第8話 川口の誓い
川口に帰ったのは、7月の終わりだった。
ドルトムントのシーズンが終わって、拓人と遥は成田に降りた。遥の両親が空港まで迎えに来ていた。節子が「遥ー」と手を振った。誠は黙って立っていた。
久しぶりに見る義父の顔は、少し老けていた気がした。
帰りの車の中、節子がずっと喋っていた。ドルトムントの生活はどうだったか、ご飯は食べられていたか、寒くなかったか。遥が笑いながら答えていた。
誠は黙って運転していた。
川口に近づくと、荒川が見えた。
拓人は窓の外を見た。
変わっていなかった。広い川だった。
結婚式は、8月の第一週にやった。
遥が「小さくていいからやりたい」と言った。拓人は「式はいらない」と言った。遥は「やりたい」と言った。
それで決まった。
場所は川口駅から歩いて5分のイタリアンレストランだった。遥が「ここの料理が好きだから」という理由で選んだ。貸し切りにした。
列席者は20人もいなかった。
奥村家。ドルトムントのチームメイトが二人、わざわざドイツから飛んできた。遥の大学時代の友人が三人。レッズ時代にお世話になったコーチが一人。
そして、一人だけ。
拓人が直接電話して呼んだ人物がいた。
田中恵子は、施設で働いていた頃と変わっていなかった。
少し白髪が増えて、少し皺が増えた。でも目が同じだった。拓人を見る目が、昔と変わっていなかった。
特別扱いしない目。ただ、普通に見る目。
「来てくれてありがとうございます」
「呼んでくれてありがとう」と田中は言った。「びっくりしたよ、電話が来た時」
「来てもらえると思っていなかったので」
「来るに決まってるじゃない」
それだけだった。
田中は遥を見た。
遥も田中を見た。
「遥さんですね」と田中は言った。
「はい、初めまして」
「拓人から話は聞いてました。よく電話をくれていたので」
「施設にいた頃のことですか」
「ええ。電話があるたびに、遥さんの話をしていました」
遥は少し驚いた顔をした。拓人の方を見た。
「してません」と拓人は言った。
「してたよ」と田中は笑った。「自分では気づいてなかったんでしょうけど」
遥が田中の目を見た。
田中も遥の目を見た。
「遥さんと同じ目をしてる」と田中は言った。
「え?」
「拓人を特別扱いしない目。昔から、そういう目で見てくれる人が拓人には必要だと思っていました」
遥はしばらく黙っていた。
それから「ありがとうございます」と言った。
声が少し変だった。
式は午後3時に始まった。
司会は遥の大学時代の友人が務めた。
ドルトムントのチームメイトたちは日本語がわからないので、遥が簡単に通訳しながら進めた。
誓いの言葉の番になった。
司会が拓人に向けた。「糸井拓人さん、誓いの言葉をどうぞ」。
拓人は立ち上がった。
用意していなかった。
周りからは「用意した方がいい」と言われていたが、断った。その場で思ったことを言えばいい。
口を開いた。
「俺には家族がいなかった」
会場が静かになった。
「8歳の時に全部なくなって、それからずっと一人だった。一人が普通だと思っていた。欠けているとも思っていなかった」
窓から夏の光が入っていた。
「高校で遥に話しかけてもらって、初めて気づいた。欠けていたんだと」
遥を見た。
遥はまっすぐ拓人を見ていた。泣いていなかった。
「ドルトムントで一人でいた冬、遥が来てくれた。冷蔵庫にビールとケチャップしかなかったのに、来てくれた」
ドルトムントのチームメイトの一人が小声で何かを言った。もう一人が笑った。
「俺には家族がいなかった。でも今日から、いる」
それだけだった。
短かった。準備していないから、それだけしか出てこなかった。
でも会場が静かだった。
節子が目を押さえていた。遥の友人たちが顔を見合わせていた。田中恵子が窓の外を見ていた。
誠が、真っ直ぐ前を向いていた。
次は遥の番だった。
遥は立ち上がった。
手元に小さな紙を持っていた。用意していた。
「私はずっと川口で育って、川口しか知らなかった。高校で拓人に出会って、ドイツに行って、初めて川口の外の世界を知った」
声が落ち着いていた。
「拓人は不器用で、言葉が足りなくて、誕生日を忘れるし、スピーチで私のことを言わないし」
会場が少し笑った。
「でも、荒川の土手で初めて施設の話をしてくれた時、この人のそばにいたいと思った。理由はわからなかった。今もわからない。ただそう思った」
紙を折りたたんだ。
「これからも、そばにいます。どこにいても」
それだけだった。
拓人は遥の顔を見た。
泣いていなかった。
でも目が、少し光っていた。
指輪の交換が終わって、司会が「お二人は夫婦となりました」と言った。
拍手が起きた。
節子が泣いていた。遥の友人たちが泣いていた。ドルトムントのチームメイトが拍手しながら何か叫んでいた。
誠は拍手していた。
立ち上がって、拓人のそばに来た。
何も言わなかった。
ただ、右手を差し出した。
拓人は握手した。
誠の手は、職人の手だった。節くれだって、傷だらけで、でも動きに迷いがない。
「よろしくお願いします」と拓人は言った。
誠は頷いた。
それだけだった。
でもその握手が、拓人には十分すぎた。
夜、レストランを出た後、拓人と遥は荒川まで歩いた。
礼服のまま、二人で土手を歩いた。
夏の夜の荒川は、風が温かかった。
「誓いの言葉、短かったね」と遥が言った。
「用意していなかった」
「知ってた」
「どうでしたか」
「よかった」と遥は言った。「拓人らしかった」
川が流れていた。対岸の明かりが水面に映っていた。
「田中さん、いい人だね」と遥は言った。
「そうです」
「遥さんと同じ目をしてる、って言われた」
「そうみたいです」
「嬉しかった」
川風が来た。遥の髪が揺れた。
「ねえ」と遥は言った。
「はい」
「家族、できたね」
拓人は川を見た。
広い川だった。高校の時に荒川を歩いた夜より、少し広く見えた気がした。
「できた」
遥が笑った。
その笑顔が、川の明かりに照らされていた。
◆次話予告◆
ドルトムントに戻った翌年の春、遥が拓人に言った。
「ねえ、報告がある」
いつもより少し、声が柔らかかった。
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