第98話 レッズへの感謝
八月の埼玉スタジアムは、夜になっても熱が引かなかった。
新しいシーズンの、最初のホーム戦。
そして、拓人が浦和の監督として立つ、最後のホーム戦だった。
試合前のロッカールームは、いつもより静かだった。
誰も、そのことを口にしない。口にしたら、試合どころではなくなる。全員が、それをわかっていた。
拓人は、ホワイトボードの前に立った。
いつものように、相手の布陣を書いた。いつものように、狙いどころに丸をつけた。
それから、マーカーを置いた。
「今日は、言うことはそれだけだ」
選手たちが、顔を上げた。
「あとは、お前らが考えろ。俺が教えたことは、もう全部、お前らの中にある」
光が、小さく笑った。
「監督、手抜きっすか」
「信用してるって言ってるんだ」
笑いが起きた。少しだけ、空気が軽くなった。
選手たちがピッチへ向かった後、通路で坂上が待っていた。
強化部長は、いつもの紺のスーツ姿だった。ネクタイだけが、今日は赤かった。
「監督」
「坂上さん」
「今日は、勝っても負けても、いい夜にしましょう」
「勝ちますよ」
坂上は、少しだけ笑った。
「あなたは、そういう人でしたね」
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ピッチに出ると、ゴール裏が真っ赤に染まっていた。
拓人は、ベンチに向かいながら、メインスタンドを見上げた。
いつもの場所に、川口の全員がいた。
佐藤が、首にレッズのタオルを三本も巻いている。その隣で、ジュニアユースのジャージを着た蓮が、少し照れくさそうに手を振っていた。
節子は、結衣を膝にのせていた。結衣は、自分の顔より大きなフラッグを握りしめている。
葵は、あの体操着袋を抱えていた。
航太は、腕を組んで座っていた。父親と同じ座り方だということに、本人は気づいていない。
誠は、背筋を伸ばして、まっすぐピッチを見ていた。
拓人は、ベンチに腰を下ろした。
この椅子に座るのも、今日で最後だ。
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試合は、立ち上がりから硬かった。
相手は、昨季の上位チームだった。前線から激しく寄せてくる。浦和は、なかなか前を向けない。
前半は、0-0で終わった。
ハーフタイムのロッカールームで、拓人は一つだけ言った。
「焦るな。四十五分あれば、相手は必ず疲れる」
それ以上は、何も言わなかった。
後半十五分。
相手が、布陣を変えてきた。
中盤を一枚増やして、浦和の真ん中を締めにきている。翔太の前のスペースが、急に狭くなった。
拓人は、立ち上がりかけた。
光を呼ぼうとして、口を開いた。
そのとき、ピッチの上で、光が先に動いた。
左手で翔太を指さし、右手で木村に何か叫んでいる。翔太が一列下がった。木村が、さらに高い位置を取った。
空いた真ん中に、光自身が入っていく。
拓人が言おうとしたことを、光はもう全部やっていた。
拓人は、ゆっくりと腰を下ろした。
隣のアシスタントコーチが、驚いたように拓人を見た。
「指示、出さないんですか」
「もう、出してある」
拓人は、ピッチから目を離さずに言った。
「二年かけて、全部な」
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後半三十八分。
相手のボランチが、ボールを受けようとした。
翔太が、もう動いていた。
奪った。
顔を上げる。右サイドを、木村が駆け上がっている。
ジッダの夜と、同じ形だった。
翔太のパスが、木村の前に転がった。木村は、今度はシュートを打たなかった。中を見た。
ゴール前に、光が走り込んでいた。
木村の低いクロス。
光の右足が、それをゴールに押し込んだ。
1-0。
ゴール裏が、爆発した。
光は、ゴール裏には走らなかった。
まっすぐ、ベンチに向かって走ってきた。
その後ろから、木村が、翔太が、ほかの選手たちが、次々に走ってくる。
拓人は、ベンチの前で、選手たちの輪に飲み込まれた。
誰かが背中を叩いた。誰かが髪をぐしゃぐしゃにした。光が、耳元で叫んだ。
「見てました? 俺たちだけで、やりましたよ!」
「見てた」
拓人は、それしか言えなかった。
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試合終了の笛が鳴った。
1-0のまま、浦和は新しいシーズンの最初の勝利をつかんだ。
選手たちとハイタッチを交わした後、拓人は一人で、ゴール裏の方へ歩いていった。
浦和のサポーターが陣取る、北側のスタンド。
近づくにつれて、歌が聞こえてきた。
自分の名前だった。
