第95話 バイエルンからの封書
帰国の日。
成田空港の到着ロビーには、報道陣とファンが詰めかけていた。
ゲートを抜けた瞬間、フラッシュが一斉に光った。
拓人は、その熱気に少し戸惑いながら歩く。
人垣の向こうに、見慣れた顔が見えた。
節子、誠、航太、葵、結衣。その後ろで、佐藤が大きく手を振っている。
家族は、一足先の便で帰っていた。
「パパ、おかえり!」
結衣が、人の足のあいだをすり抜けて走ってきた。
拓人は、しゃがんで受け止めた。
「ただいま」
その一言を口にしただけで、長い遠征の疲れが、少しずつ溶けていく気がした。
「監督、世界一おめでとうございます。今のお気持ちは」
マイクが、何本も向けられた。
拓人は、結衣を抱いたまま答えた。
「まだ、実感が薄いです。でも、この顔を見たら、少しずつ湧いてきました」
記者たちの表情が、ふっとやわらいだ。
荷物を受け取って歩き出すと、後ろから光に呼び止められた。
「監督、また練習場で」
それだけ言って、光はチームバスの方へ歩いていった。
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翌朝。
エルザタワーのインターホンが鳴った。
国際便の配達員だった。
受け取った封筒は、厚くて、重い。
赤と青の紋章。差出人の欄に、ミュンヘンの文字。
拓人は、リビングのテーブルで封を切った。
中の書面は、ドイツ語で書かれていた。
辞書はいらない。ドルトムントで六年、毎日読んで、毎日しゃべってきた言葉だ。
バイエルン・ミュンヘン。
トップチーム監督就任の、正式な打診。
拓人は、しばらくその一行から目を離せなかった。
かつて、黄色と黒のユニフォームを着て、何度も戦った相手だった。
ドルトムントのファンには、きっと怒られる。
それでも、指先が少しだけ熱くなっていた。
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拓人は、坂上に電話をかけた。
「バイエルンから、正式なオファーが来ました」
電話の向こうで、坂上が息をのむ気配がした。
それから、静かに言った。
「……うちにも、昨夜連絡がありました。監督と話をさせてほしい、と」
「そうでしたか」
「監督のキャリアとしては、この上ない話です」
坂上は、少し間を置いた。
「ただ、浦和としては、失いたくない」
正直な言葉だった。拓人は、黙って頷いた。
「一つ、聞いていいですか」
「はい」
「監督は、どうしたいんですか」
拓人は、言葉に詰まった。
「まだ、自分でも整理できていません」
「それでいいと思います。大きな決断ですから」
坂上の声に、急かす気配はなかった。
「少しだけ、時間をください」
「わかりました。急かしません」
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その夜。
夕食の後、家族全員がテーブルを囲んでいた。
誠と節子も、泊まっていく予定だった。
「話したいことがあるんだ」
拓人は、切り出した。
「バイエルン・ミュンヘンから、監督のオファーが来た」
リビングが、静まり返った。
「ドイツの、あのバイエルン?」
航太が、真っ先に聞いた。
「そうだ」
節子と誠が、顔を見合わせた。
「それって、家族みんなでドイツに行くってこと?」
葵が、不安そうに聞いた。
「もし受けるなら、そうなる」
拓人は、正直に答えた。
「学校も、友達も、全部変わる。簡単な話じゃない」
葵は、黙った。
「でも、パパはお前らと一緒なら、どこでも頑張れる」
拓人は、一人ずつ顔を見た。
「無理に賛成しなくていい。反対でも、いい」
葵が、目を伏せた。
結衣は、何の話かわからずに、きょとんとしている。
「ねえ」
葵が、ぽつりと言った。
「パパ、ドルトムントの人だったのに、いいの?」
一瞬の間があって、航太が吹き出した。
「そこかよ」
「だって、敵なんでしょ」
「……怒られるだろうな」
拓人が言うと、少し空気がゆるんだ。
節子が、静かに口を開いた。
「拓人さんが決めることよ。私たちのことは、気にしないで」
拓人は頷いた。でも、迷いは消えなかった。
誠は、腕を組んだまま、何も言わない。
その沈黙が、拓人の胸に重くのしかかった。
節子が、誠の肩にそっと手を置いた。
「あなたも、何か言ったら」
誠は、小さく首を振った。
「今は、まだ、いい」
それだけ言って、また黙った。
拓人には、その沈黙の意味がまだわからなかった。
