↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『黄金のタクトと、不格好なアップリケ』〜レアルの10番、下町でパパになる〜  作者: 筑紫隼人
第3章:指導者への道

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
101/105

第101話 結衣の手

朝の六時。


段ボール箱がなくなったリビングは、思っていたよりずっと広かった。


四年前、初めてこの部屋に入った夜も、こうだった。


広すぎる部屋に、子供の声だけが響いていた。


今朝は、違う。


「結衣、靴下が片方ない!」


「葵の鞄に入ってたぞ」


「なんで私の鞄に入ってるの!」


「お兄ちゃんが入れた」


「入れてない」


廊下を、子供たちの声が行ったり来たりしていた。


拓人は、空っぽになった棚の前に立った。


遥の日記と、葵の体操着袋が並んでいた場所。今は、どちらも機内持ち込みの鞄の中にある。


棚の上に、うっすらと四角い跡が残っていた。


---


「拓人さん」


節子が、台所から顔を出した。


手に、大きな紙袋を持っている。


「おにぎり。飛行機の中で食べなさい。梅と鮭と、おかか。結衣ちゃんのは、小さいのにしてあるから」


「ありがとうございます」


受け取ると、まだ温かかった。


「それとね」


節子は、部屋の中を見回した。


「ここ、時々、風を通しに来るから。窓を閉めっぱなしにしておくと、すぐにだめになっちゃうのよ」


拓人は、頷いた。


この部屋は、手放さないことにしていた。誰が言い出したわけでもない。家族会議で、誰も「売る」とは言わなかった。


「お願いします」


「任せて。お父さんが掃除機かけるから」


誠が、玄関で靴を履きながら、小さく咳払いをした。


---


羽田までは、坂上が手配してくれたワゴン車で向かった。


運転手の後ろに、拓人と結衣。その後ろに、航太と葵。誠と節子は、自分たちの車で後ろからついてきた。


首都高に上がると、窓の外を川口の街が流れていった。


結衣は、窓に額をくっつけていた。


「パパ。じいじとばあば、ついてきてる?」


「ああ。後ろにいるぞ」


結衣は、振り返って後ろの窓を見ようとした。シートベルトに引っかかって、じたばたした。


葵が、後ろの席から身を乗り出した。


「結衣、ほら。あの白い車。じいじが運転してる」


「じいじ!」


結衣が、後ろの車に向かって手を振った。


誠の車の助手席で、節子が大きく手を振り返しているのが見えた。


運転席の誠は、前を向いたままだった。


でも、ハンドルを握った右手の指が、一本だけ、小さく上がった。


---


羽田空港の国際線ターミナルには、思っていたより人が集まっていた。


赤いタオルを首に巻いた人たち。手作りの小さなフラッグ。何人かのカメラマン。


「監督! ミュンヘンでも頑張ってください!」


「CL、絶対見ます!」


拓人は、一人ひとりに頭を下げて、手を振った。


フラッグの端に、小さな金色のカップが縫いつけてあるのが見えた。


あの横断幕と、同じ形だった。


フラッグを持っていた年配の男性が、拓人と目が合うと、照れくさそうに笑った。


「縫い方、まだ下手なんですけどね。女房に教わりながら」


右手の指先に、絆創膏が一枚、巻いてあった。


拓人は、深く頭を下げかけて、やめた。


代わりに、その人の手を両手で握った。


---


チェックインを済ませると、保安検査場の入り口まで、あと少しだった。


ここから先は、見送りの人は入れない。


節子が、最初に動いた。


航太を抱きしめた。航太は、されるがままになっていた。


「向こうで、ちゃんと食べるのよ。あんた、部活の後すぐ寝ちゃうんだから」


「わかってるって」


それから、葵を抱きしめた。


葵は、節子の肩に顔をうずめて、しばらく離れなかった。


「ばあば、毎日電話する」


「毎日じゃなくていいわよ。ばあば、そんなに起きてられないから」


「じゃあ、一日おき」


「それなら、いいわ」


節子は笑いながら、目元を指でぬぐっていた。


---


誠が、結衣の前にしゃがんだ。


膝が、少しだけ鳴った。


誠は、上着のポケットから、小さな布の袋を取り出した。


紺色の、無地の袋だった。


口のところに、紐が通してある。縫い目は、まっすぐで、細かかった。


「結衣」


誠が、結衣の名前を呼ぶのを、拓人は久しぶりに聞いた気がした。


「向こうの幼稚園で、使え」


結衣は、袋を受け取って、ひっくり返したり、中をのぞいたりした。


「なんにも、ついてない」


葵の袋には、黄色いネズミがついている。カップもついている。


結衣の袋には、何もなかった。


