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『黄金のタクトと、不格好なアップリケ』〜レアルの10番、下町でパパになる〜  作者: 筑紫隼人
第4章:世界を獲る

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105/105

第105話 エレーラ

二日目の朝。


拓人がロッカールームに入ると、昨日より少しだけ、空気がやわらかかった。


キーパーが、軽く手を挙げた。ベッカーが、小さく頷いた。


奥の壁際には、昨日と同じ男が座っていた。


ヘッドフォン。サングラス。


拓人は、全員の前に立った。


「おはよう」


何人かが、おはよう、と返した。昨日は、誰も返さなかった。


「昨日の続きだ」


拓人は、奥の壁際を見た。


「エレーラ。名前と、ポジションと、家族のこと」


ロッカールームが、静まり返った。


エレーラは、しばらく動かなかった。


それから、ゆっくりと、ヘッドフォンを首に下ろした。


サングラスを外した。


初めて、その目が、まっすぐに拓人を見た。


---


茶色の目だった。


眠れていない人間の、薄い隈があった。


そして、その奥に、拓人がよく知っているものがあった。


誰にも、何も期待していない目。


期待して、裏切られるくらいなら、最初から何も求めない。近づいてくる大人は、全員、何かを取り上げに来る人間だ。


そう決めた子供の目だった。


二十年以上前。施設の洗面所の鏡に、毎朝映っていた目と、同じだった。


かつての、自分だ。


拓人は、そう思った。


施設にいた頃、一人だけ、しつこく話しかけてくる職員がいた。


若い男の先生だった。毎朝、おはようと言ってきた。拓人は、一度も返さなかった。


どうせ、すぐいなくなる。大人は、みんなそうだ。


その先生は、二年後に別の施設へ移っていった。最後の日、拓人の部屋の前で、少しだけ立ち止まった。


拓人は、ドアを開けなかった。


開けなかったことを、今でも時々、思い出す。


「名前は、知ってるだろ」


エレーラが、スペイン語なまりのドイツ語で言った。


「マティアス・エレーラ。フォワード。去年の得点王」


それから、口の端だけで笑った。


「家族? いない。それで満足か」


誰かが、息をのむ音がした。


「わかった」


拓人は、それだけ言った。


エレーラの眉が、わずかに動いた。


もっと何か言われると思っていたのだろう。同情か、説教か、詮索か。


拓人は、どれもしなかった。


「じゃあ、練習を始める」


エレーラは、しばらく拓人を見ていた。


それから、サングラスをかけ直した。


---


昼過ぎ、クラブハウスの食堂。


エレーラは、いつも一番奥の窓際のテーブルで、一人で食べていた。


拓人は、トレーを持って、その向かいに座った。


エレーラが、顔を上げた。


「席なら、他にもあるだろ」


「ここがいい」


拓人は、パスタを食べ始めた。


エレーラは、舌打ちをした。でも、席は立たなかった。


しばらく、二人とも黙って食べていた。


食堂のざわめきが、少しだけ小さくなった気がした。何人かの選手が、こちらを盗み見ている。


「……何が目的だ」


エレーラが、フォークを置いた。


「飯を食ってる」


「とぼけるな」


エレーラは、背もたれに体を預けた。


「前の監督は、二人とも最初の週に俺を部屋に呼んだ。チームのために走れ。パスを出せ。お前は一人じゃない。同じことを、何回も」


「そうか」


「あんたも、そのうち言うんだろ」


「言わない」


エレーラが、目を細めた。


「なんでだ」


拓人は、パスタを一口飲み込んでから、答えた。


「説教で変わる年じゃないだろ。お前も、俺も」


エレーラは、一瞬、言葉に詰まった。


それから、鼻で笑った。


「一つ、言っておく」


テーブルに、身を乗り出した。


「俺は、あんたのために走らない。俺は、俺のために点を取る。それで、このクラブは勝ってきた」


「去年は、リーグ何位だった」


エレーラの口が、止まった。


「二位だ」


拓人は、静かに言った。


「チャンピオンズリーグは、準々決勝で負けた。お前は、その試合で二点取った。チームは、三点取られた」


食堂のざわめきが、完全に止んでいた。


エレーラは、何も言わなかった。


ただ、テーブルの上で、右手を強く握りしめていた。


やがて、トレーを持って立ち上がった。


「……あんたも、一か月もたない」


それだけ言って、エレーラは食堂を出ていった。


---


午後の練習は、紅白戦だった。


エレーラは、昨日以上だった。


ボールを持つたびに、二人、三人と抜いていく。シュートは、どれも枠の隅に飛んだ。


前半だけで、三点を取った。


そして、一本もパスを出さなかった。


