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『黄金のタクトと、不格好なアップリケ』〜レアルの10番、下町でパパになる〜  作者: 筑紫隼人
第3章:指導者への道

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98/105

第98話 レッズへの感謝

八月の埼玉スタジアムは、夜になっても熱が引かなかった。


新しいシーズンの、最初のホーム戦。


そして、拓人が浦和の監督として立つ、最後のホーム戦だった。


試合前のロッカールームは、いつもより静かだった。


誰も、そのことを口にしない。口にしたら、試合どころではなくなる。全員が、それをわかっていた。


拓人は、ホワイトボードの前に立った。


いつものように、相手の布陣を書いた。いつものように、狙いどころに丸をつけた。


それから、マーカーを置いた。


「今日は、言うことはそれだけだ」


選手たちが、顔を上げた。


「あとは、お前らが考えろ。俺が教えたことは、もう全部、お前らの中にある」


光が、小さく笑った。


「監督、手抜きっすか」


「信用してるって言ってるんだ」


笑いが起きた。少しだけ、空気が軽くなった。


選手たちがピッチへ向かった後、通路で坂上が待っていた。


強化部長は、いつもの紺のスーツ姿だった。ネクタイだけが、今日は赤かった。


「監督」


「坂上さん」


「今日は、勝っても負けても、いい夜にしましょう」


「勝ちますよ」


坂上は、少しだけ笑った。


「あなたは、そういう人でしたね」


---


ピッチに出ると、ゴール裏が真っ赤に染まっていた。


拓人は、ベンチに向かいながら、メインスタンドを見上げた。


いつもの場所に、川口の全員がいた。


佐藤が、首にレッズのタオルを三本も巻いている。その隣で、ジュニアユースのジャージを着た蓮が、少し照れくさそうに手を振っていた。


節子は、結衣を膝にのせていた。結衣は、自分の顔より大きなフラッグを握りしめている。


葵は、あの体操着袋を抱えていた。


航太は、腕を組んで座っていた。父親と同じ座り方だということに、本人は気づいていない。


誠は、背筋を伸ばして、まっすぐピッチを見ていた。


拓人は、ベンチに腰を下ろした。


この椅子に座るのも、今日で最後だ。


---


試合は、立ち上がりから硬かった。


相手は、昨季の上位チームだった。前線から激しく寄せてくる。浦和は、なかなか前を向けない。


前半は、0-0で終わった。


ハーフタイムのロッカールームで、拓人は一つだけ言った。


「焦るな。四十五分あれば、相手は必ず疲れる」


それ以上は、何も言わなかった。


後半十五分。


相手が、布陣を変えてきた。


中盤を一枚増やして、浦和の真ん中を締めにきている。翔太の前のスペースが、急に狭くなった。


拓人は、立ち上がりかけた。


光を呼ぼうとして、口を開いた。


そのとき、ピッチの上で、光が先に動いた。


左手で翔太を指さし、右手で木村に何か叫んでいる。翔太が一列下がった。木村が、さらに高い位置を取った。


空いた真ん中に、光自身が入っていく。


拓人が言おうとしたことを、光はもう全部やっていた。


拓人は、ゆっくりと腰を下ろした。


隣のアシスタントコーチが、驚いたように拓人を見た。


「指示、出さないんですか」


「もう、出してある」


拓人は、ピッチから目を離さずに言った。


「二年かけて、全部な」


---


後半三十八分。


相手のボランチが、ボールを受けようとした。


翔太が、もう動いていた。


奪った。


顔を上げる。右サイドを、木村が駆け上がっている。


ジッダの夜と、同じ形だった。


翔太のパスが、木村の前に転がった。木村は、今度はシュートを打たなかった。中を見た。


ゴール前に、光が走り込んでいた。


木村の低いクロス。


光の右足が、それをゴールに押し込んだ。


1-0。


ゴール裏が、爆発した。


光は、ゴール裏には走らなかった。


まっすぐ、ベンチに向かって走ってきた。


その後ろから、木村が、翔太が、ほかの選手たちが、次々に走ってくる。


拓人は、ベンチの前で、選手たちの輪に飲み込まれた。


誰かが背中を叩いた。誰かが髪をぐしゃぐしゃにした。光が、耳元で叫んだ。


「見てました? 俺たちだけで、やりましたよ!」


「見てた」


拓人は、それしか言えなかった。


---


試合終了の笛が鳴った。


1-0のまま、浦和は新しいシーズンの最初の勝利をつかんだ。


選手たちとハイタッチを交わした後、拓人は一人で、ゴール裏の方へ歩いていった。


浦和のサポーターが陣取る、北側のスタンド。


近づくにつれて、歌が聞こえてきた。


自分の名前だった。


