第101話 結衣の手
朝の六時。
段ボール箱がなくなったリビングは、思っていたよりずっと広かった。
四年前、初めてこの部屋に入った夜も、こうだった。
広すぎる部屋に、子供の声だけが響いていた。
今朝は、違う。
「結衣、靴下が片方ない!」
「葵の鞄に入ってたぞ」
「なんで私の鞄に入ってるの!」
「お兄ちゃんが入れた」
「入れてない」
廊下を、子供たちの声が行ったり来たりしていた。
拓人は、空っぽになった棚の前に立った。
遥の日記と、葵の体操着袋が並んでいた場所。今は、どちらも機内持ち込みの鞄の中にある。
棚の上に、うっすらと四角い跡が残っていた。
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「拓人さん」
節子が、台所から顔を出した。
手に、大きな紙袋を持っている。
「おにぎり。飛行機の中で食べなさい。梅と鮭と、おかか。結衣ちゃんのは、小さいのにしてあるから」
「ありがとうございます」
受け取ると、まだ温かかった。
「それとね」
節子は、部屋の中を見回した。
「ここ、時々、風を通しに来るから。窓を閉めっぱなしにしておくと、すぐにだめになっちゃうのよ」
拓人は、頷いた。
この部屋は、手放さないことにしていた。誰が言い出したわけでもない。家族会議で、誰も「売る」とは言わなかった。
「お願いします」
「任せて。お父さんが掃除機かけるから」
誠が、玄関で靴を履きながら、小さく咳払いをした。
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羽田までは、坂上が手配してくれたワゴン車で向かった。
運転手の後ろに、拓人と結衣。その後ろに、航太と葵。誠と節子は、自分たちの車で後ろからついてきた。
首都高に上がると、窓の外を川口の街が流れていった。
結衣は、窓に額をくっつけていた。
「パパ。じいじとばあば、ついてきてる?」
「ああ。後ろにいるぞ」
結衣は、振り返って後ろの窓を見ようとした。シートベルトに引っかかって、じたばたした。
葵が、後ろの席から身を乗り出した。
「結衣、ほら。あの白い車。じいじが運転してる」
「じいじ!」
結衣が、後ろの車に向かって手を振った。
誠の車の助手席で、節子が大きく手を振り返しているのが見えた。
運転席の誠は、前を向いたままだった。
でも、ハンドルを握った右手の指が、一本だけ、小さく上がった。
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羽田空港の国際線ターミナルには、思っていたより人が集まっていた。
赤いタオルを首に巻いた人たち。手作りの小さなフラッグ。何人かのカメラマン。
「監督! ミュンヘンでも頑張ってください!」
「CL、絶対見ます!」
拓人は、一人ひとりに頭を下げて、手を振った。
フラッグの端に、小さな金色のカップが縫いつけてあるのが見えた。
あの横断幕と、同じ形だった。
フラッグを持っていた年配の男性が、拓人と目が合うと、照れくさそうに笑った。
「縫い方、まだ下手なんですけどね。女房に教わりながら」
右手の指先に、絆創膏が一枚、巻いてあった。
拓人は、深く頭を下げかけて、やめた。
代わりに、その人の手を両手で握った。
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チェックインを済ませると、保安検査場の入り口まで、あと少しだった。
ここから先は、見送りの人は入れない。
節子が、最初に動いた。
航太を抱きしめた。航太は、されるがままになっていた。
「向こうで、ちゃんと食べるのよ。あんた、部活の後すぐ寝ちゃうんだから」
「わかってるって」
それから、葵を抱きしめた。
葵は、節子の肩に顔をうずめて、しばらく離れなかった。
「ばあば、毎日電話する」
「毎日じゃなくていいわよ。ばあば、そんなに起きてられないから」
「じゃあ、一日おき」
「それなら、いいわ」
節子は笑いながら、目元を指でぬぐっていた。
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誠が、結衣の前にしゃがんだ。
膝が、少しだけ鳴った。
誠は、上着のポケットから、小さな布の袋を取り出した。
紺色の、無地の袋だった。
口のところに、紐が通してある。縫い目は、まっすぐで、細かかった。
「結衣」
誠が、結衣の名前を呼ぶのを、拓人は久しぶりに聞いた気がした。
「向こうの幼稚園で、使え」
