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『黄金のタクトと、不格好なアップリケ』〜レアルの10番、下町でパパになる〜  作者: 筑紫隼人
第3章:指導者への道

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第103話 ミュンヘンへ

結衣は、窓に両手をぺたりとつけていた。


「パパ! 見て!」


雲の切れ間の向こうに、山があった。


一つではない。白い頂きが、空の端から端まで、ぎざぎざに連なっていた。


八月なのに、てっぺんに雪が残っている。


朝日を浴びて、その白が、まぶしいほど光っていた。


「ふじさんが、いっぱい!」


結衣が叫んだ。


通路の向こうで、航太が吹き出した。


「結衣、あれは富士山じゃない。アルプスっていうんだ」


「あるぷす?」


「ドイツとか、スイスとかにある山」


結衣は、もう一度窓の外を見た。


それから、真剣な顔で言った。


「ふじさんの、ともだち?」


今度は、葵が吹き出した。


拓人も、こらえきれずに笑った。


前の席の老夫婦が振り返って、何を笑っているのかわからないまま、つられて微笑んでいた。


結衣は、みんなが笑っているのが嬉しかったらしい。


窓を指さして、もう一度、大きな声で笑った。


---


ミュンヘン空港の到着ロビーは、川口の駅よりずっと静かだった。


天井が高い。床が、鏡のように光っている。


案内の表示は、全部ドイツ語と英語だった。


葵が、きょろきょろしながら、表示を一つずつ声に出して読もうとしていた。


「アウス……アウスガング?」


「出口だ」


「パパ、なんでわかるの」


「六年、住んでたからな」


「古いドイツ語のくせに」


「まだ言うか」


荷物を受け取って歩き出すと、航太が結衣の手を取った。


「結衣、こっち」


結衣は、左手で紺色の袋を抱えたまま、右手で航太の手を握った。


二人は、拓人の少し前を歩いていった。


葵が、その隣に並んだ。背中には、あの体操着袋。耳の曲がったネズミと、金色のカップ。


拓人は、三人の背中を、後ろから見ていた。


四年前、この子たちの後ろ姿を、こんなふうに眺めたことはなかった。


いつも、自分が前を歩いていた。振り返りもせずに。


今は、三人の背中が、前にある。


それを見ているのが、拓人は嫌いではなかった。


---


自動ドアが開いた瞬間、フラッシュが光った。


到着ロビーの出口に、報道陣が集まっていた。三十人はいるだろうか。テレビカメラが、何台も並んでいる。


その手前に、赤いネクタイのスーツの男が立っていた。


「ヘル・イトイ。ようこそ、ミュンヘンへ」


クラブの広報担当だと名乗った。握手をすると、手が大きくて、温かかった。


「少しだけ、質問を受けていただけますか。五分で終わらせます」


拓人は、子供たちを振り返った。


航太が、黙って頷いた。結衣と葵の手を引いて、少し離れた柱の陰に連れていった。


拓人は、報道陣の前に立った。


マイクが、何本も突き出された。


最初の質問は、英語だった。


拓人は、ドイツ語で答えた。


報道陣の間に、小さなどよめきが走った。


「ドイツ語が、お上手ですね」


「ドルトムントで、六年、鍛えられましたから」


何人かの記者が、苦笑いした。


一番前の、年配の記者が手を挙げた。


「そのドルトムントの英雄が、なぜバイエルンを選んだのですか。黄色いファンは、裏切りだと言っていますが」


空気が、少しだけ張りつめた。


拓人は、少し考えてから答えた。


「ドルトムントには、今でも感謝しています。言葉も通じなかった若い日本人を、あの街は受け入れてくれた。私の娘は、あの街で生まれました」


柱の陰で、葵がこっちを見ていた。


「でも、今日から私は、この街で戦います。赤いユニフォームの選手たちと一緒に。それを、裏切りと言う人がいるなら、結果で答えるしかありません」


記者が、ゆっくりと頷いた。


別の記者が、手を挙げた。


「ご家族を連れてきたそうですね。単身赴任ではなく」


「はい」


「監督業は、時間との戦いです。お子さんを三人連れての挑戦は、不利になりませんか」


拓人は、柱の陰を見た。


航太が、結衣を肩車していた。結衣は、紺色の袋を振り回している。葵が、それを笑いながら止めようとしていた。


「監督の代わりは、世界中にいます」


拓人は言った。


「でも、あの子たちの父親は、私しかいない」


ロビーが、少し静かになった。


「それに、不利だとは思っていません。あの子たちのおかげで、私は選手を見る目を手に入れた。泣き出す前の顔。怒り出す前の肩。言葉にならないものを、待って、読む力です」


