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『黄金のタクトと、不格好なアップリケ』〜レアルの10番、下町でパパになる〜  作者: 筑紫隼人
第1章:父になる(現役編)

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第9話 航太、誕生

ドルトムントに戻ったのは、8月の終わりだった。


川口の夏が終わって、ルール地方の秋が始まる頃だった。空がまた低くなって、雲が厚くなって、太陽が少しずつ遠くなっていく。でも去年と違った。アパートに帰ると、遥がいた。それだけで、灰色の空が少し違って見えた。


シーズンが始まった。


去年より結果が出た。チームにも馴染んできた。ドイツ語も、日常会話なら困らなくなっていた。


遥は相変わらず献立表を作って、弁当を作って、栄養管理を続けていた。時々、近所のスーパーで見つけた食材を嬉しそうに持って帰ってきた。「これ、日本のあの野菜に似てる」とか「このチーズ、めちゃくちゃおいしい」とか。ドルトムントの街に、少しずつ馴染んでいた。


春になった頃、遥が言った。


「ねえ、報告がある」


夕食の後、テーブルで向かい合っていた。いつもなら食後に遥がお茶を淹れるタイミングで、その日はお茶がなかった。


「何ですか」


遥は少し間を置いた。


「子供、できた」


拓人は少し固まった。


「本当ですか」


「本当」


「いつわかったんですか」


「3日前」


「なんで言わなかったんですか」


「どう言えばいいかわからなくて」


遥が少し笑った。


珍しかった。遥が「どう言えばいいかわからなかった」と言うのは、珍しかった。


「嬉しいですか」


「嬉しい」と遥は言った。即答だった。「めちゃくちゃ嬉しい」


「俺も」


「本当に?」


「本当に」


遥はまた笑った。今度は少し泣きそうな笑い方だった。


「よかった」


妊娠中の遥は、あまり変わらなかった。


つわりが少しあった。朝、気持ち悪そうにしていることが増えた。でも献立表は変わらず作っていたし、弁当も作っていた。ただ、自分の分だけ少し別の食材を使うようになった。


「無理しなくていいです」と拓人は何度か言った。


「無理してない」と遥は毎回言った。


「でも」


「妊婦だからって何もしないのは逆にストレスだから」


それ以上言えなかった。


ただ、重い荷物は持たせないようにした。近所への買い物は拓人が行くようになった。夜遅くまで起きていたら「もう寝てください」と言った。


遥は最初「大丈夫だって」と言っていたが、途中から素直に従うようになった。


「なんで最近素直なんですか」


「お腹に話しかけてる」と遥は言った。


「どういうことですか」


「この子に見られてると思うと、ちゃんとしようって思う」


拓人には少しわからなかった。でも遥がそう言うなら、そうなのかもしれなかった。


お腹が大きくなってくると、遥はよく話しかけていた。


夜、拓人がリビングで映像分析をしていると、寝室から遥の声が聞こえた。


「今日ね、パパがゴール決めたんだよ。テレビで見てたよ。かっこよかった」


「今日の夕ご飯はね、鮭とほうれん草。ほうれん草は葉酸が多いから体にいいんだよ」


「ドルトムントはね、空がいつも曇ってるんだけど、今日は少し晴れてた。川口の空に似てた」


拓人は映像分析の手を止めて、耳を傾けた。


遥の声が、部屋の中に静かに広がっていた。


その声を聞きながら、拓人は思った。


俺には、こういう時間がなかった。


8歳で家族を失って、施設に入って、ボールだけ蹴り続けた。誰かに話しかけてもらう夜も、誰かの声を聞きながら眠る夜も、ほとんどなかった。


この子には、ある。


それだけで十分な気がした。


出産予定日の2週間前、節子がドルトムントに来た。


「一人じゃ心配だから」と節子は言った。スーツケースを二つ引いて、成田から飛んできた。


「お義母さん、大丈夫ですか。遠いのに」


「大丈夫大丈夫。遥の時も一人でやったんだから」


節子は来た翌日から、アパートの台所に立った。遥の隣で料理をして、遥が疲れると「座ってなさい」と言った。遥は最初「大丈夫だって」と言っていたが、3日で素直に従うようになった。


「お義母さんの言うことは聞くんですか」


「お母さんだから」と遥は言った。


それだけで納得した。


陣痛が始まったのは、夜中の2時だった。


拓人は飛び起きた。


病院に電話した。ドイツ語で電話した。緊張して、単語が飛んだ。なんとか伝わった。


節子が「落ち着いて」と言いながら遥の荷物をまとめた。遥は痛そうだったが、声を上げなかった。


「痛くないですか」


「痛い」と遥は言った。「でも大丈夫」


「大丈夫じゃないでしょう」


「大丈夫だって」


タクシーを呼んだ。病院まで15分だった。その15分が、やけに長かった。


分娩室には入れなかった。


廊下の椅子に座って、待った。節子が隣に座った。


時計を見た。3時12分だった。


また時計を見た。3時31分だった。


また見た。4時08分だった。


節子は黙って座っていた。時々、お茶を飲んでいた。


「お義母さんは、遥が生まれた時どうでしたか」


「怖かった」と節子は言った。「でも産まれた瞬間、怖いとか痛いとかぜんぶ飛んだ」


「飛ぶんですか」


「飛ぶよ。そういうもんだから」


また沈黙があった。


「拓人さん」と節子が言った。


「はい」


「遥がいてよかった」


どういう意味かと思ったが、節子の顔を見て、わかった気がした。


「俺もです」


節子は頷いた。


それだけだった。


産声が聞こえたのは、5時を過ぎた頃だった。


廊下まで聞こえてきた。


小さくて、でも力強い声だった。


節子が目を押さえた。


拓人は立ち上がった。座っていられなかった。廊下を少し歩いて、また戻ってきた。


看護師が出てきた。ドイツ語で何か言った。全部聞き取れた。


「男の子です。お母さんも元気です」


遥は疲れ切った顔をしていた。


でも笑っていた。


ベッドの上で、小さな赤ん坊を抱いていた。


「おいで」と遥が言った。


拓人は近づいた。


「抱いてみて」


「怖いです」


「大丈夫だから」


看護師が教えてくれた。頭を支えて、こうして、ああして。


抱いた。


軽かった。


思っていた以上に軽かった。こんなに軽いのに、遥はこれだけのものをお腹に抱えていたのか。


顔を見た。


目を閉じていた。小さな手を握っていた。皺だらけの、赤い顔だった。


何かが、胸の奥で動いた。


言葉にならなかった。


うまく説明できない何かが、胸の中で動いて、喉のあたりで止まった。


「航太」と遥が言った。「糸井航太」


「航太」と拓人は繰り返した。


その名前を呼んだ瞬間、目を開けた。


まだ焦点が合っていない目だった。でも確かに、開いた。


拓人を見た。


見ていないのかもしれない。新生児にそんな力はないと、後から知った。でもその時は、見ていると思った。


「俺が父親だ」


声に出すつもりはなかった。


でも出ていた。


遥が笑った。疲れ切った顔で、笑った。


「そうだよ」と遥は言った。「やっと会えたね」


窓の外で、ドルトムントの朝が始まっていた。


灰色だった空に、少しだけ光が差していた。



◆次話予告◆


バロンドール授賞式は、10月のパリだった。


世界中が拓人を称えた夜、スピーチで拓人は家族への感謝を一切言わなかった。


遥が窓際で一人で泣いていた理由を、拓人が知ったのはずっと後になってからだった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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