何万人もの声が、一つになって、自分の名前を呼んでいた。
拓人は、ゴール裏の前で足を止めた。
三年前の初夏を思い出した。
選手としての、最後の試合。同じこの場所で、同じように名前を呼ばれた。
あの夜、拓人は深々と頭を下げた。
そして、長い間、上げられなかった。
顔を上げたら、何かが終わってしまう気がしたからだ。
そのとき、歌が止んだ。
スタンドの中央で、何かが大きく広がり始めた。
横断幕だった。
白い布に、赤い文字。
でも、その文字は、印刷ではなかった。
一文字ずつ、布を切って、縫いつけてある。
線は、ところどころ歪んでいた。大きさも、そろっていない。縫い目が、照明の下で波打って見えた。
クラブW杯の中継で、あの体操着袋は何度もテレビに映った。耳の曲がったネズミと、取っ手の歪んだカップ。
それを、このスタンドの誰かが見ていたのだ。
横断幕には、こう縫いつけてあった。
「いってらっしゃい ここが、あなたの家だ」
右下の隅に、小さな金色のカップが一つ、縫いつけてあった。
拓人は、動けなくなった。
何人で縫ったのだろう。何日かかったのだろう。
針の持ち方も知らない人も、きっといたはずだ。
それでも、縫ってくれた。
体が、勝手に前に傾いた。
あの夜と同じように、頭を下げようとしていた。
そこで、止まった。
頭を下げたら、さよならになる。
違う。
これは、さよならじゃない。
拓人は、顔を上げた。
そして、右手を高く上げた。
大きく、振った。
何度も、何度も、振った。
また、帰ってくる。
言葉にしなくても、伝わった気がした。
ゴール裏から、地鳴りのような歓声が返ってきた。
もう一度、自分の名前を呼ぶ歌が始まった。
さっきより、ずっと大きな声だった。
メインスタンドが、目の端に入った。
佐藤が、タオルで顔を覆っていた。肩が大きく揺れている。泣いているのか笑っているのか、遠目にはわからなかった。たぶん、両方だ。
節子は、結衣を抱きしめていた。
そして誠が、立っていた。
席から立ち上がって、何も言わずに、ゴール裏の横断幕を見ていた。
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ロッカールームに戻ると、選手たちが一列に並んでいた。
誰が言い出したのかは、わからない。全員が、黙って拓人を待っていた。
光が、一歩前に出た。
手に、今日の試合球を持っていた。全員のサインが、びっしりと書き込んである。
「これ、持ってってください」
拓人は、ボールを受け取った。
マジックの文字が、汗でところどころにじんでいた。
「ミュンヘンで、飾っといてください。で、たまに見て、思い出してください。浦和には、手のかかる選手がいたって」
「自分で言うな」
「事実なんで」
木村が、横から口をはさんだ。
「監督。ミュンヘンでも、サイドバックは上げてくださいよ。あれ、楽しかったんで」
翔太は、何か言おうとして、言葉が出てこないようだった。
唇を噛んで、深く頭を下げた。
拓人は、その頭に手を置いた。
「お前は、もっと出られる選手になる。読めるやつは、どこに行っても使われる」
翔太が、顔を上げないまま、何度も頷いた。
拓人は、一人ひとりの顔を見た。
四年前、この部屋に初めて入ったとき、自分を見る目は冷たかった。終わった選手。元スター。
今、ここにある目は、全部違っていた。
「ありがとう」
それだけ言うのが、精一杯だった。
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その夜、エルザタワーに戻ったのは、日付が変わる少し前だった。
結衣は、フラッグを握ったまま眠っていた。
葵は、横断幕の写真をスマートフォンで何枚も見返していた。
「ねえ、パパ。あの金色のカップ、私のやつだよね」
「ああ。たぶんな」
「真似されちゃった」
口ではそう言いながら、葵はずっと笑っていた。
拓人が部屋に戻ろうとすると、廊下で航太とすれ違った。
航太は、何か言いたそうな顔をしていた。
「どうした」
「……明日の朝、走らない?」
拓人は、息子の顔を見た。
「荒川」
航太は、それだけ言った。
「出発前に、一回だけ」
「わかった」
航太は頷いて、自分の部屋に戻っていった。
ドアが閉まる直前、小さな声が聞こえた。
「今日の監督、かっこよかったよ」
パパ、ではなかった。
監督、と航太は言った。
拓人は、閉まったドアの前で、しばらく立っていた。
◆次話予告◆
出発前日の朝。
荒川の土手を、航太と並んで走る。
息子が、ずっと聞けずにいたこととは。
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