何万人もの声が、一つになって、自分の名前を呼んでいた。


拓人は、ゴール裏の前で足を止めた。


三年前の初夏を思い出した。


選手としての、最後の試合。同じこの場所で、同じように名前を呼ばれた。


あの夜、拓人は深々と頭を下げた。


そして、長い間、上げられなかった。


顔を上げたら、何かが終わってしまう気がしたからだ。


そのとき、歌が止んだ。


スタンドの中央で、何かが大きく広がり始めた。


横断幕だった。


白い布に、赤い文字。


でも、その文字は、印刷ではなかった。


一文字ずつ、布を切って、縫いつけてある。


線は、ところどころ歪んでいた。大きさも、そろっていない。縫い目が、照明の下で波打って見えた。


クラブW杯の中継で、あの体操着袋は何度もテレビに映った。耳の曲がったネズミと、取っ手の歪んだカップ。


それを、このスタンドの誰かが見ていたのだ。


横断幕には、こう縫いつけてあった。


「いってらっしゃい ここが、あなたの家だ」


右下の隅に、小さな金色のカップが一つ、縫いつけてあった。


拓人は、動けなくなった。


何人で縫ったのだろう。何日かかったのだろう。


針の持ち方も知らない人も、きっといたはずだ。


それでも、縫ってくれた。


体が、勝手に前に傾いた。


あの夜と同じように、頭を下げようとしていた。


そこで、止まった。


頭を下げたら、さよならになる。


違う。


これは、さよならじゃない。


拓人は、顔を上げた。


そして、右手を高く上げた。


大きく、振った。


何度も、何度も、振った。


また、帰ってくる。


言葉にしなくても、伝わった気がした。


ゴール裏から、地鳴りのような歓声が返ってきた。


もう一度、自分の名前を呼ぶ歌が始まった。


さっきより、ずっと大きな声だった。


メインスタンドが、目の端に入った。


佐藤が、タオルで顔を覆っていた。肩が大きく揺れている。泣いているのか笑っているのか、遠目にはわからなかった。たぶん、両方だ。


節子は、結衣を抱きしめていた。


そして誠が、立っていた。


席から立ち上がって、何も言わずに、ゴール裏の横断幕を見ていた。


---


ロッカールームに戻ると、選手たちが一列に並んでいた。


誰が言い出したのかは、わからない。全員が、黙って拓人を待っていた。


光が、一歩前に出た。


手に、今日の試合球を持っていた。全員のサインが、びっしりと書き込んである。


「これ、持ってってください」


拓人は、ボールを受け取った。


マジックの文字が、汗でところどころにじんでいた。


「ミュンヘンで、飾っといてください。で、たまに見て、思い出してください。浦和には、手のかかる選手がいたって」


「自分で言うな」


「事実なんで」


木村が、横から口をはさんだ。


「監督。ミュンヘンでも、サイドバックは上げてくださいよ。あれ、楽しかったんで」


翔太は、何か言おうとして、言葉が出てこないようだった。


唇を噛んで、深く頭を下げた。


拓人は、その頭に手を置いた。


「お前は、もっと出られる選手になる。読めるやつは、どこに行っても使われる」


翔太が、顔を上げないまま、何度も頷いた。


拓人は、一人ひとりの顔を見た。


四年前、この部屋に初めて入ったとき、自分を見る目は冷たかった。終わった選手。元スター。


今、ここにある目は、全部違っていた。


「ありがとう」


それだけ言うのが、精一杯だった。


---


その夜、エルザタワーに戻ったのは、日付が変わる少し前だった。


結衣は、フラッグを握ったまま眠っていた。


葵は、横断幕の写真をスマートフォンで何枚も見返していた。


「ねえ、パパ。あの金色のカップ、私のやつだよね」


「ああ。たぶんな」


「真似されちゃった」


口ではそう言いながら、葵はずっと笑っていた。


拓人が部屋に戻ろうとすると、廊下で航太とすれ違った。


航太は、何か言いたそうな顔をしていた。


「どうした」


「……明日の朝、走らない?」


拓人は、息子の顔を見た。


「荒川」


航太は、それだけ言った。


「出発前に、一回だけ」


「わかった」


航太は頷いて、自分の部屋に戻っていった。


ドアが閉まる直前、小さな声が聞こえた。


「今日の監督、かっこよかったよ」


パパ、ではなかった。


監督、と航太は言った。


拓人は、閉まったドアの前で、しばらく立っていた。


◆次話予告◆


出発前日の朝。


荒川の土手を、航太と並んで走る。


息子が、ずっと聞けずにいたこととは。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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