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「航太は、どう思う」
拓人は、長男に聞いた。
航太は、高校二年生だった。
進路のことを考え始める時期だ。仲のいい友達も、部活の仲間もいる。
その全部を、手放させることになるかもしれない。
拓人は、反対されることも覚悟していた。
航太は、しばらく考えている。
それから、言った。
「パパ、行きなよ」
拓人は、息子の顔を見た。
「本当にいいのか。学校のことも、友達のことも」
「ドイツにも学校はあるでしょ」
航太は、あっさりと言った。
「それに俺、パパが本気でやってるところ、近くで見たいんだ」
少し、照れくさそうに続けた。
「マドリードにいた頃のパパは、テレビの中の人だった」
拓人は、黙った。
「試合のある日は、ほとんど家にいなかった。帰ってきても、疲れて寝てた。すごい人なんだろうなとは思ってたけど、正直、よくわからなかった」
航太は、テーブルの木目を指でなぞった。
「でも、監督になってからのパパは、違う。毎朝弁当作って、夜は戦術のノート広げて、結衣が熱出したら電話の前から動かなくて」
「……見てたのか」
「隣にいたからね」
航太は、顔を上げた。
「友達は、また作ればいい。でも、パパが世界と戦うところは、今しか見られないから」
喉の奥が詰まって、声が出てこない。
施設の裏庭で、一人でボールを蹴っていた頃。誰かに背中を押してもらうなんて、想像したこともなかった。
その自分が今、息子に背中を押されている。
「友達と離れるの、寂しくないか」
「寂しいよ。でも」
航太が、立ち上がった。
テーブルを回って、拓人の隣まで来た。
そして、拓人の肩に、手を置く。
自分から。
「パパ。今度は、俺たちがついていく番だよ」
肩に置かれた手は、思っていたよりずっと大きかった。
拓人は、その手に、自分の手を重ねた。
言葉は、出てこない。
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葵が、顔を上げた。
「私も、頑張る。ドイツ語、覚える」
「パパが教えてやる」
「パパのドイツ語、なんか古そう」
「失礼だな」
結衣が、兄と姉の真似をして、両手を挙げた。
「ゆいも!」
小さな笑いが、テーブルに広がった。
節子が、目尻をぬぐいながら笑っていた。
誠だけが、まだ何も言わない。
でも、組んだ腕の上で、指が一度だけ動いたのを、拓人は見ていた。
「……もう少し、考えさせてくれ」
拓人は、そう言うのが精一杯だった。
節子が立ち上がって、温かいお茶を淹れ直した。
「今日は、この話はここまでにしましょう。みんな、少し頭を冷やす時間も必要よ」
誰も、反対しなかった。
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家族がそれぞれの部屋に戻った後、拓人はリビングに一人で残った。
テーブルの上で、お茶の湯気がまだ細く立ちのぼっていた。
スマートフォンが、小さく震える。坂上からだった。
「ご家族のご意向を、最優先で構いません。浦和は、監督の決断を尊重します」
拓人は、深く息を吐いた。
誰も、拓人を追い詰めようとはしていなかった。
だからこそ、この決断は、自分と家族の手に委ねられている。
光にも、木村にも、翔太にも、まだ何も話していない。
あいつらが、この話をどう受け止めるか。
それを考えると、胸の奥が重くなった。
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拓人は、ベランダに出た。
最上階の風は、少し冷たかった。
川口の街の灯りが、足元に広がっている。
二年前、神崎から電話が来た夜も、ここに立った。佐藤に缶コーヒーを渡されて、世界を目指せと言われた夜だ。
あのとき目指した世界が、今、本当に目の前にある。
遥、どう思う。
心の中で、問いかけてみた。
答えは返ってこない。
それでも、風が頬をなでるたびに、返事をもらっているような気がした。
二十年前、施設の裏庭で一人ボールを蹴っていた少年。
その少年が今、家族に囲まれて、もう一度、海の向こうを見ている。
拓人の中で、一つの答えが、少しずつ形になり始めていた。
◆次話予告◆
三日後の夜。
最後まで黙っていた誠が、拓人の部屋のドアを叩く。
義父が胸にしまい続けてきた、四年分の言葉とは。
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