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『黄金のタクトと、不格好なアップリケ』〜レアルの10番、下町でパパになる〜  作者: 筑紫隼人
第3章:指導者への道

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第94話 葵の体操着袋

見つけた。


メインスタンドの中段。照明のまぶしさの向こうに、見慣れた顔が並んでいた。


一番前で、佐藤が両手を振り回していた。


隣で、節子が結衣を抱き上げている。航太がいる。誠がいる。


そして、葵がいた。


葵は、両手で何かを頭の上に掲げていた。


体操着袋だ。


三年生の二学期に、拓人が初めて縫った袋。それから四年間、ずっと使われてきた袋。


縫い目のほつれた、色のあせた布。


その真ん中に、耳の曲がった黄色いネズミが縫いつけてある。


照明を浴びて、その黄色が光った。


その隣で、もう一つ、何かが光っていた。


金色の、小さな何か。


あんなもの、あの袋についていただろうか。


八万人のスタジアムで、あんなに小さな布切れが、はっきり見えた。


拓人は、その場に立ち尽くした。


佐藤の笑い声が、ここまで届いてくる。何を言っているかはわからない。でも、あのガハガハという声だけは、どんな歓声の中でも聞き分けられた。


航太は、両手をポケットに入れたまま立っていた。


拓人と目が合うと、片手だけ出して、小さく上げる。


それだけで、胸の奥が熱くなる。


そして、誠。


誠が、笑っていた。


目尻にしわを寄せて、歯を見せて、手を叩いていた。


この人が、こんなふうに笑うのを見たのは初めてだ。


葬儀の日も、運動会の日も。ACLを獲った夜に送られてきた動画の中でも。誠はいつも、口を結んで静かに頷くだけだった。


その誠が、子供みたいに手を叩いている。


拓人は、ジャケットの内ポケットに手を当てた。


布の感触が、指先に伝わってきた。


---


表彰式が終わり、記者会見が終わった。


拓人が関係者エリアに降りていったのは、試合終了から二時間近くたった頃だった。


スタンドの下の、コンクリートの通路。


天井の低いその場所に、川口の全員が待っていた。


「パパ!」


結衣が、節子の腕から飛び降りて走ってきた。


拓人は、しゃがんで受け止める。結衣の髪から、汗とポップコーンの匂いがした。


「結衣、起きてたのか」


「起きてた! ずっと起きてた!」


「嘘つけ。ハーフタイムに一回寝てたぞ」


佐藤が、ガハガハ笑いながら言った。


「寝てないもん!」


結衣が頬をふくらませた。みんなが笑った。


節子は、もうハンカチで目を押さえている。


「世界一、おめでとう」


「ありがとうございます」


誠は、いつもの顔に戻っていた。口を結んで、静かに頷いていた。


でも、拓人は知っている。


さっき、スタンドで笑っていた顔を。


葵は、少し離れたところで、体操着袋を胸に抱えていた。


目が合うと、なぜか目をそらした。


---


通路の奥から、足音が近づいてきた。


スーツ姿の男が、スポーツバッグを肩にかけて歩いてくる。


レアル・マドリーのエンブレムが、胸元に光っていた。


ルカだった。


負けたチームの選手は、普通はここを通らない。わざわざ遠回りをしてきたのだと、拓人にはすぐわかった。


「タクト」


ルカが、片手を上げた。


その声に、葵が振り返った。


「……ルカ?」


葵の目が、丸くなった。


「ルカだ!」


葵が駆け寄った。ルカはバッグを放り出して、葵を抱き上げた。


「アオイ! 大きくなったな!」


スペイン語だった。


葵が、何か返そうとして、少しつっかえた。四年ぶりのスペイン語は、すぐには出てこない。


それでも、最後には笑いながら言った。


「ルカは、変わってない」


「それは、ほめてるのか?」


航太が、少し離れたところで立っていた。


ルカは葵を下ろすと、航太の前に立った。


見上げるようにして、目を細める。


「コウタか。嘘だろ。俺より、でかくなるつもりか」


航太は、照れたように少しだけ笑った。


「お久しぶりです、ルカさん」


航太のスペイン語は、ほとんど錆びていなかった。


---


ルカが、拓人の足元に目を落とした。


結衣が、拓人の脚にしがみついて、知らない大男をじっと見上げていた。


ルカは、ゆっくりとしゃがんだ。


結衣と、同じ目の高さになった。


大きな体が、しばらく動かない。


「……ユイ、だな」


拓人は、頷いた。


ルカは、結衣の顔をじっと見ていた。


「ハルカに、そっくりだ」


小さな声だった。


マドリードの家に、ルカは何度も来た。遥の作った肉じゃがを、三回おかわりした男だ。


結衣が、拓人の後ろに半分隠れながら、小さく手を振った。


ルカも、大きな手を小さく振り返した。


---


「紹介する」


拓人は、誠と節子の方を向いた。


「遥の両親だ」


航太が、すっと前に出た。通訳をするつもりなのだと、言われなくてもわかる。


誠が、一歩前に出た。


そして、黙って右手を差し出す。


握手をする誠を、拓人は初めて見た。


ルカは一瞬戸惑ってから、その手を両手で包むように握った。


誠が、短く言う。


「拓人が、お世話になりました」


航太が訳した。


ルカは、首を振った。


「いいえ。世話になったのは、俺の方です」


航太がそれを訳すと、誠はもう一度だけ、小さく頷いた。


それ以上、誠は何も言わなかった。


ルカも、何も言わない。


無口な男同士の挨拶は、それで終わった。


「で、こっちが」


拓人が言い終わる前に、佐藤がずいっと前に出てきた。


「ユー! ナイスファイト! でも今日は、うちの勝ち!」


カタカナの英語だった。


