第6話 ケンカと薔薇
高校を卒業した春、拓人は浦和レッズとプロ契約を結んだ。
記者会見があった。カメラが並んで、記者が質問した。「プロになった感想は」「目標は」「日本代表は意識しているか」。拓人は短く答えた。感想は特にない。目標はゴールを決めること。代表は考えていない。
記者たちが少し困った顔をした。
遥は会見をテレビで見ていたらしく、その夜に連絡をくれた。
「感想は特にない、って言い切るの、なんか好きだよ」
「普通のことを聞かれても普通のことしか言えないので」
「それが正直でいいと思う」
そういう人だった。
プロ1年目は、あっという間だった。
開幕戦でスタメンに入った。前半23分にゴールを決めた。スタジアムが揺れた。
ベンチに戻りながら、拓人はスタンドを探した。
どこかに遥がいるはずだった。チケットを渡していた。でも9万人の中から一人を探せるわけがない。
それでも探した。
試合後、遥から連絡が来た。
「ゴール、見たよ」
「どうでしたか」
「きれいだった。でも」
「でも?」
「ゴール決めた後、スタンド探してたでしょ」
「そんなことしてません」
「してたよ。テレビに映ってた」
返事ができなかった。
「誰を探してたの」と遥は聞いた。
また返事ができなかった。
しばらくして、遥が「冗談だよ」と言った。でも笑っていなかった気がした。
初めてデートらしいデートをしたのは、プロ1年目のシーズンオフだった。
遥が「どこか行こう」と言った。拓人には行きたい場所がなかった。遥が「じゃあ私が決める」と言って、鎌倉に連れて行ってくれた。
電車で1時間半。小町通りを歩いて、鶴岡八幡宮に行って、海を見た。
遥は歩きながらよく話した。あのお店においしいものがある、あの路地が好き、前に来た時はここで転んだ。拓人は黙って聞いていた。
海岸に出た時、遥が波打ち際に走っていった。
冬の海だった。人が少なかった。波が来るたびに遥が少し後ろに下がって、また前に出た。子供みたいだった。
「冷たくないですか」
「冷たい」と遥は笑った。「でも気持ちいい」
拓人には意味がわからなかった。冷たいなら気持ちよくないはずだ。でも遥の顔を見ると、本当に気持ちよさそうだった。
帰り道、二人で並んで歩いた。
江ノ電の駅のホームで電車を待っていた時、遥が拓人の腕に触れた。
何も言わなかった。ただ触れた。
拓人も何も言わなかった。
電車が来て、二人で乗った。窓の外に夕焼けが広がっていた。
2年目に10ゴールを超えた。
3年目に得点王になった。リーグ優勝も果たした。MVPを受賞した。
その夜、チームの祝勝会があった。拓人は途中で抜け出した。
遥に電話した。
「おめでとう」と遥は言った。
「ありがとう」
「どこにいるの」
「外」
「祝勝会は?」
「抜けてきました」
少し間があった。
「なんで」
「遥の声が聞きたかった」
今度は長い間があった。
「……バカじゃないの」と遥は言った。声が少し変だった。
「どうかしましたか」
「なんでもない」
「泣いてますか」
「泣いてない」
「泣いてますよね」
「泣いてない」
でも泣いていた。電話口で、こっそり泣いていた。
「なんで泣いてるんですか」
「うれしいから」と遥は言った。「バカみたいでしょ」
「バカじゃないです」
「バカだよ。あなたの得点王で、なんで私が泣くの」
「わかりません」
「私もわかんない」
二人で笑った。
電話口で、二人で笑った。
その夜、拓人は初めて遥に「好きです」と言った。電話越しに。
遥は少し間を置いて、「知ってる」と言った。
「知ってたんですか」
「うん」
「いつから」
「荒川の土手の夜から」
拓人には意味がわからなかった。あの夜、拓人は何も言っていない。ただ施設の話を少しして、並んで歩いただけだ。
「なんでですか」
「なんとなく」と遥は言った。「理由はわからない。ただそう思った」
MVP受賞の翌週、ドルトムントからオファーが届いた。
代理人から連絡が来た時、拓人は遥とファミレスにいた。
「ちょっとすみません」と言って電話を受けた。
「ドルトムントから正式オファーが届きました」
内容を聞いた。条件を聞いた。「検討します」と言って電話を切った。
席に戻ると、遥がドリンクバーから持ってきたコーヒーを置いてくれた。
「大事な電話だった?」
「はい」
「言えない感じ?」
「今は、まだ」
遥は「そっか」と言って、コーヒーを飲んだ。
それだけだった。
移籍の話が出始めたのは、その翌日からだった。
スポーツ紙の小さな記事。「糸井拓人、欧州移籍か」。
拓人は否定しなかった。肯定もしなかった。
代理人との話し合いは続いていた。オファーは本物だった。でも自分の中で、まだ言葉にできていなかった。
遥には、話していなかった。
「読んだよ」と遥が言ったのは、記事が出た翌日だった。
練習後、駐車場で待っていた。
「どうなの」
「まだわかりません」
「そっか」
それだけだった。
帰り道、二人で川沿いを歩いた。遥はいつもより少し先を歩いた。拓人が遅れると歩調を緩めた。でもいつもより少し、歩幅が広かった。
それから2週間、遥は何も聞かなかった。
いつも通りに会って、いつも通りに話して、いつも通りに笑った。でも何かが違った。
遥の「そっか」が、少し短くなった。「またね」の後に、一瞬だけ間があるようになった。気のせいかもしれなかった。でも気のせいじゃない気もした。
11月の終わり、移籍がほぼ確定という記事が出た。
スポーツ紙の一面。「糸井拓人、ドルトムント移籍へ。日本人最高額の移籍金」。
その日の夜、遥から連絡が来なかった。
