藤は、拓人の肩を、拳で軽く小突いた。
「負けたら、帰ってこい」
拓人は、黙って頷いた。
「勝っても、帰ってこい」
エレベーターのドアが開いた。
佐藤は乗り込んで、くるりとこっちを向いた。
「どっちにしても、帰ってこい。ここは、お前の家だ」
ドアが、閉まり始めた。
「兄貴」
拓人は言った。
閉まりかけたドアの隙間で、佐藤がにやりと笑った。
それから、エレベーターの中から、ガハガハという笑い声が響いてきた。
声は、ドアが閉まってからも、しばらく聞こえていた。
下の階へ遠ざかっていく笑い声を、拓人はずっと聞いていた。
---
部屋に戻ると、リビングは静かだった。
結衣は、ソファで寝息を立てていた。
拓人は、ベランダの手すりに置きっぱなしになっていた空き缶を、二つ拾い上げた。
一つは、まっすぐなまま。
もう一つは、佐藤の手の形にへこんでいた。
拓人は、へこんだ方の缶を、捨てずに段ボール箱の一番上に入れた。
ガムテープで、封をした。
マジックで、箱の上に書いた。
「大事なもの」
◆次話予告◆
出発の朝。
空港のロビーで、結衣が拓人の指を握る。
その小さな手が、離そうとしなかったもの。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。
一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。
次話もお付き合いいただければ嬉しいです。




