第102話 さよなら、川口
エンジンの音が、低く大きくなった。
機体が、滑走路を走り出す。
座席の背中に、体が押しつけられた。
窓側の席で、拓人は外を見ていた。隣には結衣。紺色の袋を膝の上に抱えて、シートベルトの金具を何度もいじっている。
通路を挟んだ向こうの列に、航太と葵が並んでいた。
ふわり、と体が浮いた。
地面が、離れていく。
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機体は、東京湾の上で大きく旋回した。
翼が傾くたびに、窓の外の景色が入れ替わる。
海。埋め立て地のクレーン。高速道路。びっしりと並んだ屋根。
関東平野が、どこまでも広がっていた。
拓人は、窓に額を寄せた。
北の方角を探した。
街の中を、銀色の帯が一本、曲がりくねって伸びていた。
荒川だ、と思った。
昨日の朝、航太と並んで走った川。高校の頃、遥と歩いた川。
その帯を、目でたどった。上流へ。北へ。
あの辺りのはずだった。
ビルが密集した街並みの中に、白っぽい点がいくつも見えた。どれがどれだか、わからない。
それでも、拓人は探し続けた。
そのとき。
朝の光を受けて、一本の細い塔が、きらりと光った。
ほんの一瞬だった。
本当にあの塔だったのか、拓人にはわからない。
でも、光って見えた。
それで十分だった。
次の瞬間、機体は雲の中に入った。
窓の外が、真っ白になった。
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「パパ」
結衣が、拓人の袖を引っぱった。
「かわぐち、どこ?」
「さっき、見えたぞ。あの川の近く」
「もう、見えない」
結衣は、真っ白な窓の外を見て、少しだけ口をとがらせた。
それから、雲に向かって、小さく手を振った。
「ばいばい、かわぐち」
拓人は、何も言えなかった。
さよなら、とは言わなかった。
言わなくていいと思った。
結衣の小さな手が、窓ガラスに指紋をいくつも残していた。
拓人は、真っ白な窓の外を見ながら、思った。
今頃、節子は、空港から帰る車の中で、まだ泣いているだろう。
誠は、黙って運転しているだろう。家に着いたら、たぶん一番に、あの部屋の窓を開けに行く。
佐藤は、もう現場にいる時間だ。絆創膏の指で、釘を打っているのかもしれない。
蓮は、ジュニアユースの練習に向かっている。
光は、木村は、翔太は。
坂上は、今日もあの紺のスーツで、クラブの事務所にいるのだろう。
誰の顔も、もう窓の外には見えない。
それでも、全員が、雲の下のどこかにいる。
そう思うと、不思議と寂しくはなかった。
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ベルト着用のサインが消えると、航太が真っ先に節子の紙袋を開けた。
「おにぎり、食べていい?」
「もう? まだ一時間もたってないぞ」
「腹減った」
航太は、梅と鮭とおかかを、一つずつ取り出した。
結衣には、小さなおにぎりを渡した。
葵は、梅のおにぎりを手に取った。
一口かじって、それから、動かなくなった。
目に、涙がにじんでいた。
「葵」
「……すっぱいだけ」
葵は、もう一口かじった。
また、目をこすった。
「ばあばの梅、すっぱすぎる」
航太が、黙って葵の背中を軽く叩いた。
それから、自分の鮭のおにぎりを半分に割って、葵の手に押しつけた。
「こっちも食え」
葵は、鼻をすすりながら、それを受け取った。
拓人は、節子の字で「結衣ちゃん用」と書かれた小さな包みを開けながら、二人を見ていた。
四年前、遥の病室の前で、泣いている妹の背中を黙って撫でていた十二歳の兄。
今もその手は、ちゃんと妹の背中にあった。
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ワゴンを押してきた客室乗務員が、拓人の顔を見て、少しだけ目を丸くした。
背の高い、ドイツ人の女性だった。
「失礼ですが……ヘル・イトイ?」
拓人が頷くと、彼女は小さく息をのんだ。
それから、声をひそめて、ドイツ語で言った。
「父が、ドルトムントのファンなんです。あなたの頃からの」
「……それは、申し訳ない」
拓人もドイツ語で答えると、彼女は吹き出しそうになって、口元を押さえた。
「父は、怒ってました。でも、昨日の夜、電話でこうも言ってました。あいつがどこまでやるか、見てやる、って」
彼女は、コーヒーを拓人のテーブルに置いた。
「ようこそ、ドイツへ。おかえりなさい、かもしれませんけど」
ワゴンが、通路の向こうへ遠ざかっていった。
通路の向こうで、航太がにやにやしていた。
「パパ、早速怒られてる」
「うるさい」
