第94話 葵の体操着袋
見つけた。
メインスタンドの中段。照明のまぶしさの向こうに、見慣れた顔が並んでいた。
一番前で、佐藤が両手を振り回していた。
隣で、節子が結衣を抱き上げている。航太がいる。誠がいる。
そして、葵がいた。
葵は、両手で何かを頭の上に掲げていた。
体操着袋だ。
三年生の二学期に、拓人が初めて縫った袋。それから四年間、ずっと使われてきた袋。
縫い目のほつれた、色のあせた布。
その真ん中に、耳の曲がった黄色いネズミが縫いつけてある。
照明を浴びて、その黄色が光った。
その隣で、もう一つ、何かが光っていた。
金色の、小さな何か。
あんなもの、あの袋についていただろうか。
八万人のスタジアムで、あんなに小さな布切れが、はっきり見えた。
拓人は、その場に立ち尽くした。
佐藤の笑い声が、ここまで届いてくる。何を言っているかはわからない。でも、あのガハガハという声だけは、どんな歓声の中でも聞き分けられた。
航太は、両手をポケットに入れたまま立っていた。
拓人と目が合うと、片手だけ出して、小さく上げる。
それだけで、胸の奥が熱くなる。
そして、誠。
誠が、笑っていた。
目尻にしわを寄せて、歯を見せて、手を叩いていた。
この人が、こんなふうに笑うのを見たのは初めてだ。
葬儀の日も、運動会の日も。ACLを獲った夜に送られてきた動画の中でも。誠はいつも、口を結んで静かに頷くだけだった。
その誠が、子供みたいに手を叩いている。
拓人は、ジャケットの内ポケットに手を当てた。
布の感触が、指先に伝わってきた。
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表彰式が終わり、記者会見が終わった。
拓人が関係者エリアに降りていったのは、試合終了から二時間近くたった頃だった。
スタンドの下の、コンクリートの通路。
天井の低いその場所に、川口の全員が待っていた。
「パパ!」
結衣が、節子の腕から飛び降りて走ってきた。
拓人は、しゃがんで受け止める。結衣の髪から、汗とポップコーンの匂いがした。
「結衣、起きてたのか」
「起きてた! ずっと起きてた!」
「嘘つけ。ハーフタイムに一回寝てたぞ」
佐藤が、ガハガハ笑いながら言った。
「寝てないもん!」
結衣が頬をふくらませた。みんなが笑った。
節子は、もうハンカチで目を押さえている。
「世界一、おめでとう」
「ありがとうございます」
誠は、いつもの顔に戻っていた。口を結んで、静かに頷いていた。
でも、拓人は知っている。
さっき、スタンドで笑っていた顔を。
葵は、少し離れたところで、体操着袋を胸に抱えていた。
目が合うと、なぜか目をそらした。
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通路の奥から、足音が近づいてきた。
スーツ姿の男が、スポーツバッグを肩にかけて歩いてくる。
レアル・マドリーのエンブレムが、胸元に光っていた。
ルカだった。
負けたチームの選手は、普通はここを通らない。わざわざ遠回りをしてきたのだと、拓人にはすぐわかった。
「タクト」
ルカが、片手を上げた。
その声に、葵が振り返った。
「……ルカ?」
葵の目が、丸くなった。
「ルカだ!」
葵が駆け寄った。ルカはバッグを放り出して、葵を抱き上げた。
「アオイ! 大きくなったな!」
スペイン語だった。
葵が、何か返そうとして、少しつっかえた。四年ぶりのスペイン語は、すぐには出てこない。
それでも、最後には笑いながら言った。
「ルカは、変わってない」
「それは、ほめてるのか?」
航太が、少し離れたところで立っていた。
ルカは葵を下ろすと、航太の前に立った。
見上げるようにして、目を細める。
「コウタか。嘘だろ。俺より、でかくなるつもりか」
航太は、照れたように少しだけ笑った。
「お久しぶりです、ルカさん」
航太のスペイン語は、ほとんど錆びていなかった。
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ルカが、拓人の足元に目を落とした。
結衣が、拓人の脚にしがみついて、知らない大男をじっと見上げていた。
ルカは、ゆっくりとしゃがんだ。
結衣と、同じ目の高さになった。
大きな体が、しばらく動かない。
「……ユイ、だな」
拓人は、頷いた。
ルカは、結衣の顔をじっと見ていた。
「ハルカに、そっくりだ」
小さな声だった。
マドリードの家に、ルカは何度も来た。遥の作った肉じゃがを、三回おかわりした男だ。
結衣が、拓人の後ろに半分隠れながら、小さく手を振った。
ルカも、大きな手を小さく振り返した。
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「紹介する」
拓人は、誠と節子の方を向いた。
「遥の両親だ」
航太が、すっと前に出た。通訳をするつもりなのだと、言われなくてもわかる。
誠が、一歩前に出た。
そして、黙って右手を差し出す。
握手をする誠を、拓人は初めて見た。
ルカは一瞬戸惑ってから、その手を両手で包むように握った。
誠が、短く言う。
「拓人が、お世話になりました」
航太が訳した。
ルカは、首を振った。
「いいえ。世話になったのは、俺の方です」
航太がそれを訳すと、誠はもう一度だけ、小さく頷いた。
それ以上、誠は何も言わなかった。
ルカも、何も言わない。
無口な男同士の挨拶は、それで終わった。
「で、こっちが」
拓人が言い終わる前に、佐藤がずいっと前に出てきた。
「ユー! ナイスファイト! でも今日は、うちの勝ち!」
カタカナの英語だった。
ガハガハ笑いながら、佐藤はルカの肩をばしばしと叩く。
ルカは目を丸くして、それから吹き出した。