誠は、少しだけ口元をゆるめた。


「アップリケは、パパにつけてもらえ」


拓人は、息をのんだ。


四年前の深夜。針の持ち方を、黙って直してくれた手。


その手が、まっすぐな縫い目の袋を作って、最後のアップリケだけを、拓人のために残していた。


「パパ、つけてくれる?」


結衣が、拓人を見上げた。


「……ああ。つける」


「ネズミ?」


「何がいい」


結衣は、少し考えてから言った。


「まだ、ないしょ」


---


「そろそろ、時間だ」


航太が、腕時計を見て言った。


拓人は、結衣の手を取ろうとした。


でも、結衣はもう、自分から拓人の人差し指を握っていた。


そして、もう片方の手で、誠の人差し指を握っていた。


右手に、パパ。


左手に、じいじ。


結衣は、二人の真ん中に立って、動かなかった。


「結衣。行くよ」


葵が声をかけた。


結衣は、首を横に振った。


「じいじも、いっしょ」


誠の指を、ぎゅっと握りしめた。


誰も、何も言えなかった。


誠は、しばらく結衣の手を見ていた。


それから、もう一度しゃがんだ。


結衣と、同じ目の高さになった。


「結衣」


「じいじも、いっしょ」


「じいじは、ここで待ってる」


誠の声は、低くて、静かだった。


「待ってる人がいないと、帰ってこられないだろう」


結衣は、誠の顔をじっと見ていた。


意味が、わかったのかどうかはわからない。


でも、しばらくして、左手の力が、少しずつゆるんだ。


誠の指が、結衣の手から離れた。


その代わりに、右手の力が強くなった。


拓人の人差し指を、結衣は、ちぎれそうなほど強く握っていた。


---


保安検査場の手前で、結衣の足が止まった。


検査のトレーに、荷物を置かなければならない。


結衣は、誠からもらった紺色の袋を、胸にぎゅっと抱えていた。


「お嬢ちゃん、その袋も、トンネルを通してね」


係員の女性が、やさしく言った。


結衣は、首を振った。


袋を抱えたまま、一歩下がった。


航太が、結衣の前にしゃがんだ。


「結衣。袋が、トンネルくぐるの、見てて」


「やだ」


「すぐ出てくるから。お兄ちゃんが、向こうで受け取ってやる」


航太は、先にゲートをくぐって、ベルトコンベアの出口の前に立った。


結衣は、しばらく迷っていた。


それから、そっと袋をトレーに置いた。


袋が、黒いカーテンの向こうに消えた。


結衣は、息を止めて、出口を見つめていた。


数秒後。


紺色の袋が、反対側から出てきた。


航太が、それを受け取って、高く掲げた。


「ほら。ちゃんと出てきた」


結衣は、ゲートを駆け抜けて、袋に飛びついた。


それから、くるりと振り返った。


ガラスの向こうに、誠と節子が立っていた。


結衣は、紺色の袋を両手で頭の上に掲げた。


葵が、クラブW杯のスタンドでそうしたように。


ガラスの向こうで、節子が両手で口を覆った。


誠が、右手を上げた。


今度は、指一本ではなかった。


手のひらを、まっすぐ結衣に向けていた。


---


搭乗ゲートまでの長い通路を、四人で歩いた。


航太が先頭で、葵が続いた。


拓人は、結衣と並んで、一番後ろを歩いた。


結衣は、左手で紺色の袋を抱えて、右手で拓人の人差し指を握っていた。


まだ、ちぎれそうなほど強かった。


小さな手だった。


少し汗ばんでいて、温かかった。


四年前、この子を初めて抱いたとき、あまりの軽さに驚いた。


遥が命を賭けて産んだ重さだと思った。


今、その子が、自分の指を握って歩いている。


離すまいとしている。


拓人は、その温かさを、一生忘れないと思った。


どこの国に行っても。どんなスタジアムに立っても。


この指に残る温度だけは、きっと忘れない。


搭乗口の窓の向こうに、白い機体が見えた。


朝の光を浴びて、機体の腹が銀色に光っていた。


あれに乗れば、十四時間後には、ミュンヘンにいる。


◆次話予告◆


機体が、ゆっくりと滑走路を離れる。


窓の外を、関東平野が遠ざかっていく。


拓人は、その中に、白い塔を探した。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。


一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
現代ドラマ ヒューマンドラマ スポーツ サッカー 家族 感動 シングルファーザー 育児 涙腺崩壊注意 実話風 成長物語 Jリーグ 海外サッカー 父と子 泣ける ノンファンタジー 元プロサッカー選手 レアル・マドリード 浦和レッズ 埼玉 川口
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。