食事が終わると、結衣は紺色の袋を抱えたまま、拓人の膝の上に丸くなって眠ってしまった。
空いた結衣の席に、葵が通路を渡って移ってきた。
「ねえ、パパ」
「ん」
「私、ドイツ生まれなんだよね」
「ああ。ドルトムントだ」
「全然、覚えてない」
「生まれて半年ちょっとで、マドリードに引っ越したからな」
葵は、窓の外の雲を見た。
「どんな日だったの。私が生まれた日」
拓人は、少し考えた。
「雪の日だった」
十二月の、ドルトムント。
練習から帰る途中、遥から電話が来た。車を飛ばして、病院へ走った。雪で、道が真っ白だった。
「間に合わなかったんだ。パパが病院に着いたとき、お前はもう生まれてた」
「えー」
「ママが、お前を抱いて笑ってた。遅い、って」
葵が、吹き出した。
「ママっぽい」
「ママっぽいだろ」
拓人は、少しだけ笑った。
「ママはな、ドイツ語、パパより先にうまくなったんだ。パパが練習でへこんで帰ってくると、近所のパン屋のおばあさんと、ドイツ語でしゃべって笑ってた」
「パパは?」
「パパは、半年くらい、パン一つまともに買えなかった」
葵は、声を出して笑った。
それから、窓の外を見たまま言った。
「じゃあ、ママの言葉なんだね。ドイツ語」
拓人は、葵の横顔を見た。
「……そうかもな」
「私、がんばる。ママより、うまくなる」
「ママは、手ごわいぞ」
「知ってる」
葵は、拓人の肩に頭をもたせかけた。
しばらくして、静かな寝息が聞こえてきた。
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機内の照明が落とされた。
窓の外は、どこまでも雲の海だった。
拓人の膝と肩で、二人の娘が眠っていた。
通路の向こうでは、航太が読書灯をつけて、何か小さな本を開いていた。
拓人は、そっとジャケットの内ポケットに手を入れた。
指先に、布の感触があった。
取り出すと、手のひらに収まるほどの、小さな布切れだった。
黄色いフェルト。耳の形が、左右でまるで違う。縫い目は、あちこちで糸がよじれていた。
四年前の深夜。初めて縫って、失敗した一枚。
捨てようとして、捨てられなかった。
それから、ずっとこのポケットに入っていた。
ジッダの夜も、クラブW杯の決勝も。
拓人は、鞄の中から、佐藤にもらった小さな布の袋も取り出した。
中の、針のケースを開けてみる。
細い針が、読書灯の光を受けて、小さく光った。
親指と、人差し指で。
遥が家事ノートの最後に書いた言葉を思い出した。
今なら、ちゃんと持てる。
拓人は、針を手に取ってみた。
持ち方は、もう考えなくても、指が覚えていた。
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「パパ」
通路の向こうから、小さな声がした。
航太が、読書灯の下で、こっちを見ていた。
「起きてたのか」
「眠れなくて」
拓人は、針をケースに戻した。
航太の手元の本が目に入った。
ドイツ語の、単語帳だった。
いつの間に買ったのだろう。ページの端が、もう何か所も折れていた。
「勉強してたのか」
「別に。暇だったから」
航太は、単語帳を少しだけ閉じかけた。
開いたページの余白に、鉛筆で何か書いてあるのが見えた。
Karotte。Kartoffel。Zwiebel。
ニンジン。ジャガイモ。タマネギ。
拓人は、思わず笑った。
「カレーか」
「……向こうのスーパーで、買い物できないと困るでしょ」
「パパが作るんだぞ」
「パパ、ドイツ語、古いじゃん。葵が言ってた」
「失礼な兄妹だな」
航太が、小さく笑った。
それから、単語帳を閉じて、読書灯を消した。
「おやすみ」
「おやすみ」
暗くなった通路の向こうで、航太が毛布をかぶる音がした。
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どのくらい眠ったのか、わからない。
機内アナウンスで、拓人は目を覚ました。
ドイツ語だった。
着陸まで、あと一時間。
窓の外が、明るくなっていた。
雲の切れ間から、緑の大地が見えた。四角く区切られた畑。赤い屋根の小さな村。
ずっと遠くに、白く光る山並みが、空の縁に沿って続いていた。
膝の上で、結衣がもぞもぞと動いた。
目をこすりながら、体を起こした。
「パパ。もう、ついた?」
「もうすぐだ」
結衣は、拓人の膝の上によじのぼって、窓に顔を押しつけた。
その目が、大きく開いた。
◆次話予告◆
ミュンヘン。
家族四人が、新しい街に降り立つ。
結衣が窓の外に見つけたもの。そして、新しい物語が始まる。
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