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『黄金のタクトと、不格好なアップリケ』〜レアルの10番、下町でパパになる〜  作者: 筑紫隼人
第4章:世界を獲る

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第104話 バイエルンの洗礼


朝の六時半。


ゼーベナー通りの練習場には、まだ誰もいなかった。


クラブハウスの二階、監督室の窓から、拓人は駐車場を見下ろしていた。


選手が来るのは、八時過ぎだ。


それでも、この時間に来た。


浦和の最初の日に、グラウンドを整備したのと同じ理由だった。


言葉で信用されないうちは、時間で示すしかない。


それに、今日はもう一つ、やりたいことがあった。


---


七時四十分。


最初の車が、駐車場に入ってきた。


降りてきたのは、ドイツ代表のセンターバック、キャプテンのヨナス・ベッカーだった。三十二歳。このクラブで、もう十年プレーしている。


ベッカーは、車を降りると、まず空を見上げた。それから、まっすぐクラブハウスに歩いてきた。


迷いのない歩き方だった。


七時五十二分。


若いミッドフィルダーが、二人並んで降りてきた。笑いながら、スマートフォンの画面を見せ合っている。


八時三分。


ゴールキーパーが、車の中でしばらく電話をしていた。降りてくるまでに、四分かかった。降りてきた顔は、少しだけ疲れていた。


子供が生まれたばかりだと、資料に書いてあったのを思い出した。夜泣きだろう、と拓人は思った。


八時十一分。八時十四分。八時二十分。


拓人は、窓の前に立ったまま、一人ずつ見ていた。


どんな顔で車を降りるか。誰と並んで歩くか。誰が、一人で歩くか。


結衣が泣き出す前の顔を、毎朝見てきた。葵が怒り出す前の肩を、毎晩見てきた。


選手も、同じだ。


言葉より先に、体が教えてくれる。


---


八時四十分。


最後の一台が、駐車場に入ってきた。


黒い、大きな車だった。


エンジンが止まった。


でも、ドアは開かなかった。


運転席に座ったまま、男は動かなかった。


一分。三分。五分。


フロントガラス越しに、うつむいた横顔が見えた。スマートフォンを見ているのでもない。電話をしているのでもない。


ただ、座っていた。


十一分後、ドアが開いた。


降りてきた男は、サングラスをかけ、大きなヘッドフォンを首にかけていた。


背筋を伸ばして、肩で風を切るように、クラブハウスへ歩いてくる。


さっきまで車の中でうつむいていた男とは、まるで別人だった。


マティアス・エレーラ。


拓人は、窓から目を離さなかった。


ああいう歩き方を、拓人は知っていた。


誰にも何も気づかれないように、肩に力を入れて歩く。


施設の門を出て、高校に向かうときの自分が、ちょうどあんなふうに歩いていた。


---


九時。


ロッカールームに入ると、ざわめきが止んだ。


二十数人の目が、一斉に拓人に向いた。


各国の代表選手たち。ワールドカップの決勝を戦った男もいる。チャンピオンズリーグを三度獲った男もいる。


その目は、冷たかった。


浦和の最初の日と、同じ種類の冷たさだった。


元スター気取り。アジアから来た、よく知らない男。


そして、ここにはもう一つ、別の色が混じっていた。


ドルトムントの男。


奥の方で、誰かが小さく言った。


「黄色いスパイが来たぞ」


何人かが、くすりと笑った。


ベッカーが、そちらを振り返って、低い声で言った。


「やめろ」


笑いが止んだ。


拓人は、ホワイトボードの前に立った。


ボードには、何も書かなかった。


「おはよう」


ドイツ語だった。


選手たちの表情が、わずかに動いた。


「糸井拓人だ。今日から、ここの監督をやる」


誰も、何も言わなかった。


「戦術の話は、明日からする。今日は、それをしない」


拓人は、選手たちを見回した。


「今日は、お前たちの顔と名前を覚えに来た」


何人かが、顔を見合わせた。


「一人ずつ、教えてくれ。名前と、ポジションと、それから、家族のこと。いるなら、誰がいるか。いないなら、それでいい」


しばらく、誰も動かなかった。


最初に口を開いたのは、ベッカーだった。


「ヨナス・ベッカー。センターバック。妻と、息子が二人。上の子は、ドルトムントのファンだ」


ロッカールームに、小さな笑いが起きた。


今度の笑いは、さっきとは違っていた。


拓人も、少しだけ笑った。


「息子さんとは、気が合いそうだ」


ベッカーが、ほんの少しだけ口の端を上げた。


それから、一人ずつ、名前を言っていった。


ゴールキーパーは、「娘が先月生まれた。三時間しか寝てない」と言った。


