第97話 ルカとの別れ
画面の向こうに、マドリードの午後があった。
ルカは、自宅の庭のベンチに座っていた。後ろで、子供の笑い声がしている。
「こっちは夜の十一時だぞ」
「知ってる。だから今かけた。子供が寝た頃だろ」
ルカは、いつもの顔で笑った。
「ドイツの新聞に出てたぞ。バイエルンの新監督は、日本から来るって」
「早いな」
「この世界で、早くない話なんてない」
ルカは、手に持ったグラスを軽く揺らした。赤ワインだった。
「で?」
「今朝、受けた」
「そうか」
ルカは、少しだけ黙った。
それから、大きく息を吐いた。
「決勝で俺たちを負かした男が、今度はドイツの王様か。腹が立つな」
「悪かったな」
「謝るな。余計に腹が立つ」
二人で、笑った。
---
ルカと出会ったのは、マドリードに移った最初の夏だった。
十二年前。
言葉も通じない、愛想もない日本人のチームメイトに、最初に話しかけてきたのがルカだった。
練習の後、勝手に隣に座って、勝手にしゃべって、勝手に帰っていく。
それが、毎日続いた。
三ヶ月たった頃、拓人は気づいた。
この男は、高校の頃の遥と同じことをしている。
何も聞かずに、ただ隣にいる。
---
「お前、変わったな。拓人」
ルカが、ぽつりと言った。
「そうか?」
「昔のお前なら、悩まなかった。オファーが来たら、次の日には決めてた」
「……そうかもな」
「それに、昔のお前は誰にも相談しなかった。俺にも、遥にも」
拓人は、少し考えた。
「昔の俺には、相談する相手がいなかったんだよ」
「今は?」
「多すぎて困ってる」
拓人は、指を折った。
「息子と娘に背中を押されて。昨日の夜は、義理の父親に頭まで下げられた」
ルカが、目を丸くした。
「クラブW杯の後に会った、あの無口な親父さんか?」
「ああ」
「それは、断れないな」
「断れない」
ルカは笑って、それから少しだけ真顔になった。
---
「拓人。あの夜のこと、覚えてるか」
「どの夜だ」
「ウェンブリーの夜だ」
拓人は、黙った。
ビッグイヤーを掲げた夜。日本からの電話。
ルカは祝勝会を抜けて、空港まで車を出してくれた。
何も聞かずに。
「車の中で、お前は一言もしゃべらなかった」
「……ああ」
「俺も、何も言えなかった。言うべきことがあったのに」
ルカは、グラスをベンチの横に置いた。
「決勝の前に、俺は言ったよな。家族には、お前しかいないって」
拓人は、頷いた。
あの言葉は、ずっと耳の奥に残っていた。
引退を決めた夜も。会見で話したときも。
「あれは、間違ってた」
ルカは、まっすぐに画面を見た。
「お前の家族には、お前以外にもちゃんといる。親父さんも、お袋さんも。それに、あのうるさい男も」
「うるさい男?」
「スタンドで、一番でかい声で笑ってた男だ」
拓人は、思わず吹き出した。
「佐藤さんだ」
「お前は、一人で全部抱えてると思ってた。でも、違った。クラブW杯のスタンドを見て、わかったよ」
ルカの声が、少し揺れた。
「お前は、ちゃんと家族を作ったんだな。拓人」
拓人は、すぐには答えられなかった。
施設を出た春の朝を、思い出した。
荷物はスポーツバッグ一つ。門の前には、誰も迎えに来ていなかった。
あの日の自分に、この言葉を聞かせてやりたいと思った。
---
「祝杯だ」
ルカが、グラスを持ち上げた。
拓人は、手元を見た。台所から持ってきた麦茶のコップしかない。
「それで乾杯する気か」
「これしかない」
「日本人は、本当にわからん」
ルカは笑って、グラスを画面に近づけた。
拓人も、麦茶のコップを上げる。
画面越しに、カチン、と音がした気がした。
「次は、チャンピオンズリーグだ」
ルカが言った。
「バイエルンとマドリード。どこかで、必ず当たる」
「そのときは」
「容赦しないぞ、拓人」
「知ってる」
通話が切れた。
拓人は、麦茶のコップを持ったまま、しばらく動かなかった。
---
翌朝。
拓人は、練習開始の一時間前にグラウンドに着いた。
一人で、グラウンドを整備しようと思っていた。コーチになったばかりの頃、毎朝そうしていたように。
でも、先客がいた。
トンボを引いている背中。
光だった。
「……何してる」
「見ればわかるでしょ。整備ですよ」
光は、手を止めずに言った。
「新聞、見ました」
「そうか」
「監督が昔、毎朝これやってたの、俺、知ってたんで」
光は、トンボの先で土をならした。
「最初は、ポーズだと思ってました。元スターの、いい人アピール」
「正直だな」
「正直に言えって教えたの、監督でしょ」
拓人は黙って、立てかけてあったもう一本のトンボを手に取った。
二人で並んで、グラウンドをならした。
しばらく、土の音だけがしている。
「監督」
「ん」
「行ってください」
光は、前を向いたまま言った。
「監督が残ったら、俺、たぶん甘えるんで」
拓人は、光の横顔を見た。
かつて、誰にもパスを出さなかった男の横顔だった。
「……お前、変わったな」
言ってから、気づいた。
昨日の夜、自分が言われたばかりの言葉。
光が、ふっと笑った。
「監督に言われると、なんか腹立ちますね」
グラウンドの入り口に、木村と翔太の姿が見えた。
二人とも、手にトンボを持っていた。
その後ろから、ほかの選手たちも次々に歩いてくる。
誰も、ひと言もしゃべらない。
それぞれがトンボを持って、黙ってグラウンドに散っていった。
拓人は、手を止める。
止めないと、何かがこぼれそうだった。
◆次話予告◆
浦和レッズの監督として、最後のホーム戦。
埼玉スタジアムに、拓人の名前が響く。
そのとき、スタンドに一枚の横断幕が掲げられた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。
一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。
次話もお付き合いいただければ嬉しいです。




