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『黄金のタクトと、不格好なアップリケ』〜レアルの10番、下町でパパになる〜  作者: 筑紫隼人
第3章:指導者への道

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第95話 バイエルンからの封書

帰国の日。


成田空港の到着ロビーには、報道陣とファンが詰めかけていた。


ゲートを抜けた瞬間、フラッシュが一斉に光った。


拓人は、その熱気に少し戸惑いながら歩く。


人垣の向こうに、見慣れた顔が見えた。


節子、誠、航太、葵、結衣。その後ろで、佐藤が大きく手を振っている。


家族は、一足先の便で帰っていた。


「パパ、おかえり!」


結衣が、人の足のあいだをすり抜けて走ってきた。


拓人は、しゃがんで受け止めた。


「ただいま」


その一言を口にしただけで、長い遠征の疲れが、少しずつ溶けていく気がした。


「監督、世界一おめでとうございます。今のお気持ちは」


マイクが、何本も向けられた。


拓人は、結衣を抱いたまま答えた。


「まだ、実感が薄いです。でも、この顔を見たら、少しずつ湧いてきました」


記者たちの表情が、ふっとやわらいだ。


荷物を受け取って歩き出すと、後ろから光に呼び止められた。


「監督、また練習場で」


それだけ言って、光はチームバスの方へ歩いていった。


---


翌朝。


エルザタワーのインターホンが鳴った。


国際便の配達員だった。


受け取った封筒は、厚くて、重い。


赤と青の紋章。差出人の欄に、ミュンヘンの文字。


拓人は、リビングのテーブルで封を切った。


中の書面は、ドイツ語で書かれていた。


辞書はいらない。ドルトムントで六年、毎日読んで、毎日しゃべってきた言葉だ。


バイエルン・ミュンヘン。


トップチーム監督就任の、正式な打診。


拓人は、しばらくその一行から目を離せなかった。


かつて、黄色と黒のユニフォームを着て、何度も戦った相手だった。


ドルトムントのファンには、きっと怒られる。


それでも、指先が少しだけ熱くなっていた。


---


拓人は、坂上に電話をかけた。


「バイエルンから、正式なオファーが来ました」


電話の向こうで、坂上が息をのむ気配がした。


それから、静かに言った。


「……うちにも、昨夜連絡がありました。監督と話をさせてほしい、と」


「そうでしたか」


「監督のキャリアとしては、この上ない話です」


坂上は、少し間を置いた。


「ただ、浦和としては、失いたくない」


正直な言葉だった。拓人は、黙って頷いた。


「一つ、聞いていいですか」


「はい」


「監督は、どうしたいんですか」


拓人は、言葉に詰まった。


「まだ、自分でも整理できていません」


「それでいいと思います。大きな決断ですから」


坂上の声に、急かす気配はなかった。


「少しだけ、時間をください」


「わかりました。急かしません」


---


その夜。


夕食の後、家族全員がテーブルを囲んでいた。


誠と節子も、泊まっていく予定だった。


「話したいことがあるんだ」


拓人は、切り出した。


「バイエルン・ミュンヘンから、監督のオファーが来た」


リビングが、静まり返った。


「ドイツの、あのバイエルン?」


航太が、真っ先に聞いた。


「そうだ」


節子と誠が、顔を見合わせた。


「それって、家族みんなでドイツに行くってこと?」


葵が、不安そうに聞いた。


「もし受けるなら、そうなる」


拓人は、正直に答えた。


「学校も、友達も、全部変わる。簡単な話じゃない」


葵は、黙った。


「でも、パパはお前らと一緒なら、どこでも頑張れる」


拓人は、一人ずつ顔を見た。


「無理に賛成しなくていい。反対でも、いい」


葵が、目を伏せた。


結衣は、何の話かわからずに、きょとんとしている。


「ねえ」


葵が、ぽつりと言った。


「パパ、ドルトムントの人だったのに、いいの?」


一瞬の間があって、航太が吹き出した。


「そこかよ」


「だって、敵なんでしょ」


「……怒られるだろうな」


拓人が言うと、少し空気がゆるんだ。


節子が、静かに口を開いた。


「拓人さんが決めることよ。私たちのことは、気にしないで」


拓人は頷いた。でも、迷いは消えなかった。


誠は、腕を組んだまま、何も言わない。


その沈黙が、拓人の胸に重くのしかかった。


節子が、誠の肩にそっと手を置いた。