ガハガハ笑いながら、佐藤はルカの肩をばしばしと叩く。


ルカは目を丸くして、それから吹き出した。


「タクト。この人、スタンドで一番うるさかった人だろ」


「わかるか」


「ピッチから見えた。ゴールが決まってから、ずっと笑ってた」


---


「葵」


節子が、葵の背中をそっと押した。


「ほら。見せるんでしょう」


葵は、体操着袋を抱えたまま、もじもじしていた。


それから、思い切ったように、袋を拓人に差し出した。


「見て」


拓人は、袋を受け取った。


耳の曲がった黄色いネズミ。四年前、自分が縫ったものだ。


そして、その隣。


金色のフェルトで作った、カップの形のアップリケ。


線は歪んでいた。取っ手の大きさが左右で違う。縫い目も、ところどころはみ出していた。


それでも、確かにそこに、カップがあった。


スタンドで光っていたのは、これだ。


「これ、葵が縫ったのか」


「うん」


葵の声が、少しだけ震えていた。


「決勝の前に縫ったの。おばあちゃんには、優勝する前に縫ったら縁起が悪いって言われたけど」


節子が、苦笑いしながら頷いた。


「あの子、この一週間ずっとよ。学校から帰ると、すぐ針を持って」


「上手くできなくて。何回もやり直した」


葵は、袋の端を指でいじった。


「パパの真似、してみたくて」


拓人の胸の奥が、締めつけられた。


四年前の深夜。YouTubeの動画を何度も止めながら、震える手で針を持っていた自分。


誠が黙って隣に座って、指の位置を直してくれた夜。


あの夜の自分の真似を、娘がしてくれていた。


「不格好だけど」と葵が言った。


「上手いよ」


拓人は言った。


「本当?」


「本当だ。世界で一番、価値のあるアップリケだ」


葵の顔が、ぱっと明るくなった。


節子が、そっと言った。


「遥もね、いつも言ってたのよ。子供の作るものに、上手いも下手もない。気持ちがこもってれば、それでいいって」


ルカが、拓人の手元をのぞきこんだ。


「これは?」


葵が、スペイン語で答えた。


「このネズミは、パパが縫ったの。カップは、私」


ルカは、拓人を見た。


それから、もう一度、袋を見た。


「タクトが? 針を?」


「最初は、持ち方も知らなかった」


拓人が言うと、ルカは声を上げて笑った。


通路に、笑い声が響く。


笑って、笑って、それから、急に静まり返った。


ルカは、黄色いネズミのほつれた縫い目を、親指でそっとなぞった。


「ハルカが見たら、笑い転げるな」


「笑ってたよ。たぶん、どこかで」


航太が、横から袋をのぞきこんだ。


「俺も、何か作ろうかな」


「お兄ちゃん、不器用だから無理でしょ」


葵が、すかさず言った。


「うるさいな。やればできる」


「じゃあ、やってみなよ」


「今度な。今度」


誠が、腕を組んでその様子を眺めていた。


「……賑やかだな、うちは」


ぼそっとした一言に、みんなが笑った。


結衣も意味がわからないまま、一緒になって笑っていた。


---


「明日の飛行機が早いんだ」


ルカが、バッグを拾い上げた。


結衣に手を振って、葵の頭をくしゃっと撫でて、航太と拳を合わせた。


誠と節子に、ぎこちなく頭を下げる。


佐藤とは、なぜか固い握手をした。


それから、拓人の前に立つ。


ルカは、川口の全員を一度、ゆっくりと見回した。


佐藤。節子。誠。航太。葵。結衣。


何かを確かめるような目だった。


「タクト」


「ん」


ルカは、何か言いかけた。


口が開いて、閉じた。


「……いや。今度、電話する」


ルカはそれだけ言って、拓人の肩を軽く叩いた。


通路の向こうへ歩いていく背中を、拓人は見送った。


何を言いかけたのか。


そのときの拓人には、まだわからなかった。


---


ホテルに戻ったのは、夜中の二時を過ぎていた。


結衣は、佐藤の背中で眠っていた。


エレベーターの中で、葵が体操着袋を拓人に押しつける。


「今夜だけ、パパが持ってて」


「いいのか」


「今夜だけだからね」


部屋の前で、誠が立ち止まった。


「拓人」


「はい」


誠は、何か言おうとした。


それから、首を振った。


「……おやすみ」


「おやすみなさい」


ドアが閉まった。


あの人にも、言葉にならないものがある。


今夜は、そのままにしておこう。


---


一人になった部屋で、拓人は机の上に体操着袋を置いた。


隣に、遥の日記を並べた。決勝前夜に読み返して、そのまま鞄に入れてきたものだ。


スタンドの照明は、もうない。


ホテルの小さなライトの下で、二つのアップリケが並んでいた。


耳の曲がったネズミ。取っ手の歪んだカップ。


どちらも、不格好だった。


拓人は、しばらくそれを眺めていた。


施設で育った、誰とも話さない少年。


その隣に、普通に座ってくれた遥。


三人の子供。


川口の人たち。浦和のチーム。


どれも、最初から上手くいったものはなかった。


失敗して、やり直して、また失敗して。


それでも、やめなかった。


不格好なものが一つずつ積み重なって、気づいたら、ここにいた。


拓人は、日記の表紙に手を置く。


最初のページに、何が書いてあるかは知っている。


この人、糸井なのに、針の持ち方も知らないんだから。


「……今は、知ってるぞ」


誰もいない部屋で、拓人は小さく言った。


◆次話予告◆


帰国した拓人を待っていたのは、報道陣の群れと、一通の封書だった。


赤と青の紋章。差出人は、ミュンヘン。


拓人の人生が、もう一度動き出す。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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