拓人は、頷いた。


「三時間なら、上出来だ。うちの末っ子のときは、二時間だった」


キーパーが、驚いたように拓人を見た。


若いミッドフィルダーは、「母と、弟が三人」と言った。


ブラジルから来たサイドバックは、「誰もいない。全員、サンパウロだ」と言った。


拓人は、全員の名前と答えを、一度も手帳を見ずに聞いていた。


---


最後の一人が、残った。


ロッカールームの一番奥。壁にもたれて座っている男。


ヘッドフォンを、まだ耳にかけたままだった。


サングラスも、外していない。


最初から、ずっとそうだった。


拓人が部屋に入ってきたときも。ベッカーが話したときも。ロッカールームに笑いが起きたときも。


その男だけは、一度も、こちらを見ようとしなかった。


全員の目が、その男に集まった。


「エレーラ」


ベッカーが、低い声で呼んだ。


男は、動かなかった。


拓人は、ベッカーに小さく首を振った。


それから、エレーラの方を見たまま、言った。


「いい。今日は、言いたくないやつは言わなくていい」


部屋の空気が、少しだけ揺れた。


「その代わり、明日も聞く。明後日も聞く。言いたくなるまで、毎日聞く」


エレーラの指先が、ヘッドフォンのコードの上で、一瞬だけ止まった。


拓人は、それを見逃さなかった。


---


ミーティングが終わると、選手たちはばらばらにロッカールームを出ていった。


エレーラは、誰よりも先に出ていった。


廊下で、ベッカーが拓人の隣に並んだ。


「監督」


「ヨナス」


名前で呼ぶと、ベッカーは少しだけ眉を上げた。それから、声を落とした。


「あいつのこと、どう思います」


「まだ、わからない」


「正直に言います。去年、監督が二人代わりました。二人とも、あいつと揉めて、ロッカールームを失った」


ベッカーは、廊下の先を見た。


「クラブは、あいつを売らない。点を取るから。だから、監督の方が出ていく」


「それで、今度は俺の番だと」


「そう思ってるやつは、多いです」


拓人は、少しだけ笑った。


「ヨナスは?」


ベッカーは、しばらく黙っていた。


「……さっき、家族のことを聞かれたのは、初めてでした。この十年で」


それだけ言って、ベッカーは練習着に着替えに行った。


---


午後の練習。


エレーラは、別格だった。


ボールを持った瞬間に、空気が変わる。一人で、三人を抜いた。ゴールの隅に、信じられない角度でボールを突き刺した。


そして、一本もパスを出さなかった。


味方がフリーで手を挙げていても、見なかった。


アシスタントコーチのクラウスが、苛立ったように拓人の隣に来た。


「監督。止めないんですか。あれじゃ、チームになりません」


拓人は、ピッチを見たまま答えた。


「今日は、止めない」


「なぜです」


「止めたら、あいつは止められたことしか覚えない」


クラウスは、納得していない顔で黙った。


練習の最後、エレーラはまたゴールを決めた。


ゴールを決めるたびに、エレーラは一瞬だけ、スタンドの方を見た。


練習場の、小さな観客席。


そこには、誰もいなかった。


それでも、エレーラは見ていた。


何かを、探すように。


拓人は、その目を知っていた。


アジアの頂点に立った夜。クラブW杯の決勝の夜。


自分もずっと、スタンドに誰かを探していた。


でも、拓人には、探せば見つかる顔があった。


あの男には、それがないのかもしれない。


---


その夜、新しい家の食卓で、結衣が聞いた。


「パパ、きょう、ともだちできた?」


拓人は、少し考えた。


「まだだな」


「えー」


「でも、気になるやつはいた」


「どんなひと?」


「一人で、ずっと何かを探してるやつだ」


葵が、スプーンを止めた。


「それ、昔のパパみたい」


拓人は、娘の顔を見た。


葵は、何でもないことのように、カレーの残りを口に運んでいた。


食事の後、拓人は書斎でノートパソコンを開いた。


エレーラの、過去の試合の映像を、全部集めていた。


再生した。


ゴール。また、ゴール。


そのたびに、エレーラはスタンドを見上げる。


拓人は、一時停止のボタンを押した。


画面の中のエレーラの目を、じっと見つめた。


それから、手帳を開いて、一行だけ書いた。


「明日も、聞く」


◆次話予告◆


マティアス・エレーラ。


才能は本物。傲慢さも本物。


二日目の朝、初めてその目と向き合ったとき、拓人は思った。かつての自分だ、と。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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