↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『黄金のタクトと、不格好なアップリケ』〜レアルの10番、下町でパパになる〜  作者: 筑紫隼人
第3章:指導者への道

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
102/105

第102話 さよなら、川口

エンジンの音が、低く大きくなった。


機体が、滑走路を走り出す。


座席の背中に、体が押しつけられた。


窓側の席で、拓人は外を見ていた。隣には結衣。紺色の袋を膝の上に抱えて、シートベルトの金具を何度もいじっている。


通路を挟んだ向こうの列に、航太と葵が並んでいた。


ふわり、と体が浮いた。


地面が、離れていく。


---


機体は、東京湾の上で大きく旋回した。


翼が傾くたびに、窓の外の景色が入れ替わる。


海。埋め立て地のクレーン。高速道路。びっしりと並んだ屋根。


関東平野が、どこまでも広がっていた。


拓人は、窓に額を寄せた。


北の方角を探した。


街の中を、銀色の帯が一本、曲がりくねって伸びていた。


荒川だ、と思った。


昨日の朝、航太と並んで走った川。高校の頃、遥と歩いた川。


その帯を、目でたどった。上流へ。北へ。


あの辺りのはずだった。


ビルが密集した街並みの中に、白っぽい点がいくつも見えた。どれがどれだか、わからない。


それでも、拓人は探し続けた。


そのとき。


朝の光を受けて、一本の細い塔が、きらりと光った。


ほんの一瞬だった。


本当にあの塔だったのか、拓人にはわからない。


でも、光って見えた。


それで十分だった。


次の瞬間、機体は雲の中に入った。


窓の外が、真っ白になった。


---


「パパ」


結衣が、拓人の袖を引っぱった。


「かわぐち、どこ?」


「さっき、見えたぞ。あの川の近く」


「もう、見えない」


結衣は、真っ白な窓の外を見て、少しだけ口をとがらせた。


それから、雲に向かって、小さく手を振った。


「ばいばい、かわぐち」


拓人は、何も言えなかった。


さよなら、とは言わなかった。


言わなくていいと思った。


結衣の小さな手が、窓ガラスに指紋をいくつも残していた。


拓人は、真っ白な窓の外を見ながら、思った。


今頃、節子は、空港から帰る車の中で、まだ泣いているだろう。


誠は、黙って運転しているだろう。家に着いたら、たぶん一番に、あの部屋の窓を開けに行く。


佐藤は、もう現場にいる時間だ。絆創膏の指で、釘を打っているのかもしれない。


蓮は、ジュニアユースの練習に向かっている。


光は、木村は、翔太は。


坂上は、今日もあの紺のスーツで、クラブの事務所にいるのだろう。


誰の顔も、もう窓の外には見えない。


それでも、全員が、雲の下のどこかにいる。


そう思うと、不思議と寂しくはなかった。


---


ベルト着用のサインが消えると、航太が真っ先に節子の紙袋を開けた。


「おにぎり、食べていい?」


「もう? まだ一時間もたってないぞ」


「腹減った」


航太は、梅と鮭とおかかを、一つずつ取り出した。


結衣には、小さなおにぎりを渡した。


葵は、梅のおにぎりを手に取った。


一口かじって、それから、動かなくなった。


目に、涙がにじんでいた。


「葵」


「……すっぱいだけ」


葵は、もう一口かじった。


また、目をこすった。


「ばあばの梅、すっぱすぎる」


航太が、黙って葵の背中を軽く叩いた。


それから、自分の鮭のおにぎりを半分に割って、葵の手に押しつけた。


「こっちも食え」


葵は、鼻をすすりながら、それを受け取った。


拓人は、節子の字で「結衣ちゃん用」と書かれた小さな包みを開けながら、二人を見ていた。


四年前、遥の病室の前で、泣いている妹の背中を黙って撫でていた十二歳の兄。


今もその手は、ちゃんと妹の背中にあった。


---


ワゴンを押してきた客室乗務員が、拓人の顔を見て、少しだけ目を丸くした。


背の高い、ドイツ人の女性だった。


「失礼ですが……ヘル・イトイ?」


拓人が頷くと、彼女は小さく息をのんだ。


それから、声をひそめて、ドイツ語で言った。


「父が、ドルトムントのファンなんです。あなたの頃からの」


「……それは、申し訳ない」


拓人もドイツ語で答えると、彼女は吹き出しそうになって、口元を押さえた。


「父は、怒ってました。でも、昨日の夜、電話でこうも言ってました。あいつがどこまでやるか、見てやる、って」


彼女は、コーヒーを拓人のテーブルに置いた。


「ようこそ、ドイツへ。おかえりなさい、かもしれませんけど」


ワゴンが、通路の向こうへ遠ざかっていった。


通路の向こうで、航太がにやにやしていた。


「パパ、早速怒られてる」


「うるさい」


食事が終わると、結衣は紺色の袋を抱えたまま、拓人の膝の上に丸くなって眠ってしまった。


空いた結衣の席に、葵が通路を渡って移ってきた。


