第90話 決勝前夜
決勝前日。
拓人はホテルの部屋で一人荷物を整理していた。
明日の準備は、ほとんど終わっていた。
それでも手が落ち着かなかった。
スマートフォンが次々と震える。
節子から。
誠から。
航太、葵、結衣からも、それぞれメッセージが届いた。
拓人は一つずつ目を通していった。
節子の文面は、いつも通り穏やかだった。
「明日は家族みんなで、応援してるわ」
誠の一言は短い。
「あとは、やるだけだ」
短い一言の後に、もう一行付け加えられていた。
「遥も、絶対、見てる」
その一文に拓人は、しばらく画面から目を離せなかった。
誠がそんな言葉を送ってくることは、これまで一度もなかった。
それだけの言葉に、拓人は深く頷いた。
航太からは、長めの文章が届いていた。
「パパ、俺、学校の友達に決勝の中継、見せびらかしてる」
「クラスの誰も、信じてくれないけど」
「明日、証明してきて」
拓人はその文面に、思わず頬を緩めた。
葵からは、写真が添えられていた。
画用紙に描かれた、レッズのユニフォームを着る拓人の絵だった。
「パパ、これ見て、頑張って」
結衣からは、たどたどしい音声メッセージが届いていた。
「ぱぱ、かって」
その声を拓人は、何度も繰り返し再生した。
坂上からも、簡潔な激励が届いていた。
「明日、日本中が見ています。楽しんでください」
その言葉に拓人は、少し肩の力が抜けた。
木村や翔太のスマートフォンにも、同じように大量のメッセージが届いているはずだった。
一人ではない。
その実感が、拓人の胸に静かに広がっていった。
光からも、短いメッセージが届いていた。
「監督、明日、全部出し切ります」
「一緒に、見せましょう。俺たちのサッカーを」
その一言に拓人は、静かに返信を打った。
「ああ、見せよう」
佐藤から、少し長めのメッセージが届いた。
「拓人、明日は川口の全員で見てる」
「蓮も、飯を食う手を止めずにテレビの前だ」
「フェニックスの子供たちも、みんなテレビの前だ」
「思う存分、暴れてこい」
拓人はそのメッセージを何度も読み返した。
胸の奥が、じんと熱くなった。
メッセージの最後に蓮からの、一言が添えられていた。
「拓人さんの下で、いつかプレーするのが夢です」
「明日は、その夢の続きを、見せてください」
拓人はその言葉をしばらく見つめていた。
一通りのメッセージに目を通し終えると、鞄の奥から一冊のノートを取り出した。
遥の日記だった。
ページをめくる。
見慣れた遥の字が、そこにあった。
最後のページに、目を留める。
「あなたはきっと、どこでも十番よ」
その一文を、拓人は何度も読んだ。
十番。
チームの中心で、皆を引っ張る存在。
遥はその言葉を、いつも冗談めかして言っていた。
だが今、その一言は拓人の生き方そのものになっていた。
かつては選手として。
今は監督として。
遥の言葉は形を変えながら、拓人の中でずっと生き続けていた。
日記のページには、他にもたくさんの言葉が綴られていた。
育児の記録、日々のささやかな出来事、時折挟まる、拓人への文句。
そのどれもが今の拓人を、形づくってきた。
拓人は日記を、そっと胸に当てた。
「明日、見ててくれ」
小さく、そう呟いた。
窓の外、ジッダの夜が静かに更けていく。
明日、世界最高峰のクラブと対峙することになる。
かつての盟友とも、敵として向き合うことになる。
不安がないわけではなかった。
世界最高峰のスター選手たち。
十年前、自分がその一員だった舞台。
今度はまったく違う立場で、その舞台に立つことになる。
それでも拓人の中には、確かな落ち着きがあった。
一人ではない。
そのことをこれほど実感した、夜はなかった。
拓人は日記をそっと鞄にしまった。
明日への準備が整っていた。
◆次回予告◆
決勝の笛が、いよいよ鳴る。
「個」で戦う世界的な強豪と、「家族」で戦う浦和レッズ。
すべてを賭けた一戦が、幕を開ける。
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