第5話 荒川の土手
川口に来たのは、秋が深まった頃だった。
レッズの練習試合が川口のグラウンドであって、終わった後に遥と荒川沿いを歩いた。特に約束していたわけじゃない。「送ってく」と遥が言って、拓人が「じゃあ」と答えただけだった。
夕方の荒川は、風が冷たかった。
土手の上を、二人で並んで歩いた。遥は少し先を歩いていた。振り返りもしないで、でも拓人が遅れると少しだけ歩調を緩めた。
川が広かった。
対岸の明かりが、水面に映っていた。
遥は、よく黙った。
最初は気を遣って話題を探していたが、途中でやめた。遥が黙っている時は、黙っていることに意味がある気がした。
風の音がした。
草が揺れていた。
どこかで電車が走る音がした。
「川、好き?」と遥が聞いた。
「わかりません」
「わかりません、ってなに」と遥は笑った。「好きか嫌いかでしょ」
「あまり川を見たことがなくて」
「施設、川の近くじゃなかったの?」
さらっと言った。
施設、という言葉を、遥はいつもさらっと使う。特別な言葉として扱わない。それがいつも、少し不思議だった。
「裏庭しか出なかったので」
「裏庭で何してたの」
「ボール蹴ってました」
「毎日?」
「毎日」
遥はまた前を向いた。
「そっか」
しばらく歩いた。
土手の途中に、古いベンチがあった。遥が「座ろう」と言って、座った。拓人も隣に座った。
川を見た。
暗くなってきていて、水面が黒っぽくなっていた。対岸の工場の明かりが、ぼんやりと映っていた。
「ねえ」と遥が言った。
「はい」
「事故のこと、聞いてもいい?」
拓人は少し固まった。
誰かに聞かれたことは、なかった。みんな知っていても、聞かなかった。聞きにくいとか、触れてはいけないとか、そういう空気があった。
でも遥は聞いた。
「嫌だったら言って」と遥は言った。「無理に話さなくていいから」
「いや」と拓人は言った。「別に」
別に、という言葉が出てきたことに、自分で少し驚いた。
8歳の冬だった。
家族四人で車に乗っていた。父と母と姉と、拓人。どこに行く途中だったかは、もう覚えていない。高速道路だったことだけ、覚えている。
居眠りトラックが後ろから突っ込んできた。
次に気づいたら、病院だった。
左肩から背中にかけて、火傷の痕が残っている。服を脱ぐと見える。普段は誰にも見せない。
父と母と姉は、助からなかった。
「それだけです」
拓人は言った。
それだけ、という言葉が正確かどうかわからなかった。でも他に言いようがなかった。8歳から先の話は長くなるし、たいして面白くもない。施設に入って、ボールを蹴って、レッズのユースに入って、今ここにいる。それだけだ。
遥は黙っていた。
何も言わなかった。
うなずきもしなかった。ただ、川を見ていた。
拓人も川を見た。
しばらく、二人で川を見ていた。
風が来て、遥の髪が揺れた。
「お父さん、レッズファンだったんだよね」と遥が言った。
「らしいです」
「らしい?」
「あまり覚えていないので」
「そっか」
また沈黙があった。
「でも、その縁でユースに入ったんでしょ」
「そうです」
「じゃあ、お父さんが連れてきてくれたんだね。ここまで」
拓人は返事ができなかった。
そういう考え方を、したことがなかった。
施設に入って、ボールを蹴って、ユースの試合を見たコーチにスカウトされて、ここまで来た。父の意志とか、縁とか、そういうふうに考えたことがなかった。
ただ、ボールが正直だったから蹴り続けた。それだけだと思っていた。
「そうかもしれないですね」
絞り出すように言った。
遥は何も言わなかった。
ただ、少しだけ微笑んで、また川を見た。
帰り道、駅まで歩いた。
改札の前で、遥が「またね」と言った。
「はい」
「今日、話してくれてありがとう」
「別に、大したことじゃないので」
「大したことだよ」
遥は笑わなかった。
真剣な顔で言った。
「大したことだから、みんな聞けないんでしょ」
拓人は何も言えなかった。
遥は改札を通った。振り返らなかった。ICカードをタッチして、そのまま歩いていった。
拓人はしばらく、改札の前に立っていた。
夜の駅は人が多かった。仕事帰りのサラリーマン。買い物袋を持った主婦。制服の学生。みんな、どこかに帰っていく。
拓人には帰る場所がある。施設だ。ベッドがあって、食堂があって、同じ境遇の子供たちがいる。
でもそれは、帰る場所とは少し違う気がした。
その違いが何なのか、その時の拓人にはまだわからなかった。
後から知ったことがある。
あの夜のことを、遥は日記に書いていた。
拓人が日記を読んだのは、遥が死んだ後だ。あの夜から15年以上経っていた。
日記にはこう書いてあった。
「今日、荒川で拓人くんと話した。事故のこと、少しだけ話してくれた。何も聞かなかった。ただ隣を歩いた。それでよかったと思う。でも一つだけ言いたかったことがある。言えなかったけど。お父さんが連れてきてくれた、って言ったら、拓人くんの顔が少し変わった。あの顔を見た時、この人のそばにいたいと思った。理由はわからない。ただそう思った」
拓人はその一節を、何度も読んだ。
理由はわからない。ただそう思った。
遥らしい言い方だと思った。
説明しない。分析しない。ただ、感じたことを書く。
その夜の荒川の風を、15年越しに感じた気がした。
次話予告
ドルトムント移籍の噂が出始めた頃、遥が初めて感情を爆発させた。
「私のこと、どうするつもりなの」
拓人は答えられなかった。
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また、本作とは別に、魔剣を手に戦う王女の復讐劇も書いており、戦記物としての熱量はそのままに、ファンタジーならではの逆転劇を描いています。
『魔剣に選ばれた王女 〜亡国から始まる反逆の戦記〜』
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