「ねえ、パパ」


「ん」


「私、ドイツ生まれなんだよね」


「ああ。ドルトムントだ」


「全然、覚えてない」


「生まれて半年ちょっとで、マドリードに引っ越したからな」


葵は、窓の外の雲を見た。


「どんな日だったの。私が生まれた日」


拓人は、少し考えた。


「雪の日だった」


十二月の、ドルトムント。


練習から帰る途中、遥から電話が来た。車を飛ばして、病院へ走った。雪で、道が真っ白だった。


「間に合わなかったんだ。パパが病院に着いたとき、お前はもう生まれてた」


「えー」


「ママが、お前を抱いて笑ってた。遅い、って」


葵が、吹き出した。


「ママっぽい」


「ママっぽいだろ」


拓人は、少しだけ笑った。


「ママはな、ドイツ語、パパより先にうまくなったんだ。パパが練習でへこんで帰ってくると、近所のパン屋のおばあさんと、ドイツ語でしゃべって笑ってた」


「パパは?」


「パパは、半年くらい、パン一つまともに買えなかった」


葵は、声を出して笑った。


それから、窓の外を見たまま言った。


「じゃあ、ママの言葉なんだね。ドイツ語」


拓人は、葵の横顔を見た。


「……そうかもな」


「私、がんばる。ママより、うまくなる」


「ママは、手ごわいぞ」


「知ってる」


葵は、拓人の肩に頭をもたせかけた。


しばらくして、静かな寝息が聞こえてきた。


---


機内の照明が落とされた。


窓の外は、どこまでも雲の海だった。


拓人の膝と肩で、二人の娘が眠っていた。


通路の向こうでは、航太が読書灯をつけて、何か小さな本を開いていた。


拓人は、そっとジャケットの内ポケットに手を入れた。


指先に、布の感触があった。


取り出すと、手のひらに収まるほどの、小さな布切れだった。


黄色いフェルト。耳の形が、左右でまるで違う。縫い目は、あちこちで糸がよじれていた。


四年前の深夜。初めて縫って、失敗した一枚。


捨てようとして、捨てられなかった。


それから、ずっとこのポケットに入っていた。


ジッダの夜も、クラブW杯の決勝も。


拓人は、鞄の中から、佐藤にもらった小さな布の袋も取り出した。


中の、針のケースを開けてみる。


細い針が、読書灯の光を受けて、小さく光った。


親指と、人差し指で。


遥が家事ノートの最後に書いた言葉を思い出した。


今なら、ちゃんと持てる。


拓人は、針を手に取ってみた。


持ち方は、もう考えなくても、指が覚えていた。


---


「パパ」


通路の向こうから、小さな声がした。


航太が、読書灯の下で、こっちを見ていた。


「起きてたのか」


「眠れなくて」


拓人は、針をケースに戻した。


航太の手元の本が目に入った。


ドイツ語の、単語帳だった。


いつの間に買ったのだろう。ページの端が、もう何か所も折れていた。


「勉強してたのか」


「別に。暇だったから」


航太は、単語帳を少しだけ閉じかけた。


開いたページの余白に、鉛筆で何か書いてあるのが見えた。


Karotte。Kartoffel。Zwiebel。


ニンジン。ジャガイモ。タマネギ。


拓人は、思わず笑った。


「カレーか」


「……向こうのスーパーで、買い物できないと困るでしょ」


「パパが作るんだぞ」


「パパ、ドイツ語、古いじゃん。葵が言ってた」


「失礼な兄妹だな」


航太が、小さく笑った。


それから、単語帳を閉じて、読書灯を消した。


「おやすみ」


「おやすみ」


暗くなった通路の向こうで、航太が毛布をかぶる音がした。


---


どのくらい眠ったのか、わからない。


機内アナウンスで、拓人は目を覚ました。


ドイツ語だった。


着陸まで、あと一時間。


窓の外が、明るくなっていた。


雲の切れ間から、緑の大地が見えた。四角く区切られた畑。赤い屋根の小さな村。


ずっと遠くに、白く光る山並みが、空の縁に沿って続いていた。


膝の上で、結衣がもぞもぞと動いた。


目をこすりながら、体を起こした。


「パパ。もう、ついた?」


「もうすぐだ」


結衣は、拓人の膝の上によじのぼって、窓に顔を押しつけた。


その目が、大きく開いた。


◆次話予告◆


ミュンヘン。


家族四人が、新しい街に降り立つ。


結衣が窓の外に見つけたもの。そして、新しい物語が始まる。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。


一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
現代ドラマ ヒューマンドラマ スポーツ サッカー 家族 感動 シングルファーザー 育児 涙腺崩壊注意 実話風 成長物語 Jリーグ 海外サッカー 父と子 泣ける ノンファンタジー 元プロサッカー選手 レアル・マドリード 浦和レッズ 埼玉 川口
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。