結衣は、袋を受け取って、ひっくり返したり、中をのぞいたりした。
「なんにも、ついてない」
葵の袋には、黄色いネズミがついている。カップもついている。
結衣の袋には、何もなかった。
誠は、少しだけ口元をゆるめた。
「アップリケは、パパにつけてもらえ」
拓人は、息をのんだ。
四年前の深夜。針の持ち方を、黙って直してくれた手。
その手が、まっすぐな縫い目の袋を作って、最後のアップリケだけを、拓人のために残していた。
「パパ、つけてくれる?」
結衣が、拓人を見上げた。
「……ああ。つける」
「ネズミ?」
「何がいい」
結衣は、少し考えてから言った。
「まだ、ないしょ」
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「そろそろ、時間だ」
航太が、腕時計を見て言った。
拓人は、結衣の手を取ろうとした。
でも、結衣はもう、自分から拓人の人差し指を握っていた。
そして、もう片方の手で、誠の人差し指を握っていた。
右手に、パパ。
左手に、じいじ。
結衣は、二人の真ん中に立って、動かなかった。
「結衣。行くよ」
葵が声をかけた。
結衣は、首を横に振った。
「じいじも、いっしょ」
誠の指を、ぎゅっと握りしめた。
誰も、何も言えなかった。
誠は、しばらく結衣の手を見ていた。
それから、もう一度しゃがんだ。
結衣と、同じ目の高さになった。
「結衣」
「じいじも、いっしょ」
「じいじは、ここで待ってる」
誠の声は、低くて、静かだった。
「待ってる人がいないと、帰ってこられないだろう」
結衣は、誠の顔をじっと見ていた。
意味が、わかったのかどうかはわからない。
でも、しばらくして、左手の力が、少しずつゆるんだ。
誠の指が、結衣の手から離れた。
その代わりに、右手の力が強くなった。
拓人の人差し指を、結衣は、ちぎれそうなほど強く握っていた。
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保安検査場の手前で、結衣の足が止まった。
検査のトレーに、荷物を置かなければならない。
結衣は、誠からもらった紺色の袋を、胸にぎゅっと抱えていた。
「お嬢ちゃん、その袋も、トンネルを通してね」
係員の女性が、やさしく言った。
結衣は、首を振った。
袋を抱えたまま、一歩下がった。
航太が、結衣の前にしゃがんだ。
「結衣。袋が、トンネルくぐるの、見てて」
「やだ」
「すぐ出てくるから。お兄ちゃんが、向こうで受け取ってやる」
航太は、先にゲートをくぐって、ベルトコンベアの出口の前に立った。
結衣は、しばらく迷っていた。
それから、そっと袋をトレーに置いた。
袋が、黒いカーテンの向こうに消えた。
結衣は、息を止めて、出口を見つめていた。
数秒後。
紺色の袋が、反対側から出てきた。
航太が、それを受け取って、高く掲げた。
「ほら。ちゃんと出てきた」
結衣は、ゲートを駆け抜けて、袋に飛びついた。
それから、くるりと振り返った。
ガラスの向こうに、誠と節子が立っていた。
結衣は、紺色の袋を両手で頭の上に掲げた。
葵が、クラブW杯のスタンドでそうしたように。
ガラスの向こうで、節子が両手で口を覆った。
誠が、右手を上げた。
今度は、指一本ではなかった。
手のひらを、まっすぐ結衣に向けていた。
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搭乗ゲートまでの長い通路を、四人で歩いた。
航太が先頭で、葵が続いた。
拓人は、結衣と並んで、一番後ろを歩いた。
結衣は、左手で紺色の袋を抱えて、右手で拓人の人差し指を握っていた。
まだ、ちぎれそうなほど強かった。
小さな手だった。
少し汗ばんでいて、温かかった。
四年前、この子を初めて抱いたとき、あまりの軽さに驚いた。
遥が命を賭けて産んだ重さだと思った。
今、その子が、自分の指を握って歩いている。
離すまいとしている。
拓人は、その温かさを、一生忘れないと思った。
どこの国に行っても。どんなスタジアムに立っても。
この指に残る温度だけは、きっと忘れない。
搭乗口の窓の向こうに、白い機体が見えた。
朝の光を浴びて、機体の腹が銀色に光っていた。
あれに乗れば、十四時間後には、ミュンヘンにいる。
◆次話予告◆
機体が、ゆっくりと滑走路を離れる。
窓の外を、関東平野が遠ざかっていく。
拓人は、その中に、白い塔を探した。
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