「タクト。この人、スタンドで一番うるさかった人だろ」
「わかるか」
「ピッチから見えた。ゴールが決まってから、ずっと笑ってた」
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「葵」
節子が、葵の背中をそっと押した。
「ほら。見せるんでしょう」
葵は、体操着袋を抱えたまま、もじもじしていた。
それから、思い切ったように、袋を拓人に差し出した。
「見て」
拓人は、袋を受け取った。
耳の曲がった黄色いネズミ。四年前、自分が縫ったものだ。
そして、その隣。
金色のフェルトで作った、カップの形のアップリケ。
線は歪んでいた。取っ手の大きさが左右で違う。縫い目も、ところどころはみ出していた。
それでも、確かにそこに、カップがあった。
スタンドで光っていたのは、これだ。
「これ、葵が縫ったのか」
「うん」
葵の声が、少しだけ震えていた。
「決勝の前に縫ったの。おばあちゃんには、優勝する前に縫ったら縁起が悪いって言われたけど」
節子が、苦笑いしながら頷いた。
「あの子、この一週間ずっとよ。学校から帰ると、すぐ針を持って」
「上手くできなくて。何回もやり直した」
葵は、袋の端を指でいじった。
「パパの真似、してみたくて」
拓人の胸の奥が、締めつけられた。
四年前の深夜。YouTubeの動画を何度も止めながら、震える手で針を持っていた自分。
誠が黙って隣に座って、指の位置を直してくれた夜。
あの夜の自分の真似を、娘がしてくれていた。
「不格好だけど」と葵が言った。
「上手いよ」
拓人は言った。
「本当?」
「本当だ。世界で一番、価値のあるアップリケだ」
葵の顔が、ぱっと明るくなった。
節子が、そっと言った。
「遥もね、いつも言ってたのよ。子供の作るものに、上手いも下手もない。気持ちがこもってれば、それでいいって」
ルカが、拓人の手元をのぞきこんだ。
「これは?」
葵が、スペイン語で答えた。
「このネズミは、パパが縫ったの。カップは、私」
ルカは、拓人を見た。
それから、もう一度、袋を見た。
「タクトが? 針を?」
「最初は、持ち方も知らなかった」
拓人が言うと、ルカは声を上げて笑った。
通路に、笑い声が響く。
笑って、笑って、それから、急に静まり返った。
ルカは、黄色いネズミのほつれた縫い目を、親指でそっとなぞった。
「ハルカが見たら、笑い転げるな」
「笑ってたよ。たぶん、どこかで」
航太が、横から袋をのぞきこんだ。
「俺も、何か作ろうかな」
「お兄ちゃん、不器用だから無理でしょ」
葵が、すかさず言った。
「うるさいな。やればできる」
「じゃあ、やってみなよ」
「今度な。今度」
誠が、腕を組んでその様子を眺めていた。
「……賑やかだな、うちは」
ぼそっとした一言に、みんなが笑った。
結衣も意味がわからないまま、一緒になって笑っていた。
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「明日の飛行機が早いんだ」
ルカが、バッグを拾い上げた。
結衣に手を振って、葵の頭をくしゃっと撫でて、航太と拳を合わせた。
誠と節子に、ぎこちなく頭を下げる。
佐藤とは、なぜか固い握手をした。
それから、拓人の前に立つ。
ルカは、川口の全員を一度、ゆっくりと見回した。
佐藤。節子。誠。航太。葵。結衣。
何かを確かめるような目だった。
「タクト」
「ん」
ルカは、何か言いかけた。
口が開いて、閉じた。
「……いや。今度、電話する」
ルカはそれだけ言って、拓人の肩を軽く叩いた。
通路の向こうへ歩いていく背中を、拓人は見送った。
何を言いかけたのか。
そのときの拓人には、まだわからなかった。
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ホテルに戻ったのは、夜中の二時を過ぎていた。
結衣は、佐藤の背中で眠っていた。
エレベーターの中で、葵が体操着袋を拓人に押しつける。
「今夜だけ、パパが持ってて」
「いいのか」
「今夜だけだからね」
部屋の前で、誠が立ち止まった。
「拓人」
「はい」
誠は、何か言おうとした。
それから、首を振った。
「……おやすみ」
「おやすみなさい」
ドアが閉まった。
あの人にも、言葉にならないものがある。
今夜は、そのままにしておこう。
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一人になった部屋で、拓人は机の上に体操着袋を置いた。
隣に、遥の日記を並べた。決勝前夜に読み返して、そのまま鞄に入れてきたものだ。
スタンドの照明は、もうない。
ホテルの小さなライトの下で、二つのアップリケが並んでいた。
耳の曲がったネズミ。取っ手の歪んだカップ。
どちらも、不格好だった。
拓人は、しばらくそれを眺めていた。
施設で育った、誰とも話さない少年。
その隣に、普通に座ってくれた遥。
三人の子供。
川口の人たち。浦和のチーム。
どれも、最初から上手くいったものはなかった。
失敗して、やり直して、また失敗して。
それでも、やめなかった。
不格好なものが一つずつ積み重なって、気づいたら、ここにいた。
拓人は、日記の表紙に手を置く。
最初のページに、何が書いてあるかは知っている。
この人、糸井なのに、針の持ち方も知らないんだから。
「……今は、知ってるぞ」
誰もいない部屋で、拓人は小さく言った。
◆次話予告◆
帰国した拓人を待っていたのは、報道陣の群れと、一通の封書だった。
赤と青の紋章。差出人は、ミュンヘン。
拓人の人生が、もう一度動き出す。
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