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『黄金のタクトと、不格好なアップリケ』〜レアルの10番、下町でパパになる〜  作者: 筑紫隼人
第3章:指導者への道

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第96話 誠からの言葉


家族会議から、三日が過ぎた。


拓人は、まだ返事をしていなかった。


強化部長の坂上には、もう少しだけ時間をくださいと伝えてある。電話の向こうで、坂上はあの日と同じように「急かしません」とだけ言った。


誠と節子は、その夜もエルザタワーに泊まっていた。


ドイツの話が出てから、二人が泊まっていく日が増えている。


子供たちが寝静まった後、部屋のドアがノックされた。


誠だった。


「少し、いいか」


「はい。どうぞ」


誠は部屋に入ると、窓際の椅子に腰を下ろした。


それきり、口を開かない。


拓人も、何も聞かない。


待て、と佐藤に言われたのは、もう何年も前だ。反抗期の航太に、何か言おうとしていた頃。


言葉が出てくるまで、そばにいる。


航太のときも、結局はそれしかなかった。


窓の外で、川口の夜景が静かに瞬いていた。


「バイエルンの話」


誠が、ようやく口を開いた。


「まだ、決めてないんだろう」


「はい」


「なんでだ」


短い問いだった。まっすぐだった。


拓人は、少し考えてから答える。


「みんなの気持ちは、ありがたいです。航太も葵も、行こうって言ってくれた。でも」


言葉を探した。


「川口のことも、浦和のことも。簡単には、割り切れなくて」


誠は、静かに頷いた。


「そうか」


また、沈黙。


壁の時計の秒針だけが、部屋の中で動いていた。


「拓人」


「はい」


「俺は、正直、寂しい」


拓人は、顔を上げた。


この人の口から、そんな言葉が出てくるとは思わなかった。


誠との会話は、いつも短い。天気のこと。孫の学校のこと。試合の結果。


大事なことは、いつも言葉にならないまま、湯のみと一緒にそっと置かれていた。


「孫たちが遠くへ行くのは、寂しい。でも、それだけじゃない」


誠は、膝の上で指を組んだ。


「遥がいたら、絶対に行けって言ってた」


その名前に、拓人の胸が小さく揺れた。


「あいつは、お前が縮こまってるのが一番嫌いだった。新しい場所に飛び込んでいくお前を、いつも面白がってた」


「……はい」


「高校の頃な」


誠が、少しだけ笑った。


「あいつ、晩飯のたびにお前の話ばかりしてた。施設から通ってる、無口なやつがいるって」


拓人は、息をのんだ。


「あんなまっすぐな目は見たことがないって。箸を持ったまま、嬉しそうに」


知らなかった。


遥は、そういうことを拓人の前では一言も言わなかった。


自分の知らない場所で、自分の話をしてくれていた人がいる。


施設で育った拓人には、想像したこともない種類の温かさだった。


「俺はな」


誠の声が、少し低くなった。


「あいつに、何もしてやれなかった」


「そんなことは」


「ある」


誠は、首を振った。


「スペインにいた頃は、電話一本、ろくにかけなかった。何を話せばいいか、わからなくてな」


指を、組み直した。


「あの朝もそうだ。あいつが倒れたとき、救急車を呼んだのは航太だった。俺は、横で名前を呼ぶことしかできなかった」


拓人は、膝の上で拳を握った。


あの朝のことを、誠が口にするのは初めてだった。


「ずっと、それを後悔してきた」


誠の声が、かすかに震えていた。


「でも、お前になら託せる」


誠は、拓人の目を見た。


「あいつが選んだ男だ。あいつが命がけで残したものを、四年間、ちゃんと抱えてきた男だ」


それから、ゆっくりと立ち上がった。


拓人の前まで来て、深く頭を下げた。


「遥の分まで、頼む」


その姿勢のまま、誠は頭を上げなかった。


拓人は、動けなかった。


この人が誰かに頭を下げるところを、拓人は一度も見たことがない。


葬儀の日でさえ、誠は背筋を伸ばして立っていた。


廊下の向こうで、かすかに床がきしんだ。


節子だと、わかった。


でも、節子は入ってこなかった。


この時間が誰のものか、あの人はちゃんとわかっている。


「誠さん」


呼びかけようとして、言葉が途中で変わった。


「……お義父さん」


誠の肩が、小さく動いた。


ゆっくりと、顔を上げた。


目が、赤い。


拓人は、生まれてから一度も、誰かを「お父さん」と呼んだことがなかった。


施設の大人は、みんな「先生」。誠のことも、ずっと名前で呼んできた。


それが今、自然に口から出ていた。


「行ってこい。ドイツへ」


誠の声は、もう震えていなかった。


「俺たちは、いつでも川口で待ってる」


「……ありがとうございます」


それ以上は、言葉にならなかった。


二人は、しばらく黙って向き合っている。


やがて誠が、照れくさそうに目をそらした。


「柄にもなく、喋りすぎた」


「いえ」


「もう寝る」


「はい。おやすみなさい」


誠がドアを開けた。


廊下に、節子が立っていた。目元を指でぬぐって、何でもない顔を作っている。


「お疲れさま」


節子が、小さく言った。


誠は「ああ」とだけ答える。


並んで歩いていく二人の背中を、拓人はドアの隙間から見送った。


四十年以上、こうして並んで歩いてきた背中だった。


---


一人になった部屋で、拓人は遥の日記を開いた。


最後のページ。


あなたはきっと、どこでも10番よ。


遅いけど、と遥は書いていた。


本当に、遅かった。


でも、どうにか間に合ったのだと思う。


拓人は日記を閉じて、窓の外を見た。


川口の夜景の向こうに、荒川の暗い帯が見えた。


あの土手を、遥と歩いた夜がある。


あそこから、ここまで来た。


そして、ここから、また行く。


---


翌朝。


拓人は、坂上の番号を押した。


この人に、自分から大事な電話をかけるのは二度目だった。


一度目は、引退を告げた夜だ。


「坂上です」


「糸井です。バイエルンの話、お受けします」


電話の向こうで、坂上が一瞬黙った。


「そうですか」


その一言に、寂しさと祝福が一緒に滲んでいた。


「あなたに『来季の契約はいりません』と言われた夜。私、しばらく受話器を置けなかったんですよ」


「……すみませんでした」


「謝らないでください。あなたはコーチとして帰ってきてくれた。だから、アジアの頂点まで行けた」


坂上は、少し笑った。


「浦和は、あなたを忘れません」


「四年間、本当にお世話になりました」


電話を切った。


スマートフォンの画面に、光と木村と翔太の名前が並んでいた。


この三人に、何と言えばいいのか。


ありがとう、と言えば、さよならになる。


さよなら、と言えば、ありがとうが足りなくなる。


指が、画面の上で止まった。


結局その日は、誰にも連絡できなかった。


夜の十一時。


子供たちが寝た部屋で、スマートフォンが震えた。


マドリードからの着信だった。


ルカ。


◆次話予告◆


盟友ルカに、決断を伝える日が来る。


「お前は、変わったな、拓人」


その一言に込められた、十年以上の絆とは。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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