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『黄金のタクトと、不格好なアップリケ』〜レアルの10番、下町でパパになる〜  作者: 筑紫隼人
第1章:父になる(現役編)

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第7話 ドルトムントの冬

ドルトムントの冬は、灰色だった。


空が低い。雲が厚い。太陽が出ない日が何週間も続く。マドリードやバルセロナのような南欧とは全然違う。ルール地方の冬は、重くて、暗くて、どこまでも続く感じがした。


それが余計に、堪えた。


移籍初年度の秋、拓人はスタメンから外れた。


理由はわかっていた。戦術が違う。言葉が通じない。チームメイトが何を言っているか、半分もわからない。ドイツ語を必死に勉強していたが、ピッチ上の咄嗟の判断には全然追いつかない。


監督に呼ばれた。


通訳を通して言われた。「お前のクオリティは疑っていない。でも今は周りと合っていない」。


正論だった。反論できなかった。


部屋に帰った。


アパートのリビングに一人で座って、窓の外を見た。灰色の空だった。


冷蔵庫を開けた。缶ビールが三本と、ケチャップが入っていた。それだけだった。


施設にいた頃、食事は全部作ってもらっていた。プロになってからは寮か外食か、遠征先のホテルだった。自炊したことが、ほとんどなかった。


缶ビールを一本開けた。


飲みながら、遥に電話した。


「どうしたの」と遥は言った。声だけで、何かを感じ取るのが遥だった。


「スタメン外れました」


「そっか」


「言語が追いつかなくて」


「そっか」


「食欲もあまりなくて」


「何食べてるの」


「外食が多いです」


「毎日?」


「はい」


遥が少し黙った。


「冷蔵庫に何が入ってる」


「ビールとケチャップです」


「……それだけ?」


「はい」


また沈黙があった。今度は少し長かった。


「わかった」と遥は言った。「単位、もう取れてるから。卒論も年内に出せる。冬休みに行く」


「でも、卒業式が——」


「出なくていい。あなたの方が大事」


拓人は何も言えなかった。


「ビール、それ以上飲まないで」と遥は言った。「あと、明日からでいいから、外食でもサラダだけは頼んで」


「わかりました」


「わかりました、じゃなくて」


「わかった」


「うん」と遥は言った。「それでいい」


12月の半ば、遥がドルトムントに来た。


空港に迎えに行った。到着ロビーに遥が出てきた。大きなスーツケースを二つ引いていた。


「荷物、多くないですか」


「多くない」


「どう見ても多いです」


「管理栄養士の教科書と調理道具です」


「調理道具?」


「あなたの食事、絶対ひどいことになってると思って」


拓人はスーツケースを受け取った。重かった。片方だけで、普通の人間の引っ越し並みの重さがあった。


アパートに着いて、遥が最初にやったことは冷蔵庫を開けることだった。


開けた。


ビールが二本と、ケチャップ。


遥は無言で冷蔵庫を閉めた。振り返って、拓人を見た。


「ビール、一本減ってる」


「飲みました」


「サラダは?」


「頼みました。2回」


「2回だけ?」


「毎日は難しくて」


遥はしばらく拓人を見た。それから小さくため息をついて、ノートを取り出した。買い物リストを書き始めた。


「近くにスーパーある?」


「あります」


「案内して」


遥の料理は、うまかった。


いや、うまいという言葉が正確かどうかわからない。派手な味ではない。でも食べると体が落ち着く感じがした。施設の食堂のご飯に少し似ていた。懐かしい感じ。


「なんでこんなに落ち着くんですか」


「栄養バランスが取れてるから」と遥は言った。「アスリートの体は食事で8割決まるって言われてるよ」


「8割?」


「残りの2割はメンタルと睡眠」


「じゃあサッカーは」


「その結果」


拓人は箸を止めた。


「そういうものですか」


「そういうもの」と遥は言った。「あなた、ドルトムント来てから何キロ落ちた?」


「4キロくらい」


「それ全部筋肉だから」


断言された。


「なんでわかるんですか」


「見たらわかる」と遥は言った。「顔が細くなってる。でも体幹が弱くなってる。食事が原因。あと睡眠も取れてないでしょ」


全部当たっていた。


「怖いですね」


「管理栄養士だから」


遥が来てから、生活が変わった。


朝食が出た。昼の弁当が出た。練習後のプロテインの量と種類を遥が計算して用意してくれた。夕食は遥が作った。


献立表があった。週単位で組まれていた。「試合3日前はこれ、前日はこれ、当日の朝はこれ」と細かく書いてあった。


「こんなに細かくしなくていいです」


「細かくしないと意味ない」


「でも大変じゃないですか」


「楽しいから大変じゃない」と遥は言った。「あなたが結果を出せる体を作るのが、私の仕事だから」


私の仕事、という言い方が、少し引っかかった。


「仕事ですか」


「違った」と遥は笑った。「私のやりたいこと、かな」


年が明けて、体が戻ってきた。


4キロ落ちた筋肉が戻った。それ以上に、体の動きが変わった。重心が安定した。90分走り切れるようになった。


2月の練習試合でゴールを決めた。


3月、公式戦に復帰した。


4月、スタメンに戻った。


転機になったのは、4月の中旬のアウェー戦だった。


後半20分、ボールが来た瞬間、チームメイトのドイツ語が聞こえた。


「リンクス」——左だ。


咄嗟に左に出した。つながった。そのままゴールになった。


試合後、そのチームメイトが肩を叩いてきた。


「やっとわかったか」とドイツ語で言った。


全部聞き取れた。


その夜、アパートに帰ると遥が夕食を作っていた。


試合の結果は知っている。でも何も言わなかった。いつも通りに「おかえり」と言って、いつも通りに皿を並べた。


食べながら、拓人は言った。


「今日、チームメイトの言葉が聞き取れた」


「そっか」と遥は言った。


「ゴールになった」


「見てた」


「テレビで?」


「うん」


拓人は少し間を置いた。


「遥が来てから、全部変わった」


遥は何も言わなかった。


箸を置いて、お茶を飲んだ。


「変わったのはあなたが頑張ったから」


「でも、遥がいなかったら——」


「いたから、いいじゃん」


それだけ言って、また食べ始めた。


拓人はその横顔を見た。


川口の工場勤務の父親と、専業主婦の母親のもとで育った女が、ドイツの街で毎朝弁当を作っている。卒業式にも出なかった。そんなことは一言も言わなかった。


「遥」


「なに」


「ありがとう」


遥は少し間を置いた。


「敬語じゃないじゃん」と言った。


「たまには」


遥は笑った。


「たまにじゃなくていいのに」


窓の外で、ドルトムントの夜が静かだった。灰色の冬が、少しだけ明るく見えた。


◆次話予告◆


バロンドール受賞の夜、世界中が拓人を称えた。


スピーチで、拓人は家族への感謝を一切言わなかった。


その夜、遥が一人で泣いていた理由を、拓人が知ったのはずっと後になってからだった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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