第105話 エレーラ
二日目の朝。
拓人がロッカールームに入ると、昨日より少しだけ、空気がやわらかかった。
キーパーが、軽く手を挙げた。ベッカーが、小さく頷いた。
奥の壁際には、昨日と同じ男が座っていた。
ヘッドフォン。サングラス。
拓人は、全員の前に立った。
「おはよう」
何人かが、おはよう、と返した。昨日は、誰も返さなかった。
「昨日の続きだ」
拓人は、奥の壁際を見た。
「エレーラ。名前と、ポジションと、家族のこと」
ロッカールームが、静まり返った。
エレーラは、しばらく動かなかった。
それから、ゆっくりと、ヘッドフォンを首に下ろした。
サングラスを外した。
初めて、その目が、まっすぐに拓人を見た。
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茶色の目だった。
眠れていない人間の、薄い隈があった。
そして、その奥に、拓人がよく知っているものがあった。
誰にも、何も期待していない目。
期待して、裏切られるくらいなら、最初から何も求めない。近づいてくる大人は、全員、何かを取り上げに来る人間だ。
そう決めた子供の目だった。
二十年以上前。施設の洗面所の鏡に、毎朝映っていた目と、同じだった。
かつての、自分だ。
拓人は、そう思った。
施設にいた頃、一人だけ、しつこく話しかけてくる職員がいた。
若い男の先生だった。毎朝、おはようと言ってきた。拓人は、一度も返さなかった。
どうせ、すぐいなくなる。大人は、みんなそうだ。
その先生は、二年後に別の施設へ移っていった。最後の日、拓人の部屋の前で、少しだけ立ち止まった。
拓人は、ドアを開けなかった。
開けなかったことを、今でも時々、思い出す。
「名前は、知ってるだろ」
エレーラが、スペイン語なまりのドイツ語で言った。
「マティアス・エレーラ。フォワード。去年の得点王」
それから、口の端だけで笑った。
「家族? いない。それで満足か」
誰かが、息をのむ音がした。
「わかった」
拓人は、それだけ言った。
エレーラの眉が、わずかに動いた。
もっと何か言われると思っていたのだろう。同情か、説教か、詮索か。
拓人は、どれもしなかった。
「じゃあ、練習を始める」
エレーラは、しばらく拓人を見ていた。
それから、サングラスをかけ直した。
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昼過ぎ、クラブハウスの食堂。
エレーラは、いつも一番奥の窓際のテーブルで、一人で食べていた。
拓人は、トレーを持って、その向かいに座った。
エレーラが、顔を上げた。
「席なら、他にもあるだろ」
「ここがいい」
拓人は、パスタを食べ始めた。
エレーラは、舌打ちをした。でも、席は立たなかった。
しばらく、二人とも黙って食べていた。
食堂のざわめきが、少しだけ小さくなった気がした。何人かの選手が、こちらを盗み見ている。
「……何が目的だ」
エレーラが、フォークを置いた。
「飯を食ってる」
「とぼけるな」
エレーラは、背もたれに体を預けた。
「前の監督は、二人とも最初の週に俺を部屋に呼んだ。チームのために走れ。パスを出せ。お前は一人じゃない。同じことを、何回も」
「そうか」
「あんたも、そのうち言うんだろ」
「言わない」
エレーラが、目を細めた。
「なんでだ」
拓人は、パスタを一口飲み込んでから、答えた。
「説教で変わる年じゃないだろ。お前も、俺も」
エレーラは、一瞬、言葉に詰まった。
それから、鼻で笑った。
「一つ、言っておく」
テーブルに、身を乗り出した。
「俺は、あんたのために走らない。俺は、俺のために点を取る。それで、このクラブは勝ってきた」
「去年は、リーグ何位だった」
エレーラの口が、止まった。
「二位だ」
拓人は、静かに言った。
「チャンピオンズリーグは、準々決勝で負けた。お前は、その試合で二点取った。チームは、三点取られた」
食堂のざわめきが、完全に止んでいた。
エレーラは、何も言わなかった。
ただ、テーブルの上で、右手を強く握りしめていた。
やがて、トレーを持って立ち上がった。
「……あんたも、一か月もたない」
それだけ言って、エレーラは食堂を出ていった。
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午後の練習は、紅白戦だった。
エレーラは、昨日以上だった。
ボールを持つたびに、二人、三人と抜いていく。シュートは、どれも枠の隅に飛んだ。
前半だけで、三点を取った。
そして、一本もパスを出さなかった。
右サイドで、若いミッドフィルダーのレオンが、何度も手を挙げていた。完全にフリーだった。
エレーラは、見なかった。
紅白戦は、四対三で、エレーラのいないチームが勝った。
ピッチを出るとき、エレーラはレオンの横を通り過ぎた。