「あなたも、何か言ったら」


誠は、小さく首を振った。


「今は、まだ、いい」


それだけ言って、また黙った。


拓人には、その沈黙の意味がまだわからなかった。


---


「航太は、どう思う」


拓人は、長男に聞いた。


航太は、高校二年生だった。


進路のことを考え始める時期だ。仲のいい友達も、部活の仲間もいる。


その全部を、手放させることになるかもしれない。


拓人は、反対されることも覚悟していた。


航太は、しばらく考えている。


それから、言った。


「パパ、行きなよ」


拓人は、息子の顔を見た。


「本当にいいのか。学校のことも、友達のことも」


「ドイツにも学校はあるでしょ」


航太は、あっさりと言った。


「それに俺、パパが本気でやってるところ、近くで見たいんだ」


少し、照れくさそうに続けた。


「マドリードにいた頃のパパは、テレビの中の人だった」


拓人は、黙った。


「試合のある日は、ほとんど家にいなかった。帰ってきても、疲れて寝てた。すごい人なんだろうなとは思ってたけど、正直、よくわからなかった」


航太は、テーブルの木目を指でなぞった。


「でも、監督になってからのパパは、違う。毎朝弁当作って、夜は戦術のノート広げて、結衣が熱出したら電話の前から動かなくて」


「……見てたのか」


「隣にいたからね」


航太は、顔を上げた。


「友達は、また作ればいい。でも、パパが世界と戦うところは、今しか見られないから」


喉の奥が詰まって、声が出てこない。


施設の裏庭で、一人でボールを蹴っていた頃。誰かに背中を押してもらうなんて、想像したこともなかった。


その自分が今、息子に背中を押されている。


「友達と離れるの、寂しくないか」


「寂しいよ。でも」


航太が、立ち上がった。


テーブルを回って、拓人の隣まで来た。


そして、拓人の肩に、手を置く。


自分から。


「パパ。今度は、俺たちがついていく番だよ」


肩に置かれた手は、思っていたよりずっと大きかった。


拓人は、その手に、自分の手を重ねた。


言葉は、出てこない。


---


葵が、顔を上げた。


「私も、頑張る。ドイツ語、覚える」


「パパが教えてやる」


「パパのドイツ語、なんか古そう」


「失礼だな」


結衣が、兄と姉の真似をして、両手を挙げた。


「ゆいも!」


小さな笑いが、テーブルに広がった。


節子が、目尻をぬぐいながら笑っていた。


誠だけが、まだ何も言わない。


でも、組んだ腕の上で、指が一度だけ動いたのを、拓人は見ていた。


「……もう少し、考えさせてくれ」


拓人は、そう言うのが精一杯だった。


節子が立ち上がって、温かいお茶を淹れ直した。


「今日は、この話はここまでにしましょう。みんな、少し頭を冷やす時間も必要よ」


誰も、反対しなかった。


---


家族がそれぞれの部屋に戻った後、拓人はリビングに一人で残った。


テーブルの上で、お茶の湯気がまだ細く立ちのぼっていた。


スマートフォンが、小さく震える。坂上からだった。


「ご家族のご意向を、最優先で構いません。浦和は、監督の決断を尊重します」


拓人は、深く息を吐いた。


誰も、拓人を追い詰めようとはしていなかった。


だからこそ、この決断は、自分と家族の手に委ねられている。


光にも、木村にも、翔太にも、まだ何も話していない。


あいつらが、この話をどう受け止めるか。


それを考えると、胸の奥が重くなった。


---


拓人は、ベランダに出た。


最上階の風は、少し冷たかった。


川口の街の灯りが、足元に広がっている。


二年前、神崎から電話が来た夜も、ここに立った。佐藤に缶コーヒーを渡されて、世界を目指せと言われた夜だ。


あのとき目指した世界が、今、本当に目の前にある。


遥、どう思う。


心の中で、問いかけてみた。


答えは返ってこない。


それでも、風が頬をなでるたびに、返事をもらっているような気がした。


二十年前、施設の裏庭で一人ボールを蹴っていた少年。


その少年が今、家族に囲まれて、もう一度、海の向こうを見ている。


拓人の中で、一つの答えが、少しずつ形になり始めていた。


◆次話予告◆


三日後の夜。


最後まで黙っていた誠が、拓人の部屋のドアを叩く。


義父が胸にしまい続けてきた、四年分の言葉とは。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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