右サイドで、若いミッドフィルダーのレオンが、何度も手を挙げていた。完全にフリーだった。


エレーラは、見なかった。


紅白戦は、四対三で、エレーラのいないチームが勝った。


ピッチを出るとき、エレーラはレオンの横を通り過ぎた。


レオンが、何か言いかけた。


エレーラは、肩をぶつけるようにして、その横を抜けていった。


レオンの顔が、赤くなった。


アシスタントコーチのクラウスが、拓人の隣で低く言った。


「監督。もう、限界です。あいつを外さないと、ロッカールームが壊れます」


拓人は、エレーラの背中を見ていた。


肩に、力が入りすぎていた。


施設の門を出るときの、あの歩き方だった。


「まだだ」


拓人は言った。


---


練習が終わって、選手たちが引き上げた後。


拓人が監督室の窓から外を見ると、ピッチに一人だけ残っている影があった。


エレーラだった。


ペナルティエリアの外に、ボールを十個並べていた。


一つずつ、フリーキックを蹴っていた。


十本蹴ると、自分でボールを拾い集めて、また並べる。また蹴る。


日が傾いて、ピッチの半分が影になっても、やめなかった。


観客席には、誰もいなかった。


それでも、ゴールが決まるたびに、エレーラは一瞬だけ、そちらを見上げた。


背後で、ドアがノックされた。


ベッカーだった。着替えを済ませて、帰るところらしかった。


窓の外を見て、ベッカーは小さく息を吐いた。


「毎日です。誰よりも遅くまで、ああやってる」


「知ってる」


「去年のクリスマス」


ベッカーは、窓の外を見たまま言った。


「休暇で、全員が国に帰りました。俺も、家族とスキーに行った。戻ってきたら、警備員が言ってたんです。休みの間、毎日、一人だけ練習場に来てたやつがいるって」


拓人は、黙ってピッチを見ていた。


「誰も、あいつの家族の話を聞いたことがない。あいつも、しない」


ベッカーは、ドアの方へ戻りかけて、振り返った。


「監督。昨日、家族のことを聞いたとき。あいつが答えなかったのは、たぶん、答えがないからです」


ドアが閉まった。


ピッチの上で、エレーラが、また十個目のボールを蹴った。


---


その夜、地元のタブロイド紙のウェブ版に、記事が出た。


見出しは、太い赤い文字だった。


「育児監督と、王様。開幕前から、もう亀裂」


記事には、食堂で向かい合う二人の写真が載っていた。誰かが、スマートフォンで撮ったのだろう。


拓人は、画面を閉じた。


---


夕食の後、航太が台所で皿を洗っていた。


拓人は、その隣で、皿を拭いた。


「なあ、航太」


「ん」


「お前、反抗期のとき、パパに何されるのが一番嫌だった」


航太の手が止まった。


「……急に何」


「仕事の参考だ」


航太は、少し考えてから言った。


「正論」


即答だった。


「パパ、全部正しいこと言うじゃん。正しいから、言い返せない。言い返せないから、もっとむかつく」


拓人は、黙って皿を拭いた。


「あと、わかったふりされること。俺の気持ちなんて、わかるわけないのに」


「……そうか」


航太は、水を止めた。


それから、少しだけ声を小さくした。


「一番ましだったのは、何も言わないで、隣にいたとき。荒川で、走ったときとか」


拓人は、息子の横顔を見た。


「それと」


航太は、タオルで手を拭きながら言った。


「パパが、自分の失敗の話したとき。施設の話とか。あれは、ちょっと聞いた」


---


その夜、拓人は書斎で、ジャケットの内ポケットから布切れを取り出した。


耳の曲がった、黄色いフェルト。


四年前の深夜。初めて縫って、失敗した一枚。


正論は、言わない。


わかったふりも、しない。


その代わりに、自分の一番不格好なものを、見せる。


拓人は、布切れをジャケットのポケットに戻した。


---


翌朝。


ロッカールームに入ると、空気が張りつめていた。


エレーラが、部屋の真ん中に立っていた。


選手たち全員に向かって、何か言っていた。


拓人が入ってきたのに気づくと、エレーラは振り返った。


「ちょうどいい。今、話してたところだ」


エレーラは、薄く笑った。


「この監督は、一か月もたない。賭けてもいい」


誰も、何も言わなかった。


ベッカーが、一歩前に出ようとした。


拓人は、手でそれを制した。


そして、ゆっくりと、ジャケットの内ポケットに手を入れた。


◆次話予告◆


拓人がポケットから取り出したのは、一枚の布切れだった。


「お前のエゴは、俺が縫ったネズミの耳より曲がってるぞ」


ロッカールームが、凍りついた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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