拓人は、マイクに向き直った。


「それを、このクラブで試したいと思っています」


---


広報担当が、腕時計を見た。


「では、最後の質問を」


後ろの方にいた若い記者が、勢いよく手を挙げた。


「エレーラ選手が、昨日のインタビューでこう発言しています。監督が誰でも関係ない。勝たせるのは俺だ、と。どう思われますか」


報道陣の視線が、一斉に拓人に集まった。


マティアス・エレーラ。


アルゼンチン代表のフォワード。昨季、リーグの得点王。


才能は、誰もが認めている。そして、その口の悪さも。


拓人は、少しだけ黙った。


頭の中に、浮かんだ顔があった。


誰にもパスを出さなかった頃の、篠田光の顔。


そして、もっと昔の、誰とも話さなかった頃の、自分の顔。


「会うのが、楽しみです」


拓人は、それだけ答えた。


記者たちが、拍子抜けしたような顔をした。


広報担当が、すかさず会見の終わりを告げた。


---


クラブの用意した車で、郊外の住宅街へ向かった。


窓の外を、背の高い木々と、赤い屋根の家が流れていく。


結衣は、チャイルドシートの中で、もう眠っていた。


葵が、窓の外を見たまま聞いた。


「ねえ、パパ。ドルトムントって、ここから遠い?」


「車で、六時間くらいかな」


「ふうん」


葵は、少し黙ってから言った。


「いつか、行ってみたい。私が生まれた病院」


「ああ。行こう」


「パパが間に合わなかった病院ね」


「……それは、言わなくていい」


航太が、前の席で肩を揺らして笑っていた。


新しい家は、小さな庭のついた、白い壁の二階建てだった。


段ボール箱が、先に届いていた。


一番上の箱に、拓人の字で「大事なもの」と書いてあった。


目を覚ました結衣が、真っ先に庭へ飛び出していった。


芝生の上を、紺色の袋を振り回しながら、ぐるぐると走り回っている。


「パパ! にわ! にわがある!」


エルザタワーの最上階には、なかったものだ。


葵は、二階の一番日当たりのいい部屋を、さっさと自分の部屋に決めた。ドアノブに、体操着袋を引っかけた。


「ここ、私の」


「早いな」


「早い者勝ちでしょ」


航太は、屋根裏の小さな部屋を選んだ。天井が斜めで、窓が一つしかない部屋だった。


「狭くないか」


「ここがいい。静かだから」


拓人は、屋根裏の窓から外を見た。


遠くに、教会の塔の先が見えた。


---


その夜。


新しい台所に、カレーの匂いが広がった。


節子が、スーツケースの隙間にカレールーを三箱、押し込んでくれていた。


ニンジンとジャガイモとタマネギは、近所のスーパーで航太が買ってきた。


単語帳を握りしめて、一人で行って、一人で帰ってきた。


「Kartoffel、通じた」


玄関で、航太はそれだけ言った。少しだけ、得意そうだった。


食卓に、四人分の皿が並んだ。


「いただきます」


結衣が、真っ先にスプーンを口に運んだ。


「パパのカレーだ!」


「川口と同じ味?」


葵が聞いた。


結衣は、もぐもぐしながら、少し考えた。


「ちょっと、ちがう」


「どこが」


「わかんない。でも、おいしい」


航太が、黙っておかわりをよそいに立った。


葵が、カレーの写真を撮って、節子に送った。


返事は、すぐに来た。日本は、夜中の二時のはずだった。


「起きてたわよ。二人とも眠れなくてね。おいしそう。お父さんが、画面に顔を近づけすぎて見えないって」


二通目が、続けて届いた。


「お父さん、明日の夜はカレーにしてくれって」


葵が画面を見せると、結衣がスプーンを握ったまま笑い転げた。


拓人は、台所の棚を見た。


段ボールから最初に出した、写真立てが一つ、飾ってあった。


マドリードの家の庭で、笑っている遥。


その写真に向かって、拓人は心の中で言った。


着いたぞ。


全員で、ちゃんと着いた。


窓の外で、ミュンヘンの夜が、静かに深くなっていった。


新しい物語が、始まる。


◆次話予告◆


バイエルン・ミュンヘン、初日。


世界最高峰のロッカールームで、拓人を見る冷たい目。


その中に、一人だけ、こちらを見ようともしない男がいた。


第3章 完

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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