レオンが、何か言いかけた。
エレーラは、肩をぶつけるようにして、その横を抜けていった。
レオンの顔が、赤くなった。
アシスタントコーチのクラウスが、拓人の隣で低く言った。
「監督。もう、限界です。あいつを外さないと、ロッカールームが壊れます」
拓人は、エレーラの背中を見ていた。
肩に、力が入りすぎていた。
施設の門を出るときの、あの歩き方だった。
「まだだ」
拓人は言った。
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練習が終わって、選手たちが引き上げた後。
拓人が監督室の窓から外を見ると、ピッチに一人だけ残っている影があった。
エレーラだった。
ペナルティエリアの外に、ボールを十個並べていた。
一つずつ、フリーキックを蹴っていた。
十本蹴ると、自分でボールを拾い集めて、また並べる。また蹴る。
日が傾いて、ピッチの半分が影になっても、やめなかった。
観客席には、誰もいなかった。
それでも、ゴールが決まるたびに、エレーラは一瞬だけ、そちらを見上げた。
背後で、ドアがノックされた。
ベッカーだった。着替えを済ませて、帰るところらしかった。
窓の外を見て、ベッカーは小さく息を吐いた。
「毎日です。誰よりも遅くまで、ああやってる」
「知ってる」
「去年のクリスマス」
ベッカーは、窓の外を見たまま言った。
「休暇で、全員が国に帰りました。俺も、家族とスキーに行った。戻ってきたら、警備員が言ってたんです。休みの間、毎日、一人だけ練習場に来てたやつがいるって」
拓人は、黙ってピッチを見ていた。
「誰も、あいつの家族の話を聞いたことがない。あいつも、しない」
ベッカーは、ドアの方へ戻りかけて、振り返った。
「監督。昨日、家族のことを聞いたとき。あいつが答えなかったのは、たぶん、答えがないからです」
ドアが閉まった。
ピッチの上で、エレーラが、また十個目のボールを蹴った。
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その夜、地元のタブロイド紙のウェブ版に、記事が出た。
見出しは、太い赤い文字だった。
「育児監督と、王様。開幕前から、もう亀裂」
記事には、食堂で向かい合う二人の写真が載っていた。誰かが、スマートフォンで撮ったのだろう。
拓人は、画面を閉じた。
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夕食の後、航太が台所で皿を洗っていた。
拓人は、その隣で、皿を拭いた。
「なあ、航太」
「ん」
「お前、反抗期のとき、パパに何されるのが一番嫌だった」
航太の手が止まった。
「……急に何」
「仕事の参考だ」
航太は、少し考えてから言った。
「正論」
即答だった。
「パパ、全部正しいこと言うじゃん。正しいから、言い返せない。言い返せないから、もっとむかつく」
拓人は、黙って皿を拭いた。
「あと、わかったふりされること。俺の気持ちなんて、わかるわけないのに」
「……そうか」
航太は、水を止めた。
それから、少しだけ声を小さくした。
「一番ましだったのは、何も言わないで、隣にいたとき。荒川で、走ったときとか」
拓人は、息子の横顔を見た。
「それと」
航太は、タオルで手を拭きながら言った。
「パパが、自分の失敗の話したとき。施設の話とか。あれは、ちょっと聞いた」
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その夜、拓人は書斎で、ジャケットの内ポケットから布切れを取り出した。
耳の曲がった、黄色いフェルト。
四年前の深夜。初めて縫って、失敗した一枚。
正論は、言わない。
わかったふりも、しない。
その代わりに、自分の一番不格好なものを、見せる。
拓人は、布切れをジャケットのポケットに戻した。
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翌朝。
ロッカールームに入ると、空気が張りつめていた。
エレーラが、部屋の真ん中に立っていた。
選手たち全員に向かって、何か言っていた。
拓人が入ってきたのに気づくと、エレーラは振り返った。
「ちょうどいい。今、話してたところだ」
エレーラは、薄く笑った。
「この監督は、一か月もたない。賭けてもいい」
誰も、何も言わなかった。
ベッカーが、一歩前に出ようとした。
拓人は、手でそれを制した。
そして、ゆっくりと、ジャケットの内ポケットに手を入れた。
◆次話予告◆
拓人がポケットから取り出したのは、一枚の布切れだった。
「お前のエゴは、俺が縫ったネズミの耳より曲がってるぞ」
ロッカールームが、凍りついた。
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