第93話 タイムアップ
アディショナルタイム、四分。
浦和は必死に、ボールを回していた。
時間を使うためのパス。
それでも一つ一つのプレーに集中力が宿っていた。
ルカが最後の力を振り絞り、中盤に上がってくる。
「まだだ、切らすな」
拓人の声が、ベンチから飛ぶ。
翔太が後方から、声を張り上げた。
「ライン、まだ保つ。慌てるな」
数ヶ月前には見せなかったリーダーの声だった。
若手選手たちがその号令に、素早く反応する。
チーム全体が一つの生き物のように、時間を守り抜こうとしていた。
木村が体を寄せ、ルカからボールを奪い取った。
その瞬間審判が、腕時計を確認する仕草を見せた。
拓人は思わず、息を止めた。
長い笛の音が、スタジアムに響いた。
試合終了。
1-0。
浦和レッズ、クラブワールドカップ、優勝。
その瞬間、拓人の中で何かが、堰を切ったように崩れ落ちた。
選手たちが一斉に、ピッチに倒れ込んだ。
光が両手で顔を覆い、動かなくなった。
木村が翔太に飛びついた。
若手選手たちも次々と、輪の中心に駆け寄っていく。
拓人はベンチの前で、しばらく立ち尽くしていた。
実感がまだ追いついていなかった。
坂上が駆け寄ってきて、拓人の両肩を強く掴んだ。
「監督、優勝です。世界一です」
「はい」
それだけ答えるのが精一杯だった。
拓人はゆっくりと、スタンドを見渡した。
無意識のうちに誰かの姿を探していた。
そこにいないとわかっているはずの家族の顔を。
節子の笑顔、誠の頷き、子供たちのはしゃぐ姿。
もちろんそこには誰もいなかった。
その代わり目に入ったのは、観客席の一角で日の丸を掲げる小さな一団だった。
現地在住の日本人サポーターたちが涙を流しながら手を振っていた。
拓人はその方角に向かって深く頭を下げた。
一人ではない。
その実感があらためて胸に広がっていった。
ピッチでは選手たちが次々と拓人のもとへ駆け寄ってきていた。
光が真っ先に抱きついてきた。
「監督、世界一ですよ、世界一!」
「ああ」
拓人の声はほとんど掠れていた。
木村も翔太も涙を拭きながら輪に加わった。
若手フォワードが初めて人前で大声を上げて泣いた。
拓人はその一人一人の顔をしっかりと、目に焼き付けた。
一人一人の顔に、それぞれの物語が刻まれていた。
孤独を抱えていた光。
秋田から出てきたばかりの木村。
公式戦の経験すらなかったあの頃の翔太。
誰もがそれぞれの壁を越えて、今ここに立っている。
拓人自身も、その一人だった。
施設で育ち、誰にも期待されずに生きてきた少年が、今、世界一のチームを率いている。
そのことを、拓人はまだ、完全には信じきれずにいた。
それでも、この手にしたトロフィーの重みだけは、確かな現実だった。
数ヶ月前、諦めムードに包まれていたあのグラウンド。
そこからここまでたどり着いた。
光がしばらく、拓人のそばを離れなかった。
「監督」
「なんだ」
「ありがとうございます」
それだけ言うと、光はまた涙をこぼした。
拓人はその肩を、黙って抱いた。
言葉よりその方が、伝わる気がした。
木村と翔太も二人で何かを、話し込んでいた。
きっとこれまでの日々のことを、振り返っているのだろう。
試合後拓人はルカとピッチの中央で向き合った。
「おめでとう、拓人」
ルカが右手を差し出した。
「ありがとう」
拓人はその手をしっかりと握り返した。
「悔しいけど」
ルカが少し笑った。
「お前のチーム、本当に、強かった」
「個の力じゃ、勝てないくらいに、な」
拓人は首を横に振った。
「個の力も、すごかった。お前はまったく衰えてない」
「それでも今日は、俺たちが一枚上手だった」
ルカはその言葉に深く頷いた。
「今度は、飯でも、食おう。ゆっくりとな」
「ああ、必ず」
二人はもう一度固く握手を交わした。
十年以上の月日を経て、まったく違う立場で再び交わった二人の道だった。
周囲の記者たちが、その握手の瞬間を、次々とカメラに収めていた。
翌日の紙面を飾る一枚だと、拓人は後になって知った。
ルカが去り際に、もう一度振り返る。
「拓人、良い監督になったな」
「お前も、良い選手のままだ」
その一言を最後に、ルカは自分のチームのもとへ戻っていった。
表彰式が、始まった。
トロフィーが運ばれてくる。
主将の木村が、まずそれを高々と掲げた。
続いて選手たちが次々と、トロフィーに触れていく。
拓人も坂上に促され、その輪の中に加わった。
トロフィーに触れた瞬間、これまでのすべての記憶が脳裏を駆け巡った。
施設で過ごした幼い日々。
遥との出会い、そして別れ。
三人の子供たちとの泥だらけの日常。
川口の仲間たち、フェニックスの子供たち。
浦和でのコーチ就任からの、すべての戦い。
そのすべてが、この小さなトロフィーに集約されていた。
坂上が隣でそっと、目頭を押さえていた。
「監督、ここまで、よく来ましたね」
「坂上さんこそ、ずっと信じてくれました」
坂上はそれ以上何も言わず、ただ頷く。
その夜ホテルの部屋で拓人のスマートフォンが震え続けた。
節子からの動画が届いていた。
再生する。
リビングで家族全員が抱き合って跳ねていた。
誠が珍しく大声で叫ぶ。
「世界一だ、世界一だぞ!」
葵と結衣がその周りをぐるぐる走り回る。
航太がカメラに向かって親指を立てていた。
拓人はその光景を何度も繰り返し見た。
胸の奥から温かいものがこみ上げてくる。
佐藤からも短いメッセージが届いていた。
「拓人。お前、本当に、大したもんだよ」
その一言だけで十分だった。
フェニックスのグループチャットにも大量のスタンプと、メッセージが溢れていた。
蓮からは、一言だけ。
「拓人さん、次は、俺の番です」
その短い宣言に、拓人はしばらく画面を見つめた。
いつかこの舞台で、蓮のプレーを見る日が来るかもしれない。
そんな未来を想像するだけで、胸が熱くなった。
拓人は窓の外を見た。
決勝の熱狂がまだ街に残っているようだった。
だが拓人の心はすでに少し先を見ていた。
明日には日本へ帰る。
家族の顔を直接見られる日が近づいていた。
拓人はスマートフォンの画面をもう一度見つめた。
家族からの動画の最後のシーンで、葵が何かを手に持ちカメラに見せていた。
小さくてよく見えなかったがそれは、確かに拓人の胸に引っかかった。
「これ、何だろう」
節子が動画の途中で、カメラに向かって何か言いかけていた。
だが航太が後ろから、その画面を遮ってしまいよく聞き取れなかった。
拓人はその部分だけ、もう一度再生してみた。
「拓人さん、実は葵がね」
そこでまた、映像が途切れていた。
拓人はその画面を少し拡大してみた。
だが画質が粗くはっきりとはわからなかった。
「まあ、帰ったら、わかることか」
拓人はそう呟いて、スマートフォンを鞄にしまった。
世界一という称号を手にした夜。
それでも拓人の心は、すでに川口の家へと向かい始めていた。
◆次回予告◆
帰国した拓人を、待っていたもの。
葵が、大切そうに、抱えていた、あの体操着袋。
そこに施された、不格好なアップリケが、意味するものとは。
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