翌日、練習場の駐車場で待っていた遥と目が合った。
「ちょっといい?」
人気のない場所に行った。遥は拓人の前に立って、まっすぐ目を見た。
「ドルトムント、行くの?」
「たぶん」
「たぶん、ってなに」
「ほぼ決まってます」
遥は少し黙った。
「いつから知ってたの」
「2週間くらい前から」
「なんで言わなかったの」
答えられなかった。
言い方がわからなかった。言ったら何かが変わる気がして、変えたくなかった。でもそれを言葉にする方法がわからなかった。
「私のこと、どうするつもりなの」
遥の声が、少し震えた。
初めて聞く声だった。いつも穏やかで、感情を出さない遥が、震えている。
「一緒に来て欲しい、とか。待っていて欲しい、とか。そういうこと、考えてくれてたの?それとも」
言葉が止まった。
「それとも、なんも考えてなかったの」
拓人は答えられなかった。
考えていた。でも何をどう考えればいいか、わからなかった。家族というものを作ったことがない。誰かを「連れて行く」という発想が、そもそも自分の中になかった。
「ごめん」
それだけ言った。
遥は少し目を閉じた。
「私、ずっと待ってたんだけど」
「何を」
「なんか言ってくれるのを」
風が来た。11月の風は冷たかった。遥の髪が揺れた。
「わかった」と遥は言った。「もういい」
踵を返した。
拓人は呼び止められなかった。
3日間、遥から連絡が来なかった。
拓人はその3日間、練習が終わると駐車場に遥がいないことを確認してから車に乗った。
その確認をしている自分に気づいて、少し驚いた。
いないことを確認している。でもいてほしいと思っている。
欠け方がわかるようになっていた。
4日目の朝、拓人は代理人に電話した。
「MVP表彰式の夜、空けておいてくれ」
「何かあるんですか」
「用事がある」
電話を切って、花屋に行った。
生まれて初めて、花屋に入った。「薔薇はありますか」と聞いたら「生花の方がよろしいですか」と言われた。「生花で」と答えた。何本がいいかと聞かれて「プロポーズしたいんです」と言ったら「プロポーズなら『永遠に』という意味で108本が良いと言われています」と教えてくれた。108本にした。
次にジュエリーショップに行った。
指輪のサイズがわからなかった。その夜、遥が寝ているタイミングを見計らって指のサイズを測ろうとして、起こしてしまった。
「何してるの」
「なんでもないです」
遥は半目で拓人を見て、また眠った。
翌日、遥の母親に電話してサイズを聞いた。
「あらまあ」と節子は言った。それから少し間を置いて「18号よ」と教えてくれた。
MVP表彰式は、さいたまスタジアムだった。
スーツを着た。ネクタイの結び方をチームメイトに教えてもらった。3回結び直した。それでも少し曲がっていた。
表彰式が終わった後、遥を呼んだ。
「ちょっと来れますか」
「どこに」
「新宿まで」
遥は少し間を置いて「わかった」と言った。
パークハイアット東京、52階。ニューヨークグリル。
貸し切りにした。代理人に頼んだら「えっ」と言われたが、なんとかなった。
エレベーターを降りた瞬間、薔薇の花束の下半分の花びらがばらばらと床に散った。
遥が「何これ」と言った。
「薔薇です」
「見たらわかる。なんで」
「持ってきました」
「なんで」と遥はもう一度言ったが、拓人はもう歩いていた。
テーブルに案内された。窓の外に東京の夜景が広がっていた。遥は窓を見て、それから拓人を見て、また窓を見た。
「なんなの、これ」
「話があります」
拓人は立ったままだった。座るタイミングがわからなかった。
ポケットに手を入れた。指輪のケースを取り出した。
開いた。
遥が、息を呑んだ。
「俺には家族がいない」
声が少し震えた。
今思い出すと、UCL決勝より緊張していたのではないかとも思う。
「ずっとそれが普通だと思ってた。施設を出てからも、サッカーだけやってきた。誰かを連れて行くとか、待っていてもらうとか、そういう発想が最初からなかった」
遥は黙っていた。
「なかなか言えなくてごめん。どうしたらうまく伝えられるか、一所懸命考えてた」
床に散った薔薇の花びらが、照明に照らされていた。
「でも遥と一緒にいたら、初めて家族が欲しいと思った。俺の家族になって欲しい」
沈黙があった。
遥は指輪のケースを見ていた。
それから、ゆっくり顔を上げた。
「薔薇、半分こぼれてるよ」
「うるさい」
遥は笑った。
次の瞬間、泣いた。
声を上げて、子供みたいに泣いた。ハンカチも出さなかった。ただ泣いた。肩が揺れていた。
拓人は何もできなかった。ただ立っていた。
しばらくして、遥が顔を上げた。目が真っ赤だった。
「うん」
それだけだった。
「うん」の一言だった。
でも拓人にはそれで十分だった。十分すぎた。
帰り道、二人で新宿の夜道を歩いた。
遥が「ドルトムント、一緒に行く」と言った。
「いいんですか」
「いいよ」と遥は言った。「でも一つだけ条件がある」
「何ですか」
「遥って呼んで。ずっと敬語だし、名前で呼んだことないじゃん」
拓人は少し間を置いた。
「遥」
「うん」と遥は笑った。「それでいい」
東京の夜が、二人の後ろに広がっていた。
◆次話予告◆
ドルトムントの冬は、想像より寒かった。
言葉が通じない。文化が違う。ピッチでも結果が出ない。
荒れる拓人の隣で、遥は翌朝には笑っていた。
どうやって笑えるのか、拓人にはわからなかった。
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